やらなくちゃいけないこと


『――出払っていた精霊達も、既に精霊界へと戻ったようですね』


 ヴィヴィが閉じていた目を開く。

 精霊界に在る本体から流れてきた情報だ。

 ヴィヴィがスイレンを見やれば、彼も了解したとひとつ頷く。が。


『だけど、ヴィヴィ。――ヒトの世を騒がせた過ぎた』


 少しだけ厳しさを含んだスイレンの物言いに、ヴィヴィは視線を落とす。


『わかっています。多くの精霊をこちらへ送りすぎました』


 今でも肌で感じ取れる。

 ヒトの街の気配がざわついている。

 あれではきっと、聡い者は精霊の気配に気付いているだろう。

 気が急くばかりにそこまでの配慮が出来なかった。

 これはあとで、皆で対処を考えねばならない。

 ふっと細く吐いた息は、しんとした朝の空気に溶けた。

 彼女は腕に抱いていたシシィをスイレンへ託すと、くるりと彼らに背を向けた。


『それでは、私は一足先に精霊界へと戻ります』


 肩越しに振り返ったあと、ヴィヴィの姿がほるりとほどけ始め、彼女が淡く笑んだ頃には解けていた。

 その場に残ったのは、彼女の残り香のような残滓だけで。

 それもやがて、暁風ぎょうふうに吹かれて溶けていった。

 今頃は精霊界に在るヴィヴィの本体が目を覚ましている頃だろう。

 暁風に髪を遊ばれながら、スイレンは静かにそう思った。

 そんな彼に、ティアの母が遠慮がちに声をかける。


『……スイレン様。私達も精霊界へと戻らせていただきます』


 スイレンの空の瞳が母鳥へと向けられ、ちらと母鳥は隣の娘、ティアを見やる。

 両隣を両親に挟まれたティアは、何だか少しだけ居心地が悪かった。

 先程泣いたことが、今更ながらに気恥ずかしさを覚えさせる。

 が。


『少しでも早く、娘を精霊界へと戻らせたいですし』


 そんな母鳥の言葉に、ティアは反射的に声を上げた。


『ち、ちょっと待ってっ!』


 一同の視線がティアへと集まる。

 その中。シシィのそれだけは不安そうに揺れていた。


『私、まだ戻らないわ。やらなくちゃいけないことがあるの』


 そう、やらなければいけないこと。

 これは“ルイ”の想いを受け取ったティアが、やらなければいけないことなのだ。

 “彼女”が大切に想っていた彼らのその後を見届ける。

 それが“彼女”の心残り。そのカタチがティアなのだから。

 そこから初めて、ティアも自身と向き合える気がするのだ。

 今はいろんなことが絡み過ぎているから。

 己の気持ちと素直に向き合うには、その絡みをほどかなければならない。

 これは“彼女”のためではない。

 自分のためにやらなければいけないこと。

 ティアは真摯に母鳥を見上げる。

 琥珀色の瞳に滲む、力強さ。

 それを確かに母鳥は認めた。

 数呼吸ののちにゆっくりと嘴を開く。


『……あなたの想いの強さはわかったわ』


『じゃあ……』


『――でも、それは今すぐにしなくちゃいけないこと?』


 母の返しに、ティアは言葉を詰まらせた。


『それ、は――』


 言い淀む。それが、答えだった。

 やらなければいけないこと。

 だがそれは、確かに今すぐにしなければいけないことではない。

 気持ちだけが先走っていた。そのことに気が付く。

 でも。まだ。と、燻る気持ちもある。

 揺れ惑う瞳がその証拠だ。

 もう一度見上げた母の瞳は、力強い光を宿していた。

 そこに宿るのは、しっかりとした堅い意志の色。

 折れてくれる気は、ないようだ。

 ティアの瞳には逡巡の色が滲む。

 と、ふいに母の瞳が瞬き、不安定に揺れた。


『ママはね、ティアが心配なのよ』


 頼りない声だった。


『何があったのか、精霊王様から大体のことは伺ったわ。……あなたにもう一度会えて、本当によかったと思ってるの。本当に』


 言葉尻になるにつれ、震えをはらむ。


『ママは、もちろんパパだって、ティアが大切なの。失いたくないの。それはわかってくれる……?』


 懇願のような言葉に、ティアは胸を詰まらせた。

 こくりと静かに頷くと、目に見えて母の顔が、ほっと安堵に緩んだのがわかったから。

 もう、反論の言葉をティアが紡ぐことは出来なかった。

 ここまで言われてしまえば、抗うことも出来ないし、したくもなかった。

 同時にティアは己を恥じる。

 母にここまで言わせてしまったことを。

 自分のことばかりに頭がいっぱいで、周りに目を向ける余裕がなかった。

 そんな状態で、やらなければいけないことが出来るのだろうか。答えは、否だ。

 “今”を積み重ねているのは“ルイ”ではない。ティアなのである。

 それを、見失ってはいけない――。

 瞑目したのち、ティアは心を定めた。

 再び開いた瞳は、真っ直ぐ母を見上げる。


『……ママ。私、帰るよ。それがきっと、今の私がやらなくちゃいけないこと、なんだよね……?』


