寄り添ってくれていたのは


『偶発的な霧の発生を待つより、ここから離れて街へ向かった方が安全だと思うの』


 幼いゆえに喚べない霧。

 それはいつ発生するのかはわからない。し、そんなものを待つよりも。

 さらに言えば。

 気付いてくれるかもわからない状態で、もしかしたら近くを通るかもしれない精霊を待つよりも。

 近くのヒトが住む街へ向かった方が現実的だと思うのだ。

 魔物はいないし、ヒトが住むということは、マナ濃度も正常だということ。

 それに。


『それに、街にはヒトの生活に溶け込んで生きる精霊もいるって、前にパパが言ってたのよ』


 ヒトと結び、ヒトと寄り添って生きる精霊もいれば。

 ヒトの姿で、ヒトの世に溶け込み、ヒトの隣で生きる精霊もいるという。

 そんな精霊と接触が出来れば、何か方法が見つかるかもしれない。

 先ずは出来ることからやる。それだけだ。


『ねえ、シシィはどう思う?』


 と、ティアは振り返る。が。


『…………』


 すぐに彼女の目は据わった。

 彼女が振り返った先では、未だにずうんと沈んだ面持ちのシシィがいる。


『……ばか……ば、ばか……』


 それを繰り返すこと、もう幾度目だろうか。

 いい加減ちょっと鬱陶しい。


『…………もぉー……』


 ずかずかとシシィの方へ歩み寄るも、彼は気付く気配がない。

 はあ、と重くもれるのは呆れのため息。


『……ほら、行くわよ』


 その声と共にシシィへ影が落ち、ようやく彼はティアの接近に気付く。

 けれども。


『……え、ちょっとまって』


 すぐに彼から戸惑いの声が上がる。

 彼女がむんずと掴んだのは、否、くちばしで咥えたのは彼の尾で。

 抵抗しようと彼は地に爪を立てた。

 けれども、抵抗虚しく、彼はそのままずるずると引きずられ始める。


『……ぼく、じぶんであるけるよぉー……』


 情けない声を森に響かせながら、彼は地に一本線を引いて行く。

 引きずるティアと引きずられるシシィを、ぴちちと囀る鳥達が見送った。




   *




『それで、どこにむかってるの……?』


 いろんな衝撃からようやく立ち直ったシシィが問いかけ、置いて行かれないようにと懸命に足を動かす。

 さく、と。草地を踏みしめる感触が違ってきていることにそこで気付いた。

 そういえばと辺りを見渡してみれば、程よい具合に空から陽光が降り注いでいる。

 揺れる木漏れ日に、時折目を細めた。

 あのまとわりつくような、絡むような不快な感覚もない。

 マナ濃度の薄らぐ方向へ向かっているということだ。


『……もしかして、まち? ヒトの?』


 上を仰いでもう一度問いかけた。

 ティアはばさりと音を響かせながら翼を打つと、シシィと目線を近づかせるために高度を下げる。


『私の話、聞いてなかったわね』


『……むぅ。だってそれは、ルゥがばかっていうから』


『まだ言う? 今度はあなたの額に風穴をあけてもいいのよ?』


 もちろん冗談だけど。

 その言葉は胸にしまった。

 鋭く光るティアの琥珀色の瞳に気圧され、シシィの尾がひゅんっと足の間に挟まる。

 謝る言葉はすぐに口から飛び出した。


『――ごめんなさい』


『わかればよろしい』


 ふんっと鼻を鳴らすような彼女の息に、ばさっと翼を打つ音が響く。

 ちらりと彼女の様子を窺いながら、シシィは口を開く時を計る。

 が、結局は掴みあぐねて、口をぱくぱくとさせるだけにとどまった。

 そんな自分が情けなくて、今度は耳までもがしゅんと倒れた。

 犬の如く、きゅうん、と情けなくも鳴きそうになった頃に。

 はあぁぁ。隣から盛大な、深い深いため息がした。

 ちらと上目に彼女を見やる。


『そんな情けない顔しないのよ』


『……だってぇー……』


『もう、私が苛めてるみたいじゃない』


 ――え、違うの?


