精霊王の名代


「隊長、例の件の中途報告書の確認をお願いします」


 紙束を手に執務室に入って来た隊員へ伏せていた顔を上げる。


「ああ、置いておいてくれ。あとでまとめて確認する」


 隊員は積まれた書類の上に新たな報告書を乗せると、失礼しますと退室して行った。

 その積まれた書類を見やり、隊長が椅子の背もたれに沈むようにもたれると、ぎしと軋む音が響いた。

 ふうと細く長い息をつき、天井を仰ぐ。


「……疲れた」


 重い響きを持ったその呟きからは、充分に疲労が滲み出ていた。

 給仕が少し前に用意したグラスに手を伸ばすが、冷えていた水はすっかりぬるくなっている。

 グラスの汗が表面を滑り、机に水溜りを作る。

 深く重い息を吐き出しながら、隊長は一番上に積まれた先程の報告書を手に取った。

 報告書の見出しには、精霊多数目撃事案についての中途報告書、の文字。

 ぱらと報告書の頁を繰り、進展がないことを確認すると、それを無造作に机へ投げた。


「精霊の騒ぎに、精霊の森の異変……」


 机に肘を付き、組んだ手に額を乗せて唸る。

 思い返せば、始めに森へ討伐に行くことになったきっかけも、精霊の森の異変だった。

 精霊の森の大樹が、仄かな燐光を時折帯び始めたからで。

 その調査も途中で浄化についてに置き換わってしまった。

 そして、少し前に街で多数の精霊の目撃が相次いだ。

 何が起きているのか。あるいは、起きようとしているのか。

 何一つ要因が掴めずにいる。

 そういえば、その多数の精霊が目撃されてから、かの精霊が訪れなくなった。

 それも何か関係しているのか。

 頭痛が痛い。そんな心地。

 難しい顔をしながら少しでも気を紛らわそうと、ぬるくなったグラスに手を伸ばし、それを一気に呷った。

 妙な舌心地のままにこくりと喉を鳴らして飲み干す。

 が、やはり冷えた水の方が心地よいな。

 眉間にしわを寄せてグラスを睨む。と。


「水が欲しいのか? なら、私が満たそう」


 瞬き一つ。グラスに水が満ちた。

 手にひんやりとした温度が伝わり、じんわりとグラスは汗をかく。

 思わずこくりと唾を飲み、すまないなと給仕に礼を言うなり、ひとくち口に含んだ。

 が。ん、と眉をひそめ、ごくりと勢いよく飲み込んでしまったために、軽くむせる。

 衝動が落ち着いたのち顔を上げれば、執務机を挟んだ対面に涼やかに笑う青年の姿。

 隊長は思わず目をむいた。

 そして、自身が手にするグラス、そこに並々に満ちる水を凝視する。

 透き通る透明に、窓から差し込む陽が踊るようにきらめく。

 それだけで清浄さが伝わり、何よりも口にした軽やかさ。

 これはまさかと、愕然としたまま呟く。


「……精霊の、水……?」


 震える彼の声に応えたのは、くつくつと喉奥で愉しげに笑う青年だ。


「ここは森ではないからな。多少の質の低下はあるが、塵や埃の不純は取り除いている。安心して口にするといい」


 空気に含まれる微細な水を集め、グラスを満たしたそれ。

 森と違い、街には塵や埃などの不純が含まれるが、それを繊細な力加減で取り除いた。

 そうした手順で精霊が用意したものを、精霊の水、と人は呼ぶ。


「……お戯れはよしてください、スイレン様」


 ご勘弁をと、ある種の疲労が滲む声で隊長は首を横にゆると振った。


「ふふ、何のことだろうか? ああ、もう少し冷えていた方が、隊長殿のお好みだったか」


 ふむ、悩むスイレンのその姿は演技めいていた。


「……ならば、ヒョオにでも頼むといい。熱を操るのは、火の性質を持った精霊が得意とすること。氷を作ることも造作ないだろう」


「…………ご勘弁ください。そんなことで、精霊のお手を煩わせることなど出来ませんし、その上……、水と火の複合魔法の氷など高価過ぎましょう……」


 そして、その元が精霊の水なのだ。

 人の手によって製氷されたものと比べると、その純度も高い。

 本当に勘弁してくれ。

 やれやれ、と。疲れた様子で隊長は項垂れる。


「金はいらぬよ」


 対してスイレンは、くつくつと愉しげなその笑みを深めた。

