ティアと、シシィは


 ――ちあ


 その音が、ティアの道しるべ。在り方。




   ◇   ◆   ◇




 月から降り注ぐ静かな光は、辺りを仄かに照らし出して。

 夜の森に吹き渡る冷えた風は、さわと木々を静かに揺らす。


 呼んでいる。

 彼が――シシィが呼んでいる。

 その音の方を目指し、ティアの意識はゆるやかに向かって行く。

 まるで引き上げられるように彼女は目覚めた。

 が。顔に、何かが在る。

 何だかすごく面倒な予感がするぞ。

 眉を寄せながら、ティアは覚悟を決めて目をゆっくりと開いた。

 が。

 目を開いても、またもや広がるのは闇ばかり。

 いや、ちょっと違うな。

 この闇は、何だか柔らかな感触とぬくもりを持っている。

 嫌な予感がするな。

 何だかとても心辺りがあるぞ。

 おまけにだが、息が吸えない。

 何かに口が塞がれているようだ。

 苦しい。暑い。苦しい。

 と。ふいにそれが息をもらした。

 下敷きにした彼女の変化を敏感に感じ取ったらしい、それ。


『……ちあっ!』


 それが弾んだ声を上げる。

 歓喜にも似た声。

 けれども、その声はティアに確信を与え、何とか袋の緒が切れた。


『――んもぉっ!! 邪魔なのよぉーっ!!』


 ティアの叫びに呼応し、空気が震えて風が巻上がる。

 べりっと勢いよく剥がれ、彼女の顔に貼り付いていた白いものが、中空へと放り投げられた。

 ぜえはあと荒い呼吸。

 むくりと上体を起こしたティアは、ぐしと顔を拭う――動作で、自身が未だにヒトの成りをしていることに気付いた。


『……あれ、私……まだ……』


 と、声を発してからはたと気付く。

 瞳が瞬き、のろと喉に触れた。

 紡ぐ言葉が精霊の扱うそれだ。

 だが、確かに自身の中には残っている。ヒトの扱うそれも。

 ティアの口元が緩く弧を描く。


 ――“ルイ”が残したものだ


 そんな感覚になっていることに気付いたのだ。

 “ルイ”との感覚が少しだけ遠くなっている。

 と。


『うわああああ』


 ティアはその叫びに反射的に上を振り仰ぐ。

 中空へと放り投げられた白いもの――シシィの碧の瞳と目が合った。

 その瞬間に碧の瞳が見開かれて、すぐさまその瞳が潤んだのが見えた。


『……っ』


 込み上げてくるものがあり、ティアも思わず唇を引き結んだ。

 目頭が熱い。

 随分と久し振りに彼の瞳を見た気がする。

 でも、たぶん。それ程前でもないのだろう。

 けれども、久し振りだ。

 今ははっきりと、自分はティアだと言える。

 だからこそ、改めて己の想いと向き合える気がするのだ。

 自分が抱く、彼への想いは確かなものだ。自分のものだ。

 覚悟は出来た。だから、決めたのだ。

 ティアの琥珀色の瞳に確かな光が宿る。

 その様を、シシィは確かに見た。

 だが。その瞬間、ティアとシシィは互いに我に返る。

 あれ、もしかしてシシィは落ちている――?

