親と子


 尾は千切れんばかりに振られ、すりと身を擦り寄せて押し倒された様は、まるで犬に懐かれたようで。

 何だかもう、先程までの空気も霧散してしまったなあ。と。

 ティアはシシィにされるがままで静かに思った。

 そろそろ退いてもらおうかとティアが思い始めた頃。

 かさ、と草葉を踏む音がした。

 シシィの尾の動きが止まり、彼の両の耳が立ち上がる。

 彼は後方を振り返るなり、気分を害したとばかりにぐると唸り声を上げた。


『……シシィ、どうしたの?』


 戸惑う声をティアがもらした。

 シシィがまとう、ぴりついたような空気は苛立ちだ。

 彼が射抜くように据える先は、先程音がした方向で。

 だが、ティアは風を詠んで知っている。

 音を立てた主は彼女も、彼も知っている存在。

 それはきっと鼻のいい彼も分かっているはず。

 シシィがティアのことを、ちあ、と呼んでいることが何よりの証拠。

 ティアがシシィに許した愛称は、彼女の真名が由来のものだから。

 それを他者に知られるのを避けるためだろう。

 だから、その主が近くに居るのを彼も知っているだろうとは、ティアでも予想出来ること。

 なのに、どうしてシシィは険悪な雰囲気をまとっているのか。

 身体を起こそうにも、彼が上から退いてくれないから起こせない。

 ふいにぴくりとシシィの身体が跳ねた。

 と思えば、ずしとさらに重さが増した気さえする。


『……シシィ、どいて』


 ティアがシシィを押し退けようと身をよじる。

 が、何だかむっとしたシシィは、抗うように彼女へさらに体重をかけた。


『ちょっと……!』


 抗議の声をティアは上げるも、退く気配のないシシィ。

 そんな彼女を彼の碧の瞳が見下ろす。

 そこに滲むのは不機嫌の色。

 だが、その中に寂しさの色も少しだけ揺らいでいた。


『まだ、くっついていたいっておもうのは、ぼくだけなの……?』


『ええ、そうね。あなただけよ』


 その色にティアは気付いているのか、いないのか。彼女は即答する。

 琥珀色の瞳が早く退けと訴え、瞬間、碧の瞳が据わった。

 ばちっと。碧と琥珀の二つの瞳。交差する両者の視線が、火花の如く爆ぜた。


『…………』


 ずし、シシィが体重をかける。

 これなら動けまい。

 彼の瞳にちょっと得意げな色が混ざった。

 それにぴくりと眉をひそめたのはティア。

 非力な小鳥だと思って油断しているのだろうか。

 琥珀色の瞳に仄かな怒りが揺れ動く。

 ならば、ヒトの姿に転じて放り投げてやろうか。

 小鳥の姿ゆえに無理だが、口元がにやりと暗く笑う心境だった。

 彼女の気持ちに反応したのか、周囲の風が荒立つ。

 が。


『――いつまで乗っかんてんだー?』


 間延びした呑気な声が割って入った。

 かと思えば、ティアにかかっていた負荷が唐突に消える。

 まあ、この場合は持ち上げられたとも言うのだけれども。


『ちょっと、ちちうえっ! はなしてっ! じゃましないでっ!』


 青年に後ろの首皮を掴まれたシシィは、ぷらりんと持ち上げられながらもがく。

 その青年――ヒトの姿に転じたスイレンは、目線の高さにまで彼を持ち上げると。


『……精霊界で最後に見たときは可愛げあったのに、今は可愛げないなあー』


 手の中でもがくシシィを見、嘆きにも近い声で呟いた。

 スイレンは自身の役目のために忙しくしていた近頃。

 その合間にシシィに会ってはいたが、随分と寂しい思いを彼にさせていた自覚はある。

 別れ際にはいつも、それを強く感じていた。

 寂しいのに言えない。言ったらダメだから。だって、自分はいい子だから。

 そう思っていることは知っていた。わかっていた。

 だが、それに甘えていたのはスイレン自身だ。

 己に課せられた役目を優先したのだから。