 その声が、ぬるりと隊長の思考に滑り込む。

 刹那。彼の中でふつふつと沸いていた何かに、かっと熱が走って弾ける。

 がたんっと大きな音を立て、隊長が勢いにまかせて立ち上がった。


「スイレン様っ!」


 鋭く飛んだ声は明らかな怒気がはらんでいて、さすがのスイレンも面食らったように空の瞳を瞬かせる。

 その様にはたと我に返った隊長は、すぐに申し訳ありませんと謝を口にする。


「声を荒げた上に、座したままで失礼致しました」


 頭を下げる姿勢は、さすが騎士と賛美したくなるものだった。

 だが、スイレンもこの空気でさすがに不味かったと思っている。

 この状況で賛美を口にすれば、それは茶化しにしかならない。


「――……いや、私の方こそすまない。少し、からかいが過ぎた」


 そこに戸惑いの色を感じ、隊長がおそるおそる顔を上げると、小さく眉が跳ねた。

 目の前にいたのは青年姿の精霊ではなく、白狼の精霊だった。

 それにどこか沈んだ面持ちで、耳が後ろに倒れている。

 失礼だとは自覚しながらも、これではまるで、叱られた犬のようではないかと思ってしまう。

 隊長の表情が緩む。ふうとひとつ息を吐き出すと、改めて顔を引き締めた。


「解っていただけたのなら、私は構いません」


 様子を伺うようにスイレンが隊長を見やる。


「ですが、改めて伝えさせていただきます」


 スイレンの空の瞳が緊張したように揺れた。


「人の世で精霊の水は、催事の際にて扱う神聖な水なのです。それを普段の飲み水になど……畏れ多い……。気軽に振舞ってはなりません」


 そこには明確な線引の意志があった。

 これはスイレンという存在を軽んじることに繋がる。

 彼はそんな近しい存在であってはならないのだ。尊い存在なのだ。

 精霊とはそういうもの。少なくとも、隊長のような立場にとっては。

 でなければ、精霊の信仰は失われる。


「解って、いただけますね。精霊と人は隣人であって、対等ではないのです」


 その真っ直ぐでひたむきな目は、スイレンに反論を許さない。

 それだけ強固な想いということだ。

 スイレンの胸中に一抹の寂しさが降り積もる。

 先程スイレンは、パリスに友人だと口にしたばかりだった。

 それを今度は、対等になどなれないと――。

 空の瞳が揺れる。

 これがパリスと隊長の違いだろう。

 常に、傍に、精霊を感じて過ごしてきたか否か。

 他者に己の価値観を押し付けるなという考えもある。

 だが、これは必要で欠くことなど出来ない価値観だ。

 人による精霊の信仰が失われれば、精霊自体の存在が危ぶまれる。

 人の信仰があるから、精霊は人の隣人として、共に並び歩くことが出来ている。

 だから、スイレンの答えはひとつしかない。


「――ああ、解っている。すまなかった」


「いえ。こちらこそ、出過ぎた発言でした」


 ここでようやく、隊長は身体から力が抜け、ほっとひと心地つくことが出来たのだった。




   *




 執務室。

 隊長と青年姿のスイレンはローテーブルを挟み、向かいでソファに座っていた。

 彼らの前に給仕がソーサーに乗ったカップを置いていく。

 スイレンがここへ現れるようになった当初は、精霊への緊張のためか、震える手で今にも溢してしまいそうだった。

 それが、今では落ち着き一給仕に徹している。

 置かれたカップにスイレンが礼を述べれば、給仕はにこりと笑んで目礼で応える余裕まである。

 成長したなあ、とスイレンはそっと感嘆の息をもらした。

 給仕が下がるのを待ってから、隊長が口を開く。


「それで、スイレン様」


 空の瞳が隊長の方を向く。


「今回は何用でこちらに? 浄化については、数日前に話したばかりかと思いましたが……」


 その表情は緊張で固かった。

 膝上で組んだ手に力が込められ、無意識か姿勢が前へとのめる。

 組んだ手がじんわりと汗ばんでいるのを隊長が自覚すれば、息が苦しく感じ、俯いた。

 対するスイレンは、そんな彼に構わずカップへと手を伸ばす。

