決めたこと
それは、ティアが部屋を抜け出した頃まで遡る。
◇ ◆ ◇
頬に熱が走ったかと思えば、次の瞬間には痛みが走る。
手の甲でそれを拭うと、ねっとりとした感触と共に、新たな鉄の匂いが広がり鼻腔を突いた。
すでに裂かれた傷は頬以外にも、腕や腿にも幾つか。
夜だというのに、部屋を満たすのは夜の静寂ではなく、獣のような荒い息づかい。
否。獣の息づかいだ。
はあと荒く吐き出す吐息には、興奮したような熱がはらむ。
何かが壁を蹴り上げた。
「――――っ」
はっ、と。呼気がもれる。
熱を帯びた短な息を吐き出し、咄嗟にジャスミンは前へと転がった。
すぐに身体を起こし、壁を背に立ち上がると、定めるようにしかとそれを据えて迎える。
鋭く据える瞳は紅。その眼は夜も見通す。
灯りがない部屋でも、ジャスミンはしっかりとそれを捉えていた。
彼女の獣の耳も、少しの音も逃がすまいと忙しくなく動く。
普段は隠すために身に着けているものはとっくに脱ぎ捨てた。
この状況下では邪魔なだけだ。
ぐるる、低い唸り。
両の耳が瞬時にそちらへ向く。
紅の瞳はすがめ、呼吸を計る。
散乱とした部屋。
ベッドのシーツは裂け、中身は飛び散った。
森からもらい、大切に棚に並べていた木の実は床に転がって。
同じく森からもらった草花は、栞にしようと並べていたのに、踏まれてひしゃげた。
そして、たった今――つい先程のことだ。
壁に貼っていた絵を蹴られ、破かれた。
ジャスミンの紅の瞳に舞い上がった紙片が映り、それが寂しげにゆれる。
破かれた絵は彼女が一生懸命に描いたものだった。
自分と母と父と。そして、もうすぐ生まれるであろう存在を描いた、家族の絵。
描き上げたものを両親に見せたら、上手だねと褒めてくれて。
生まれるのが楽しみだと言えば、そうだねと皆で笑った。
ジャスミンの大切なものだ。
「…………っ!」
獣――白の子狼があぎとをくわと開いて飛びかかる。
が、その動作が少しばかり鈍い。
こちらも迎えねばやられる。
だから、手傷を負い、手傷を与えた。
互いに手傷は負っているのだ。
それが痛みとなり、動作を鈍らせているのだろう。
その証拠に、純白だった子狼の毛並みにじわりと所々赤が滲んでいる。
飛びかかった子狼の動きを、ジャスミンの眼は正確に捉えていた。
すんと鼻を鳴らし、耳はぴんと立ち上がる。
「――――」
呼吸を計り、ジャスミンはもう一度前へと転がった。
彼女と子狼。互いに手傷は負っているはずなのに、彼女に動きの鈍さはない。
これは彼女自身も不思議に思っていた。
身体が驚く程に軽いのだ。
それならそれで好都合である。と。
そのことについて深く考えることなく、彼女には目の前の存在しか見えていない。
目標を失った子狼は、受け身の体勢を取る前に壁へと激突してしまう。
きゃんっと甲高い声が響く。
そのまま落ち、子狼が床に叩きつけられる――前に、その下へジャスミンが滑り込んだ。
とすと受けとめられた子狼は、瞬時にぐるると唸ると、相手に噛みつこうと牙を立てようとする。
だが、その牙がジャスミンの柔肌へ食い込む寸前、自身を包む温度にはっと目を見開いた。
温度が優しかった。
「……きみ、だいじょーぶ?」
穏やかな声が子狼の耳をくすぐる。
ゆっくりと顔を見上げると、目が合った。
「あ、やっとみてくれた」
へにゃりとその子が笑う。
あれ、と。その時になって子狼――シシィは初めて首を傾げた。
この子の笑顔をどこかで見たことがある気がする。
すうと沸騰するように煮えていた気持ちが鎮まり始めて。
代わりにほんのりと湧き上がるあたたかな気持ちは、懐かしさだ。
懐かしさがシシィの胸をそっと叩く。
ぼんやりと開いた口から、吐息のような声がもれる。
『…………なんで……どーして、きづかなかったんだろ……』
シシィの碧の瞳が震えた。
あれほど切望していたのに。もう一度、会いたかったのに。
その存在が、目の前に在る――。
「どーしたの? もしかして、きずがいたむ……?」
ジャスミンから気遣う声が上がる。
腕に抱いていた子狼が身動いだかと思えば、突然もがき始めた。
傷に触ってしまったのだろうか。
「……ごめんね、けがさせちゃって……。それしか、おもいつかなかったの……」
声が沈んでいた。
こちらも反撃しなければ、おそらくやられていた。
それは本能だった。
相手が幼かったから、怪我だけで済んだのだろう。
大人だったら、無事ではなかったはず。
半分が人の血の自分が、本物の獣に適うはずなどないことを、ジャスミンは本能で悟っていた。
でも、だからと言って、相手に怪我をさせたかったかと問われれば、答えは否だ。
「ごめんね……いたかったよね……」
