王と、ヴィー
シシィを見送ったスイレンは、そのまま大樹の方へと向かっていた。
黙々と歩を進めてしばらく。
『…………』
ついと視線を持ち上げる。
遠目に大樹。そして、大樹を囲う湖。
その湖畔が見えたところで、スイレンは足を止めた。
さくと草地を踏みしめる音が響く。
刹那。柔らかな風が吹く。
さわと揺れる木々のざわめきは、まるで客の来訪を告げるそれのようで。
『――パティ、か』
ざわめく木々の中。スイレンがぽつりとひとつの名を紡ぐ。
先程まで彼以外の存在などなかったはずなのに。
瞬きひとつ。その瞬で。
彼女という存在はそこに在った。
スイレンの行く道を遮るように、そこに在る。
銀の毛並みが美しく、口元から首、腹へと続く白との合いも程よく溶け合っている。
片耳を飾るのは、毛並みと同じ銀のイヤーカフ。無機質に光を弾く。
狐の姿を借りた彼女もまた、精霊。
パティと呼ばれ、無愛想な青紫の瞳をスイレンへ向けた。
『……スイレン様、何用ですか?』
抑揚のない声。ただ、淡々と紡がれる言葉。
その態度に、相変わらずだなあ、とスイレンは胸中で苦笑をもらす。
『ヴィーは起きてるー?』
ヴィー。その音が発せられた瞬間。
パティの眉が一瞬だけひそめられた。
だが、それはすぐに掻き消え、いつもの無愛想な彼女の顔に戻っていた。
『王ならば、既にお目覚めです』
『そっか。んじゃ――』
『お会いになられるのならば、どうぞ』
すっ、と。
パティが道を譲るようにその場を退く。
『…………』
言葉を言い切る前に遮られ、スイレンは少々面を食らった顔になる。
普段の彼女が自分に対する振舞いを思い返せば尚の事。
珍しい、と思わず呟いてしまい、慌ててその口を閉じた。
『――――』
青紫の瞳に不機嫌な色がきらめく。
少しだけむっとした気配をまといながら。
『場と、身は……弁えているつもりです』
パティはそう言葉をもらす。
歯向かったところで、今の自分が敵わないことをパティは知っている。
その声音から、ほんの少しだけ悔しさが滲み出ていた。
それに、と彼女は言葉を続ける。
『私は、王に仕える者です。この立場に誇りを持っております』
顔を上げ、しっかりと視線をスイレンへと据えていた。
気持ち胸を張っている気もした。
『王が大切になさるのならば、私も王に仕える者として大切にしたいのです』
『……王に、仕える者として?』
スイレンはパティのその言い方にわずかな引っ掛かりを覚え、それを繰り返すように呟く。
途端。青紫の瞳が蔑みをはらんだそれに変わった。
『――ええ。私という個としては、認めてはおりませんので』
ですが、と。
それは瞬く間に掻き消える。
『スイレン様は王の大切なお方。そのお方を不当に扱うなど、とんでもございません』
伏し目がちなパティの瞳が憐憫にゆれる。
その様をスイレンは白々しそうに眺める。
スイレンのそんな視線を気にすることなく、パティは続ける。
『ゆえに。お通りくださいませ、スイレン様」』
パティがイヤーカフで飾る片耳をぴっと弾けば。
きいん、と音が鳴り響いた。
その清浄で澄んだ音は、大樹を覆う結界のくぐりを許可する音。
結界をくぐり、再度くぐれば切れる制限付のもの。
間接的にではあるが、加護を一時的に与えたことになる。
とある事情で大樹が結界に覆われるようになり、精霊の感覚でも久しい。
その結界をくぐれるのは、パティのように王へ仕える者のみ。
その証が銀のイヤーカフ。
王の加護が付与されているために、結界を抜けることができるのだ。
結界は王を護るために張られたもの。
それゆえに、王に馴染んだものは抜けられる。
『さあ、どうぞ』
片前足を伸ばし、反対は折り曲げ、頭を垂れる。
精霊が己よりも上の“位”の者を敬う、礼。
『…………』
スイレンはそんな彼女を見下ろす。
認めてはいないと放った口で、同時に大切にしたいとも言い放った。
そしてきっと、敬うという気持ちも嘘ではないのだろう。
むちゃくちゃだと思う反面。
これが彼女なりの誠意なのかもしれない、とも思った。
嫌われているけれども、嫌われていない。
矛盾はしているが、間違ってもいない。
なるほど。ひとつ頷いた。
ふいと彼女から視線をはずすと。
『そんじゃ、ヴィーに挨拶してくんねー』
そのまますっとパティの横を通り過ぎ、不可視の結界をくぐろうとした時だ。
ちらと青紫の瞳がスイレンを上目に見やった。
『――スイレン様』
ぴたとスイレンが動きを止めた。
ぴんと空気が張り詰めた気がした。
その中で響く声は硬い。
『王のことは、王、もしくは王様、精霊王様とお呼びくださいませ』
パティの視線が鋭くスイレンに突き刺さる。だが。
『――やだね』
スイレンはそれを一蹴。
パティを一瞥もしない。
そんな彼の反応は予想していたパティ。
そうですか、と短く応じるにとどめた。
けど、と。スイレンが肩越しにパティを見やる。
『そーいう時では、そーいう態度をとるよ。そーいう時は』
と。今度こそスイレンは振り返ることなく結界をくぐる。