 そこまで思って、スイレンは嘆息する。

 それがいけなかったのだろうか。

 彼の目の前にいる今のシシィは、随分と反抗的な目で睨んでいる気がする。

 もがくのに疲れたのか、ぷらりんと揺れながら、シシィは静かにスイレンを睨んでいる。

 これは気のせいではないな。

 膨れる様はまさにそれだろう。

 不機嫌な面をしている。


『……父上、ちょっと寂しい』


 哀愁めいた何かがはらむ声が小さくもれた。

 と。


『――寂しさを埋めるものをみつけた、ということでしょう』


 そんなスイレンに応える声。

 いつの間にか少女姿のヴィヴィがスイレンの横に立ち並び、彼の顔を見上げる。

 と、スイレンも彼女を見下ろし、空の瞳を揺らした。


『それは嬉しいことですよ』


 彼の視線を受けとめ、ヴィヴィの瑠璃の瞳が柔らかく笑む。


『……そーなんだけどさー』


 それでも物言いたげなスイレンに彼女はくすくすと笑った。

 が、そんな彼女も、時折寂しそうに瑠璃の瞳を揺らす様を、スイレンは見逃さなかった。

 一方のシシィは、突然現れた少女を訝しげに見つめ、ふと瞳を瞬かせた。

 気配が似ている気がする。

 間見えたのは数えるくらい。

 だけれども、胸を焦がすくらいに恋しかった気配。忘れるはずがない。

 それが今、目の前に確かに在る。


『……はは、うえ……?』


 呆然と呟いた言葉。多分に戸惑いが含まれた声。

 小さな呟きだったけれども、少女にはしっかりと届いたようで。

 改めてシシィへと向き直った彼女は。


『はい、母上ですよ』


 と、柔らかに笑みを深め、シシィへと手を伸ばして彼を包んだ。

 それはまるで、幼子が気に入りのぬいぐるみを抱き抱える様だったが、それでも、彼を見下ろす彼女の眼差しは慈しむ母のそれだった。


『ふふっ。シシィはふわふわなのですね』


 シシィを腕に抱いたヴィヴィは、毛並みを堪能するように頬を寄せ、小さく感嘆の声をもらす。

 母に触れられたという記憶のないシシィは思わず身を硬くする。

 だが、母が頬を寄せる感触に、次第に緊張がほぐれ始めて、シシィはくすぐったさに身をすくめた。

 それと同じくして、身を包む冷たさに身を震わす。

 でも、身を震わすその冷たさは柔らかくて不快ではない。

 沁み入るような冷たさは、身体に刻まれた傷から熱を奪っていく。

 それが治癒だと気付いて母を見上げれば、ふにと笑う瑠璃の瞳が自分を見下ろしていて、何だか恥ずかしくて目を逸らした。

 隣ではその様を目にしたスイレンが何やらぶつぶつと呟く。

 なんだよ。母上にはそんな態度で、父上にはあんな態度なのかよ。

 不満気に呟く様は、まるでいじけた子供のようだった。




 ようやく身を起こせたティアは、乱れた羽毛を整えるようにくちばしでつついたのち、そんな親子を眺めていた。

 微笑ましい様子に、自然と顔が綻ぶ。

 母親に抱かれたシシィの顔が、戸惑いと照れで染まっている。

 それが、微笑ましい。

 彼がどれだけ母への寂しさを募らせていたのか知っているから。

 よかったね、と胸中で囁き、空を仰ぐ。

 心に浮かぶ面差しは、“ルイ”ではなくティアの母と父。

 会いたいなあ、と自然に思う。

 気が付けば空は、いつの間にか白み始めていた。

 夜が、明ける――。と。


『ん?』


 白み始めた空に浮かぶ黒い点をみつけた。

 目を凝らしてみると、それはどうやら二つあるようで。

 この時点でティアの背筋に嫌なものが走った。

 会いたいなあと思ったのはつい先程のこと。でも、この瞬間ではない。


『……やだ……あの点、段々と大きくなってないかしら……?』


 引きつったような声でぼやく。

 たらり、と。伝うはずのない汗が伝った気がした。

 これは、そう。嫌な予感、というやつだ。