 あ、ちょっと待って。思考が鈍る。

 が、既にそれを認識した頃には遅かった。

 次の瞬間には、ごちん、と鈍い音が響き、ティアとシシィ、両者の視界に星が散っていた。




   *




『いったあーいっ!! あなた、石頭何じゃないの……!?』


 衝撃で思わず、ヒトの成りから慣れた小鳥の姿に戻ってしまったティアは悲鳴を上げる。


『ぼくのせいじゃないもんっ! ちあがぼくを、うえへなげたからだもんっ!』


 碧の瞳いっぱいに涙を溜めたシシィも、ティアを力いっぱいに睨んで負けじと言い返す。

 両者共に額を抑えているのは、先程お互いの額をぶつけたから。

 互いに互いをむうと睨みつける。

 が。


『――――…………っ』


 先に変化が訪れたのはシシィの方だった。

 ティアを睨んでいた碧の瞳が、それまでとは違うそれで潤む。

 潤んで揺れて、睨んで溢れて――零れ落ちる。

 碧の瞳が歪む様を見、ティアは息を詰まらせた。


『――っちあ……!』


 もう堪らないとシシィが駆け出し、瞳から溢れた何かが散る。

 閃くそれが涙だと気付いたティアの胸につきんと痛みが走った。

 それは胸を突き抜け、全身に駆け巡る。痺れを引き連れて。

 とくん、と。左目の縦一文字の痕が脈打つ。

 彼の声に呼応している。

 とくん、と。脈打つ度に甘美な何かがティアを満たす。

 瞬間、彼女は察する。本能が彼を求めていると。

 甘美な何かを求め、彼女は自然と一歩彼へと踏み出した。

 そこに飛びつく勢いでシシィがティアを押し倒す。


『……《ルイティア》』


 すんと鼻を鳴らしながらティアの羽毛に顔を埋めたシシィが、彼女の耳元で真名を囁く。


『――……』


 熱をはらんだ呼気がティアから零れた。

 甘い痛みが左目から身体へ走り、そして、その最奥を揺り動かし震えとなる。

 それはまるで痺れのようで。

 それでいて、心地よい。思わず目を閉じた。

 これが魂を縛るということか。

 なんていうことをしてくれたんだ。

 ティアは心の中でシシィを罵る。

 これではもう、彼を忘れられないではないか。手放せないではないか。

 もう一度呼んで欲しいと、願ってしまう。乞うてしまう。


『……責任……取りなさいよね……』


 呻くように囁く。

 その言葉が届いたのかどうかはわからない。

 だが、シシィはそれに応えるかのように、ティアの羽毛にうりと顔を押し付けた。







『――って!』


 しばしされるがままだったティアから、突然声が上がった。


『あなた、身体が汚れてるじゃない!?』


 むくとシシィが身体を起こして身を離せば、ティアも起き上がる。


『どうしたのよ、それ……。え、血……?』


 シシィの白の体毛が所々赤黒いもので汚れていた。

 慌てて駆け寄れば、つんと鼻を突く鉄の匂い。

 嘴でそっと体毛を避けて様子を診ようとすると、呻き声が小さくもれてシシィが身をよじった。


『痛むの……?』


 ちらと彼を心配げに見上げる。


『べつにだいじょーぶだよ』


 だが、明らかに彼はティアと目を合わせない。

 彼女の目が据わる。


『――何があったの?』


 低い声で問いかけて。

 ティアがずいと詰め寄れば、ふいとシシィは顔を背ける。

 もごもごする様は、口の中で言葉を留まらせているようで。

 けれども、意を決したようにシシィが向かい合おうとした時。


『…………』


 彼の様子に気付かなかった彼女が、琥珀色の瞳を苛立ちできらめかせ、瞬間――ていっ、と。

 ティアが痛むだろうシシィのそこを嘴で軽くつついてみるなり。

 シシィは碧の瞳を見開き、大きく震わせたかと思えば、その場にうずくまって小さく呻く。


『ほら、それなりに深いんじゃないのよ』


 剣をはらむティアの声に、シシィが彼女を見上げる。


『だから、いまはなそーとしてたのに』


 反論するシシィの声は少し不満げで。


『それを、ちあが……』


 ぶつぶつと文句をこぼそうとするも、鋭く見下ろす琥珀色の瞳にそれを飲み込んだ。

 ティアはしばしそんな彼を見下ろしたのち、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


『……じゃあ、聞かせてよ』


 剣をはらんだ声から一転、それは心配そうに揺れる。

 その声にはっとしたシシィが、うん、とひとつ頷いて。

 きちんと姿勢を正してから、改めてティアと向かい合わせで座った。


『あのね――』


 真剣な色を宿した碧の瞳に、自然とティアに緊張が走る。

 彼の話をきちんと受けとめなくちゃ。

 そんな気がして、ティアはシシィの言葉に耳を傾けるのだった。

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