 かちゃと鳴る陶器の音に隊長が顔を上げると、優美な所作でスイレンがカップに口をつけるところだった。

 茶を口に含み、美味しいなと頷いてカップをソーサーへ置く。

 その一連の動作に目が逸らせなかった。

 見惚れるとはこのことだろうか。

 一体どこでその所作は身に付けるのだろうと、内心で首を傾げる。


「ん、どうかしたか?」


 不思議そうに瞳を瞬かせる様すら品を感じる。

 が、その奥に愉しげな色を見つけ、隊長は誤魔化すように咳払いをした。


「いえ、何でもありません。失礼致しました」


「ふふっ、そうか」


 くすくすと肩を暫し揺らしたのち、スイレンが改めて隊長へと向き合う。

 彼のまとう空気が色を変えた。

 ぴしっと隊長の背筋も伸びる。


「今日はスイレンとして来たのではない」


 スイレンの声音はいつもと違い、重くずしりと室内に響く。

 荘厳だ。隊長の身体が強張った。


「我らが王、精霊王の名代だ」


 その言葉に息が止まる。

 さすがに予想していなかった。

 想像以上の大物に、まるで息の仕方さえ忘れてしまったようだ。


「……せーれー、おう……さま、の……」


 掠れた声で辛うじて繰り返す。

 それにこくりとスイレンは頷き、真摯な眼差しで隊長を据える。


「王は精霊界から出られぬ身ゆえ、私が言づかってきた」


「……精霊王様のお言葉となれば、私が拝聴するわけにはいきません。差し支えなければ、何についてかをお伺いしても……?」


 緊張で震えそうな声を何とか抑えながら隊長は絞り出す。

 内容によっては、国へと報告せねばならないものかもしれない。

 隊長といえど、一介の騎士でしかないのだ。

 己だけで判断は下せない。


「構わない。先日、ヒトの世を精霊が騒がせた件だ」


 それはここのところ隊長を悩ませていた案件だ。

 次にスイレンが現れた際に訊ねようと思っていた。

 なのに、なんだ。精霊王のお言葉だと。

 先日の騒ぎはそれ程に大事なのだろうか。


「……そう、身構えないで欲しい」


「…………そんなに、強張ってますか……?」


「ああ、そう見える」


 スイレンが苦く笑う。

 相手方に動揺を与えているという自覚はある。

 だが、もう隠し通すことは出来ないだろう。


「我らはヒトの世を騒がせ過ぎた。その詫びと――その理由わけだ」


 騒がせ過ぎたのに、それが詫びだけでは筋が通らない。

 互いの線引は必要だ。しかし、その境界を越えたのはこちら側だ。

 詫びだけでは済まない。それ相応の理由がなければ、相手も黙らないだろう。

 それが誠意というものでもある、と思う。

 相手はこちらの境界を越えないでいてくれているのだから。


「……理由わけ、ですか」


 隊長が瞠目し、ごくりと喉を鳴らした。

 これは、既に己には抱えきれない案件だ。

 領の方へ報告しなければ。

 膝上の拳を握り、すっくと立ち上がる。


「スイレン様。私では判断がつきませんゆえ、申し訳ありませんが少しお待ちください」


 スイレンに対し一礼すると、隊長は執務室を慌ただしく出て行った。

 ぱたんと閉じられた部屋の扉を見やり、スイレンはふうと深く息をついてソファに沈み込む。

 大事にしたくはないが、ヒト側にしてみれば大事になってしまうだろう。

 ヒトの世というのは、いつの時も面倒なものだ。

 申し訳なさと煩わしさが混ざった息を、スイレンはもう一度吐き出すのだった。




 その後、国にまで報告が上がる。

 人の時間感覚で永らく精霊王が臥せり、表に出て来なかった理由を知ることとなった。

 当代の精霊王に子がいたことが判明したのだ。

 だからといって、これが表沙汰になることはない。

 その精霊が次代の王というわけではないから。

 だが、この精霊王からの名代は、永らく臥せっていた精霊王が動き始めたことを意味する。

 その始めが、精霊の春と呼ばれるものだった。


 この事は密やかに記録書に記されることとなる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る