声が揺れ、瞳が揺れて、歪む。
本当は開放してあげたかったのに、意思に反してぎゅっと抱きしめてしまった。
まなじりから、溢れた何かが頬を伝う。
『……なんで、きみはないてるの……?』
戸惑いの声がシシィからもれた。
『ぼくがきみを、みつけられなかったから……? だから、ないてるの?』
ぎゅっと抱きしめられ、抜け出すことを諦めたシシィが、首をめぐらせて彼女のまなじりをそっと舐める。
舌に感じたものは、生温くてしょっぱかった。
けれども、優しさの味がした。
『なかないでよ……ごめんね……』
気付けなくて、ごめんね。
きゅんと鳴く。
そうすると、ぎゅうとさらに自身を抱く力が増した。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね」
ジャスミンのまなじりからとめどなく溢れる涙。
それを、シシィは拭うように舐め続ける。
互いに互いの言葉が通じぬままに、それがしばらく繰り返されたのち。
突如、ゆるりとシシィを抱く力が弱まった。
シシィがジャスミンの顔を覗き込むと、紅の瞳がゆると力なく笑った。
「……あなたはどーして、そんなにやさしーの――?」
けが、させちゃったのに。
そう続けようとしたジャスミンの言葉は、続かなかった。続けられなかった。
「――……っ」
涙に濡れた瞳が、突如苦しげに歪む。
くっ、と短な、熱をはらんだ呼気がジャスミンの口からもれたかと思えば、彼女の身体がそのまま
『え……?』
シシィが声をもらした頃には、ジャスミンは彼を巻き込み、その場にくず折れていた。
シシィが硬直する。
どうしたの。何が起きたの。ねえ。
碧の瞳が瞬き、揺れ動く。それは困惑か、戸惑いか――畏怖か。
ジャスミンの腕から抜け出たシシィは、鼻先で彼女の身体を
『ねえ、おきてよ……ねえ……』
が、彼女から返ってくるのは苦しげな呻きだけ。
シシィの思考は焦燥で焦れていく。
どうしよう、どうしよう。
こんなのばかりだ。
何もかもがすり抜けて行く。
目の前から、すり抜けて行く。
大切なもの、大切だったもの、大切にしたいもの。
どうしよう、どうしよう。どうすれば。
揺り動かす彼女の身体。
それを繰り返す最中、彼女の身体が熱いことに気が付いた。
ぴたと動きを止める。
はっはっ、と彼女の息づかいが荒い。そこにはらむ熱。
身体が熱を持ち、苦しそうに呻くのはそのせいか。
時折、ぐっと声をもらし、身を丸める。
まるで何かを堪えるような、やり過ごすような。
どうすればいい。どうするべきだ。
焦れる思考。ぐるぐると掻き混ぜられ、無力な呼吸だけを繰り返す。
「……くっ……ぅ……」
彼女の呻き声が虚しく室内に響く。
焦れる思考は加速し、嫌な熱を伴ってシシィを焦がす。
何も出来ない。出来ることなどない、無力な存在。
もっと早くに、彼女があの“彼女”だと気付けていれば、彼女を苦しめることもなかったのに。
もっと器用だったのならば、ティアが目の前からいなくなることもなかったのに。
嫌な熱がシシィに囁き、それが彼をちろりと焦がして行く。
『……ぼくには、なにも……』
目の前の現状から目を背けるように、ぎゅっと目をつむって顔を逸らす。
が、彼女から漏れ聞こえる呻き声からは耳を塞げない。
なんて中途半端なんだ。
ちろりと焦げた焼跡は、火傷のようにひりと痛み目が滲む。
どうしよう。どうすればいいの。ねえ――。
と、ふいに。ぎし。という軋む音が耳をついた。
瞬時に立ち上がる両の耳。碧の瞳の瞳孔も細くなった。
息を潜め、気配を断つ。凝視するのは部屋の扉。
そこに生き物の気配が立った。
シシィが音もなく棚の陰に滑り込むと、時を同じくして扉が押し開かれる。
シシィは気配を殺す。
「ジャジィ? さっきからどんどんってどうした? お母さんが心配してた――」
気配の主の言葉が止まった。
その主――ジャスミンの父親は、部屋の惨状を目にして言葉を失う。
裂かれたシーツに。
床に散乱した木の実は、娘が嬉しそうにして森から持ち帰ったもので。
同じく散らばる草花は、栞にするのだと妻と一緒に娘が準備していたものだ。
それが、どうして。
「……何が、あったんだ……?」
暫し呆然と彼はその場に立ち尽くす。
目の前の惨状はまるで、何かと何かが争ったような光景だ。
そういえば、仕事から帰ってすぐに妻から聞いたなと思い出す。
ジャスミンが子犬と小鳥を拾ってきたようだと。
ならば、その獣達の仕業なのか。
だが、それらしき影はどこにも見当たらな――。
「――――っ」
とある影を見つけ、彼は息を止めた。
一泊おいたのち、彼は堪らず悲鳴じみた声を上げる。
「――ジャジィっ!!」