彼が湖面に降り立つまで、パティは頭を垂れたままだった。
降り立つ水音が耳に届き、パティはそこでようやく顔を上げた。
彼女が向ける視線の先。遠目に湖面を歩く白狼の姿を認める。
大樹へと向かう白狼の背に青紫の瞳を据えながら。
『……白、か』
ぽつりと呟いた。
白を持つから、王の傍に在れるのだろうか。
パティを始め、多くの精霊が憧れる――白。
何にも染まっていない、汚れなき色。
その色に近ければ近い程に、その精霊が持つ力は強大で清浄なのだ。
高位の精霊の中でも、さらに一部の精霊しか持たない白。
その精霊がそれまでに積み上げた経験。
さらに、その魂に刻まれた経験。
それらが合わさった、経験――それが、その精霊の“位”だと言われている。
下位から中位。そして上位。位は生まれながらに定められる。
だが、その精霊がどう旅をするのか。
その旅の過程によっては、また位が変わることもある。
パティは己を見下ろした。
銀の毛並みは陽光を弾くと白にも映る。
己も“パティ”としての旅の過程で、白を得ることも可能かもしれない。
だから、パティは日々励む。
今の立場に誇りを持つと同時に、その与えられた役目を。
尊敬してやまない、王の傍に在れるのならば。
だからだろうか。彼を未だに認められないのは。
王に仕えるパティらよりも、さらにその傍に在るから。
王が何をそんなに彼を想うのか。それは子を成すほどに深く。
それがわからない。ただ、王の傍に在るだけなのに。
王の傍に在る。その事実に見合うだけの何があるのだろう。
青紫の瞳を眇める。
大樹に結界が張られるようになり久しい。
それはゆえに、王が臥せるようになったから。
この頃ようやく起きている時間の方が長くなった。
王の臥せりの要因。そのひとつが彼だとパティは思っている。
*
湖面を歩くスイレンは、遠目に大樹のうろから出ている彼女を認めた。
凛とした佇まい。
昇る朝日を弾く白は白銀に魅せ、深い湖の瑠璃は慈愛をはらむ。
ただ座っているだけなのに、あふれでるそれは何だろうか。
王ゆえの品位か。または強者ゆえの風格か。
例え精霊といえど、思わず息を呑むほどの彼女の美しさ。
見慣れているはずの彼女なのに、スイレンは気が付けば呼吸を忘れていた。
いかんいかん、と頭を振り、大樹へと歩を進める。
大樹が根をおろす島。その淵に足をかけようとした時。
『――ええ。では、そのように』
凛とした声がした。
その場によく響くのか、少し離れたスイレンにまで届いた。
ちらと見やれば、彼女と別の精霊の姿。
何事かの決め事をしている様子。
精霊の問いにまた彼女は頷いた。
その横顔は何だか大人びて見えて、スイレンには違和感しかなかった。
けれどもそれは、確かに精霊王の横顔だった。
しばらく呆けるように見ていたら、いつの間にやら話は終わったようだ。
『――では、私はこれで』
失礼致します、と。
その声にはっとした。
一礼した精霊はくるりと身体の向きを変えて。
そこにいたスイレンと目が合うと、驚いたように一瞬目を小さく見張ってから。
先程と同じようにスイレンに対しても一礼し、精霊はそのまま去って行った。
何となく振り返り、その精霊の背を見送っていたら。
『あら、スイレン』
声が呼びかけた。
スイレンが振り返れば、ふわりと彼女は笑む。
『来ていたのですね』
『ああ、まーね』
湖畔に足をかけ、ひょいと跳ねるように島へと上がる。
彼女の傍まで歩を進めれば、その彼女は嬉しそうに首を擦り寄せてくる。
それに応えるようにスイレンも擦り寄せ、ひとしきり触れ合って。
気が済んだらしい彼女が身体を離す。と。
『……スイレン、どうかしたの?』
瑠璃の瞳が瞬き、じいとスイレンを見つめる。
『いや、ヴィーを見てるだけ』
『それはわかるけど……』
困惑げに瑠璃がゆれた。
それでもスイレンが彼女をじいと見続けると、訝しげに眉がひそめられる。
『スイレン……?』
その様子が楽しくて、面白くて。
スイレンは一匹でくつくつと喉奥で笑った。
なんでもない、と言いながら笑うものだから。
始めは困惑げだった彼女も、次第に不愉快になってきたのか。
『何なのですかっ』
少しだけ不貞腐れたような。
そんな幼さをはらんだ声音だった。
これが先程と同じ声なのだ。
スイレンの空の瞳が和む。
『だから、その顔は何なのですかっ』
自分を見つめるスイレンの顔が気に入らないらしい彼女は。
不機嫌を体現するかのように頬を膨らませた。
その様を見やり、スイレンがふふっと笑いをもらす。
ころころと変わる表情。子供っぽくもあるようなそれ。
けれども、これも彼女なのだ。
王、と。呼び慕われる彼女。
先程の声も、横顔も。確かに彼女のもので。
だから、なおさら。
皆が、王、と呼ぶ中で。
一匹だけ、ヴィー、と。そう呼ぶ存在があってもいいではないか。
息を詰まらせてしまえば、やがて呼吸の仕方も忘れてしまう。
だから。自分はいつでも彼女を呼ぶ。
ヴィー、と。
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