 出かかった言葉は寸前のところで飲み込んだ。

 口にしていたら、風穴があいてしまっていたかもしれない。

 そう思うと身体が震えた気がした。


『仕方ないわね』


 シシィの胸中には気付かずにティアはそう言うと、ふわと彼の背に留まった。

 シシィが驚いて肩越しに振り返る。


『疲れたの。ちょっと休憩』


 悪びれた様子もなく言う彼女に、もう、自由だなあ、と思い、彼の胸中にちょっと苦い気持ちが広がった。

 けれども、そこでシシィは初めて気付く。

 少しばかり上がった彼女の呼吸。

 疲れたというのも嘘ではないとわかるそれ。

 亀裂が入ったままの身体に、左目に縦に刻まれた一文字の傷は、未だ癒える気配がない。

 だから、彼女に休憩と言われてしまえば、彼に抗うことは出来なかった。

 彼女の身体をこんなにしてしまったのは、自分に責任がある。

 別段。彼と彼女の体格はほぼ同じで、重いということもない。

 この先、獣の違いゆえに、彼の方が大きくなるだろうけれども。

 彼女を護れるならば、早く大きくなりたいなと、改めてシシィは思った。


『――ヒトの街なら、頼れる精霊がいるかなと思って』


 その声がシシィを思考から引き上げる。


『しってるせーれーがいるの……?』


『ううん。いないわ』


 え、とシシィは軽く目を見張る。

 驚く彼を一瞥して、ティアは言葉を続けた。


『風が教えてくれるわ』


『かぜが……?』


 首を傾げるシシィに、そうよ、とひとつ頷いた。

 同意するように風がひゅうと吹いて、二匹を撫でていく。

 風は世界を旅する。ゆえに様々な情報を運んでくるのだ。

 時にそれを精霊に教えてくれる。意外と風は噂好きで情報通。

 それを読み解くことに長けているのが風の精霊だ。だが。


『でも、私として“外”へ出たのは今回が初めてだから……』


 そこでティアは不安そうな面持ちをし、少しだけ言い淀む。

 そんな彼女を励ますように、シシィの尾がその背をさすった。

 それに少しだけ勇気づけられて、彼女は言葉を続ける。


『……これっていうものは、教えてくれないかもしれないわ』


 まだ、初めましての状態だから。

 ほんの少しだけ、沈んだ色を滲ませる瞳。

 “ティア”という精霊のそれを見通したシシィだから、彼女の言葉の意味を察する。

 確かにそうなのかもしれない。

 でも、と彼は思うのだ。


『でもさ、ルゥ』


 琥珀色の瞳がシシィを真っ直ぐに見る。


『かぜはうわさずきなんでしょ?』


『……うん』


『じゃあ、もうかぜはしってるんじゃない?』


『知ってるって、何を……?』


『ルゥがルゥだってこと』


 にこりとシシィが笑った。

 その、刹那だ。

 ひゅおと風が走った。

 その勢いに、思わず目をつむってしまった彼女の耳元で風が唸る。


『――……』


 え、と。戸惑いをはらんだ吐息が風に溶けた。

 ティアは目を開いて、まとわりつく風の声に耳を傾ける。

 そして。


『……っ』


 つんっと鼻の奥が痛くなった。

 風の精霊は風を読むことに長けている。

 けれども、風は気まぐれでもあるから、時に意地悪をすることもある。

 欲しい情報以上のそれを与え、精霊を混乱させて楽しむのだ。

 もちろん、その精霊の力量次第では、その都度に取捨選択をして意に介さないものもいる。

 だが、多くの精霊は必要以上の情報を与えられれば、その処理が追いつかなく混乱する。

 そんな風がティアにささやくのだ。


 ――ダイジョウブ。シッテルヨ。


 それは“ティア”という精霊を知っているということ。

 その上で迎えてくれているということ。


『ね?』


 ちらとシシィを見やれば、笑む碧が在った。

 頷くように、風が耳元で再度唸る。

 ほんのり灯りが灯るように、あたたかな何かが胸中に広がった。


 ―――だが、そこでティアは唐突に気付く。


 彼に寄り添いたいと思った。思っている。

 その気持ちに偽りはない。

 けれども、いつも寄り添ってくれていたのは、彼の――シシィの方だ。と。

 ほんのりと胸に灯った灯り。

 それが息を吹きかけたように、ふっと消えたようだった。

 急速に胸が冷えていく。

 枷になりたくないと思った。

 だが、そこで誰かが否を唱えるのだ。


 ―――お前は既に、枷となってしまっているだろう――?


 と。

 不完全な存在ゆえに、今は彼の縛りにて繋ぎ留められた存在。

 そうだ。その通りだ。

 それは枷以外の何だというのだろう。

 彼への想いは、“ティア”として抱いているものなのか。

 ここで初めて、彼女は己の想いに疑問を持ってしまった。

 ティアの中に確かに存在する“過ぎた時間”。

 その時間の中に置いてきてしまったものが在る。

 本来ならば。ヒトはヒトの、精霊には精霊の廻りがある。

 それなのに、その廻りからはずれてしまった自分はなんなのだろうか。

 “過ぎた時間”で置いてきてしまったもの。

 脳裏に過る、幾つもの景色。

 朧な幼子の姿。

 いつも後ろを付いて回って、それが愛らしかった。

 どうしても幼子に付ききっきりなってしまう両親に対して。

 どうしていつも行っちゃうのかなと、寂しさを抱いていたのは――誰だったか。

 そんな寂しさを抱く自分に、常に傍に寄り添ってくれていたぬくもりは、何――?

 幼子は“あの子”。じゃあ、“あの子”は誰のこと――?

 でも、確かだったのは。

 “あの子”としかわからないけれども、その存在が、“過ぎた時間”での最期までの気がかりだったのは確かで。

 その気がかりの結果が、不完全な存在としてうまれた要因だとしたら―?

 ヒトの輪廻というものは時間を必要とする。

 だから、本来の廻りを外れた。そんな気がする。

 その気がかりを、もう一度やり直すために“ティア”という存在がうまれたとするのならば、“ティア”という存在が消えてしまうのは困る。

 だから。繋ぎ留めてくれる存在を、無意識で欲してしまっているのだとしたら――?

 琥珀色の瞳が凍りつく。

 わからない。己がわからない。だって。

 彼女の中に在る“過ぎた時間”を“ティア”から切り離すにしては。

 あまりにその境は曖昧で朧過ぎるのだ――。

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