床に倒れる娘へ駆け寄り、慌てて抱き起こす。
頬に、肘に腿にと、裂かれたような傷に目がいくも、父親をひどく慌てさせたのは身体の熱さだった。
身体が熱を持っている。荒い息づかいと、時折苦しそうに呻くのはそのせいか。
「ジャジィっ! ジャジィっ! ――ジャスミンっ!!」
傷のない側の頬を軽く叩きながら必死に呼びかける。
すると、ジャスミンのまぶたが震えた。
それがのろのろと持ち上がり、瞳が少し彷徨ったのち、やがて己の父親を見つける。
「……おと、ぅさん……?」
それにほっとした父親だったが、彼女の瞳の色に目を見開いた。
常の金の瞳ではなく、紅。これは。
さわと吹き込んだ風に父親が顔を上げる。
開け放たれたままの窓。そこから吹き込む風がカーテンを舞い上がらせた。
窓から望む月は、丸くて。満月だ、と父親が呟き、唇を噛んだ。
ジャスミンの背と膝裏に手を差し込むなり、彼はすっくと立ち上がった。
「…………おとぅ……さん……?」
ジャスミンが腕の中で父親を見上げる。
苦しげな瞳に不安そうな色が滲む。
それを見下ろした父親は、安心させるようにふわと穏やかに笑った。
「大丈夫だよ、ジャジィ。すぐにお母さんに薬草を煎じてもらおう」
そう言うと、父親は身を翻した。
とっとっ、と父親の歩みの振動を揺り籠の代わりに、ジャスミンはそれにそっと身を委ねる。
が、部屋から出る直前。視線を巡らせた。
探すのはあの白い影だ。
『…………』
あ。棚の陰。そこで目が合った。
ゆれる子狼の碧の瞳。
それにほっと息をついて、見えなくなった。
父親が部屋を出てしまえば、もうあの子狼は見えない。
彼は、追いかけては来なかった。
それは。寂しいような、これで良かったような。
そんな複雑な感情を抱えながら、ジャスミンは再び苦しさに身を丸めるのだった。
今宵は満月。月の気が満ちる夜。
月の気は、ジャスミンの中に流れる、人ならざるもののそれに力を与える。
だが、もう半分が人のそれの彼女にとっては、耐えうるそれではない。
*
部屋には再び夜の静寂が満ちる。
階下が騒がしい。
シシィはそっと、部屋の入口から様子を伺う。
あの子はたぶん、大丈夫。
先程のヒトは、あの子のことを随分と心配した瞳で見ていた。
きっと大丈夫。
それに、あの子に対して自分に出来ることはないから。
その気持ちがシシィの心に影を落とす。
『……あんなに、あいたかったのにね』
あれ程に想っていたのに。
身体が勝手に動く程に。
突き動かされる程に。
静止を振り解く程に。
想っていたのに。
『ぼくは、ぼくであって“ぼく”じゃないから……』
あの子が大切なのは変わらない。
けれども、それ以上に気持ちを向ける存在がある。
それだけの話だ。
あの子は大丈夫。
ここにはあの子を護って、想い想われる存在が在るのだから。
自分が傍に在っても、あの子にしてあげられることはないのだ。
むしろ、半端な今の自分ではあの子を傷つけてしまうだけ。
知らず、前足に力が込もってしまったようで、床板に爪が食い込み、傷をつくった。
そんな時だった。
ふいに窓から風が吹き込む。
『――――』
顔を上げたシシィは、誘われるように部屋へと戻った。
夜の空を仰げば、まんまるの月。
それをはっきりと視界に映せたのは、ぶわと風がカーテンを大きく煽ったから。
その風の中に。
――シシィ
声が絡んでいた。
碧の瞳が見開かれる。
その声は、彼が気持ちを傾けるものの声で。
もう一度、風が大きく部屋に吹き込む。
風は彼を一つ撫でると、窓から去って行く。
その軌跡を描くように、カーテンが外へ翻る。
『…………よんでるの?』
シシィの吐息は夜の空気に溶けた。
彼は一度背後を振り返り、部屋の入口へ目を向ける。
『……ぼく、いかないと。よんでくれてるから』
そう言葉を置いて、彼はベッドへ飛び乗り、窓のさんへと足をかけて。
最後にもう一度だけ振り向いた。
振り向いた碧の瞳がゆれる。そこに滲む色はどんな
『――みつけてくれて、ありがとう。つぎは、ぼくからあいにいくよ』
ほお、と細く息を吐き。
夜が広がる外へと目を向ける。
そして、かけていた足に力を込めて、夜の中へと飛び込んだ。
ふわりと純白が夜にぼんやりと浮かび上がり、瞬き一つの間に掻き消える。
場所は知っている。
彼女に絡めた己の縛りが、自分に彼女の場所を教えてくれるから。
◇ ◆ ◇
その夜。彼は決めた。
己の心を向ける方向を。
もしかしたら、出逢うには少しだけ早かったのかもしれない。
まだ自分は、たくさんのものを抱えられる程には大きくないから――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます