またね
ぼくもすぐにもどるから。
そうティアに言い置いて、シシィは彼女と別れた。
*
草地を踏む音が朝焼けの森に響く。
その音は朝露で湿っていた。
とったとったと歩幅あるゆったりとした足音に、とたたと歩幅のない軽快な足音が追いかけて。
葉の表面を滑った露がぴちょんと白の子狼に落ちれば、子狼の耳がぴっと弾くように動く。
それにくすりと笑うのは、彼の前を歩いていた父狼。
『……ちちうえ、わらうなよー』
むうと膨れたシシィの声音に、スイレンは悪い悪いとまた笑った。
悪びれる様子はない。
振り返らずとも、スイレンにはシシィの様子が伝わるらしい。
『…………』
それが何だか気に入らない。
不機嫌に顔をしかめたシシィが、たっと地を軽く蹴り上げた先はスイレン。
瞬間。うお、とスイレンから驚きに染まった声が上がった。
『なんだよー、シシィ』
顔だけで振り返ると、背に乗ったシシィと目が合う。
『……べっつにー』
ぶっきらぼうに応える彼の様は、無性に可愛くスイレンの目に映り、愛おしそうに目を細めて笑う。
その視線がシシィにはかゆく照れくさく、誤魔化すようにスイレンの耳をあにあにとしゃぶるのだった。
白狼の親子の声が、しんと静かな朝焼けの森を賑やかせていた。
◇ ◆ ◇
薄暗い中、ジャスミンはしぱしぱと瞳を瞬かせる。
室内はまだ薄暗い。けれども、カーテンで閉じられた窓は仄明るい。
身体がじんわりと汗ばんでいる。
あれから一晩経ったのか。
と思うには微妙なところかなと、どこか遠い心地で考える。
意識を失う直前と比べれば、身体は幾分か軽くはなっている気もする。
だが、汗で引っ付く服が煩わしい。
と。そこでじんわりと思い出した。
視線だけを動かし、ゆったりと部屋を見渡す。
それだけの動作でも気怠い身体には億劫で、息も上がりそうになる。
床に散らばっていたものは片付けられていた。
比較的無事だったものは、何となくで元の場所に戻されている。
父が片してくれたのだろうか。
そういえば、裂かれたはずのベッドのシーツが真新しいものになっている。
だが、壁や床に刻まれた爪跡はそのままだった。
その生々しい爪跡が、ここで起きた出来事を思い出させる。
「…………」
ジャスミンの心に、重くて暗い何かが居座るように凝る。
ごろりと横向きに身体を転がした。
その動作だけでも息が上がりそう。
だからだろう。再び汗がふき出し始め、じんわりと肌が湿り始めた。
身体が重くて、気怠く、熱っぽい。
今は波が引いているから、まだ動けるだけ。
体調の波が再び襲ってくれば、あの時みたく、動くこともままならないだろう。
身体が軋むように痛むのは、人の身には過ぎたオドが体内で暴れるから。
身体が熱を発するのは、耐えられないと悲鳴を上げているから。
それは、人と人ならざる者の合いの子だから。
人の身には過ぎたものを持つがゆえに。
そういえば、と。ジャスミンは揺蕩うような意識の中で思い出す。
昨夜は満月だった。
だからか、と一人納得する。
そんな日に力を抑制させることなく開放した。
それは、苦しくなるよね。これはある意味自業自得だ。
頻度は月に一度程、こうしてジャスミンは体調を崩す。
どうやら、彼女が保有するオドは月の気に惹かれらしい。
いつもは大人しく過ごし、風邪程度に抑えている。
けれども、昨日は事情が事情だったから。
「……――」
身体の熱を逃がすように息を吐く。
薄闇に包まれた室内を見渡せたのは、目が獣のそれのままだから。
常は金の色のジャスミンの瞳は、未だ夜目のきく紅の色。
それは彼女の中で、人の身には過ぎたオドが活発になっている証拠。
少しずつだが、再び火照り始めた身体。
気怠さも相まってか、身体がずしと重みが増した気がする。
無意識でジャスミンの手がシーツを掴み、くっと彼女の口から苦しげな声がもれた。
一瞬の小さな波をやり過ごし、ふと身体の力を抜く。
揺蕩うような意識は、水の中へと沈むように遠くなる。
が、その刹那だった。
意識がふわんと浮上する。
「…………」
ほ。水面へ顔を出し、息継ぎをするように息を吐く。
冷えた周囲の気が火照った身体から熱を奪い、ふっと軽くなった気がした。
呼吸が落ち着く。
戸惑いと困惑で瞬く瞳は、金と紅をゆっくりと繰り返し、やがて金で大人しくなる。
「あ……あれ……?」
自身を包む気の気配に覚えがある。
ジャスミンの瞳が目一杯に見開かれて。
その気配が昨夜触れたものだと思い出した時。
まだ怠さの残る彼女の身体が弾かれたように起き上がった。
急いでカーテンを開き、窓を開け放つ。
ひゅっ、朝戸風の如くに風が吹き込んだ。
すると。
風に紛れた冷たい、けれども心地の良い水の気が誘うように揺蕩った。
それが誘うままに視線を向け、遠くを見ようとするジャスミンの意思に応え、瞳の色が紅へと変じる。
「!」
瞳の瞳孔が縦に伸びた。
その瞳が彼女の見たかったものを映し出す。
対面に立ち並ぶ家屋の、その切妻屋根。
その上に白い狼と、その足元に小さな白い狼の姿。
登る朝日が白狼の親子を照らし、その光を弾いて白銀に見えた。
それは見惚れる程の美しさで、知らずジャスミンの瞳から涙が零れた。
どうしてか、痛みが胸を焦がす。あまりの懐かしさに。
初めて見るはずなのに。変だなと思いながら、目を細めてジャスミンは笑った。
「……きれい」
と。
さわと柔らかな朝風が静かに吹き、ジャスミンの髪を揺らす。
瞬間。彼女の獣の耳が立つ。
風に溶け込む音を確かに拾った。
驚いて目を見開き、瞬いて、遠くの屋根上に立つ白狼の親子を、子狼を凝視する。
すると、子狼が破顔して、次にジャスミンが瞬いた時には、その姿は見えなくなっていた。
「…………」
細く吐いた息が、遊ぶ朝風の中に溶ける。
刹那、ジャスミンは眉を苦しげにひそめた。
また熱が身体に戻って来る感覚を自覚しながら、彼女の身体はゆっくりとベッドへ
息継ぎをするように息をし、ジャスミンは静かに目を閉じた。
舞い戻ったその苦しさは、無理して身体を起こしたからだろう。
今は休めるために眠ろう――。
また、あの子狼には会えるから。
だって、彼は言葉をくれた。
またね――と。
それがぽっと心に灯る。灯っている。
◇ ◆ ◇
あの少女は感が鋭いらしいので、スイレンは今度は丁寧に、周囲の空気中に漂うマナへと働きかけた。
空気中のマナが驚いたように動き始め、認識という事柄を曖昧にして行く。つまりは認識阻害。
おそらく少女からはもう、こちらの姿は認識出来ないだろう。
ふっと力を抜くように息を吐いた時。
『――ねえ、ちちうえ。ぼく、ちゃんとヒトのことばで“またね”って、いえてた?』
シシィの不安げ眼差しがスイレンを見上げた。
スイレンはそんなシシィを見下ろし、安心させるようにひとつ頷いてから微笑む。
『おう、ばっちしだ』
『よかったああ……』
シシィが安堵したようにゆるりと笑う。
『ちちうえが、ことばをおしえてくれたからだよ。ありがとう』
すりと身体を擦り寄せ、そのままスイレンの懐に潜り込む。
スイレンの前足と前足の間からひょこと顔を出したシシィは、再び家屋へと視線を投じる。
もう既に、その窓に少女の姿はなかったが、それでもシシィはじいと見つめていた。
そんな我が子をスイレンは見つめる。
自分が影になってしまって、我が子の表情は窺えない。
でも、それでも、彼の雰囲気はどこか、ちょっぴりとだけ大人びている気がして、少しだけ寂しさが胸に降り積もった。
逃さないように、閉じ込めるように、シシィを前足で捕える。
彼は驚いたのか、スイレンを見上げて不思議そうに瞳を瞬かせている。
その表情が愛おしく、そっと顔を寄せて額を重ねた。
シシィがくすぐったそうに小さく声を立てて笑う。
それが一層、スイレンの胸を疼かせた。
我が子が抱えるもの。それをスイレンは、ヴィヴィから大体のことを聞いていた。
だからだろうか。スイレンは予感している。
この子は精霊の感覚で近いうちに精霊界を出ていく。
“外”へと飛び出していく。
それをスイレンに止めることは出来ない。
だから。せめて、と。スイレンは静かに願う。
そんなに早く、大きくなろうとしないでくれ――と。
『――シシィ、帰ろうか』
そっと小さく、顔を寄せて我が子へ囁やけば。
『うんっ! ちあがまってるし、ははうえもまってるもんねっ!』
元気な声と共に、無邪気な笑顔が返ってくる。
それに目を細めて笑い、返事の代わりに、幼子の鼻先を軽く食んで身体を離す。
『さあ、いくぞ』
鼻先を食むのは狼の愛情表現。
歩き出したスイレンの背を、ちょっと照れくさそうにしていたシシィが慌てて追いかける。
いつの間にか、白狼の親子の姿は、朝の街に溶け込むように消えていた。
もう既に気配も遠く、目覚め始めた街の気配に呑まれる。
次に白狼の子精霊が街へと現れる時は、またねの続きが始まる時なのだろう。
だが、次に彼がこの街へと現れた時には、もうこの街に少女の姿はなかった――。
精霊と人、その時の流れは違う。
だから、精霊と人は廻るのだ。
――第一部、完――
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