 反射的にティアが背を向けて逃亡を謀ろうする。

 が、しかし。黒い点は彼女のそれを見逃すことはなかった。

 黒い点の二つの内の一つが急激に――否、急速に大きくなる。

 距離を詰めるように翼を折り畳み、急下降に入ったのだ。

 それの視線が逃すまいとティアに鋭く突き刺さり、彼女をその場に縫い留める。

 その視線に耐えらなかったティアが思わず振り返ってしまえば。


『んげっ』


 怯んだ身体は、もう、動かせない。

 気が付けば、ティアの身体は押し潰されていた。

 正しく言えば、背にのしかかられて動きを封じられていた。

 ティアよりも一回り以上は大きな鳥。

 彼女と同じ淡い黃の羽毛。

 けれども、彼女と違って頭の飾り羽は長く後ろに垂れ、尾羽根も長く美しい。

 のしかかられるのは何度目だよと、思わず遠い目をしかけるティア。

 そんな彼女に。


『ティア』


 重く、ずしりとした声が降りかかり、ひえ、と引きつるような声は何とか飲み込んだ。


『ママ、あなたにきちんと言っていたわよね?』


 後頭部に圧を感じても、怖くて振り向けない。

 たらたらと汗が流れる感覚がするようだ。


『……はい、言ってました』


『――じゃあ、なんて言ってた?』


 娘にのしかかった母鳥が、娘と同じ琥珀色の瞳をすっと細める。

 そこに宿る光は苛烈だ。

 それを肌で感じながら、ティアはおそるおそる言葉を紡ぐ。


『…………“外”には出ちゃダメ。……あなたはまだ危ないから』


『そうね。よく覚えていてくれて、ママは嬉しいわ』


 嘘だ。とても嬉しそうな声じゃない。

 硬直した身体でティアは静かに思う。

 瞬間。彼女が肌で感じていた空気が色を変えた。

 重くずしりとした空気が、ひりつくような鋭さに。

 反射的に彼女が身構える――前に、後頭部に痛みが突き刺さった。


『いっ!?』


 あまりの鋭さに、彼女の琥珀色の瞳には涙が滲む。


『嘴で刺さないでよー……』


 確かに自分が悪かったけれども、何も突き刺す――語弊はある――ことはないではないか。

 抗議しようと顔だけ振り返る。

 が、その瞬間ティアは言葉を続けられなかった。

 そこに在るのは怒りだと思っていた。

 けれども、母の瞳に在ったのは。


『――もう一度、会えて良かったわ』


 母鳥の琥珀色の瞳が揺れたかと思えば、彼女の視線はティアの左目、縦一文字の痕に向けられて。

 そのまま彼女は、すっと頭を垂れて顔をティアに寄せる。

 触れる箇所から、互いのぬくもりが伝わって行く。

 くるぅと小さく声をもらしながら、母鳥は何度もティアに身を擦り寄せた。


『……心配、したのよ?』


 囁くような声がティアに届く。

 その声が、震えていた。

 それに気が付いた途端、つんっ、とティアの何かが詰まる。

 思い出すのはここまでのこと。

 もしかしたら自分は、もう二度とこのぬくもりに触れられなかったかもしれない。


『……っ……ご、ごめっ――』


 そう思ったら、もう無理だった。

 ティアの瞳がふいに揺れ、膜が張り始めて。


『――……ん、なさ……い……ぅっ』


 それが剥がれ落ちる頃には、ひっくと嗚咽が堪え切れなくなっていた。

 ぽろぽろと剥がれた膜は、涙となってティアの瞳から零れ落ちる。

 次は彼女の方から母鳥へ身を擦り寄せた。

 実感出来るように。

 ちゃんとここに在るのだと、自身の存在を実感出来るように。確かめるように。

 何度も、何度も。

 ティアの中の“ルイ”が、遠くで穏やかに笑った気がした。

 よかったね、の声は誰のものか。

 ふわりと舞い降りた父鳥は、そんな親子を静かに見守っていた。

 その眼差しは柔らかで。あたたかい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る