 問うような声。ティアがへにゃりと笑う。

 やりたいこと。やらなくちゃいけないこと。志望と必要事。

 それらがないまぜになってへにゃりと現れる。

 母鳥は咄嗟に嘴を開きかけるも、結局は何も言葉に出来ずに閉じた。

 そんな彼女達に割って入る声。


『――そーだね。ティアちゃんは精霊界へ戻った方がいい』


 ティアの声に応えたのは、それまで黙っていたスイレン。

 すっと目を細め、ティアを真っ直ぐに見下ろすその視線は、彼女の縦一文字の痕に向けられていた。


『シシィが君という存在に編み込んだ縛りは、まだ完全には馴染んでいない』


 スイレンの腕の中のシシィが、落ち着きなくもぞと動く。


『それは、馴染ませる必要がある。……また不意に乱れるよ』


 身に覚えがあるだろ、と。

 忠告するような口調。

 そしてティアには、確かに身に覚えがある。

 身体が突然熱を持ち、意思に反してヒトの姿へと転じた。

 ちょっとした衝撃で小鳥の姿へと戻った。

 あれは、そういうことだったのだろうか。

 ティアの表情から察したスイレンが、彼女へひとつ頷いてみせる。

 と。さくと草地を踏む音が、静かな朝焼けの空気を震わせた。


『おっと、シシィ……?』


 戸惑うスイレンの声が響くも、その声に応えることなく、彼の腕から抜け出したシシィが向かったのはティアの前。

 ちょこんとお座りしたシシィは、じいと彼女を見つめ。


『……?』


 訝るティアへふいに身を乗り出して。


『――――っ』


 ティアの嘴をぺろとひとつ舐めた。

 瞬間。ティアは身体を硬直させる。

 暁風が朝の森を静かに揺らすも、葉擦れの音は、ティアの耳をすり抜けていく。


『――……』


 けれども、それも少しの間ののちに、シシィの柔らかく笑う顔で一気に緩んだ。

 そして、振れる彼の尾が目に入って、彼女は一瞬にして悟る。

 ああ、懐かれた犬に顔を舐められただけか。と。

 たまたま場所がそこだった、というだけだろう。

 けれども、そのたまたまの場所があれだった。

 小鳥の姿といえど、嘴。

 これは“ルイ”からの置き土産だと思っているが、いろんな感覚――価値観というのだろうか――がヒトのそれのために、別の意味にどうも捉えてしまうのだ。

 そう、小鳥の姿といえど、嘴。

 別の意味に捉えてしまい、一瞬思考も含めて身体が硬まってしまった。

 が、周囲の反応や当のシシィの反応から、別に“そーいう意味”のものではないようだ。

 慌てたのはティアだけ。

 なるほど。自分は精霊としての感覚も培わなくてはならないらしい。

 でないと。


 ――心が持たないわ……


 疲弊を多分に含んだ息を吐き出すと、彼女を慰めるように風が吹き抜けた。


『ちあ、どーしたの?』


 そんな彼女の様子を不思議に思ったシシィが首を傾げる。


『別に……何でもないわ……』


 疲れたように笑うティアに、シシィはさらに首を傾げるのだった。

 それに小さく苦笑し、今度はティアが問いかける。


『それより、あなたは?』


『んー? なにが?』


『だから、私に何か用だったんでしょ?』


 その言葉で、あ、とシシィが何かを思い出したように声を上げた。


『そーだった……!』


『あなたね……』


 呆れた表情を浮かべるティアに、シシィは真剣な瞳を向ける。


『ぼくもね、ちあはせーれいかいにもどったほうがいいとおもうのって、いおうとしてたの』


『…………』


『とゆーよりもね……』


 言い辛そうに口をつぐみ、俯くシシィに、何よ、とティアは不満そうな声で続きを促す。

 しばし、そんな彼女をじいと見詰めたのち、シシィはおずと続きを口にした。


『せーれいかいに、もどってほしいの……』


 それは乞う声だった。


『ぼくはもう、あんなおもいをしたくないの……』


 すぼむ言葉尻。

 これは請うような声にも聞こえた。

 つきん、小さくティアの胸が軋む。

 これがとどめだったのだと思う。

 ティアの胸中に燻っていた気持ちが、ぼろと崩れて落ちていった。


『――戻るわ。……帰るわ、精霊界に』


 シシィが顔を上げれば、観念したようにティアが苦く笑う。

 対象にシシィの顔がぱあと明るくなる。


『ちあ』


 安心したと言わんばかりに、シシィはティアへ身を寄せて身体を擦り付ける。

 その様はまさに懐いた犬にしか思えなく、ティアはやれやれと疲れたように息をついた。

 が。まあいいか、とも思い始めていた。

 自分もまだ、己の心の振り幅に気が付いたばかりなのだから。

 全てを求める必要もないし、今の距離を一気に変えようとする必要もない。

 今はただ、シシィが自分のことを見てくれている。

 その事実だけで十分なのだ。

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