シシィとティア


 もそもそ、と。

 自分の懐で何かが身動いだのを感じ、スイレンは重いまぶたを持ち上げた。

 眠たげな空の瞳を数度瞬かかせて。


『…………』


 身を丸めていた体勢から少しだけゆるめてやれば、ぷはっと懐から子狼が顔を出す。

 こちらは元気な様子で碧の瞳はぱっちりだ。


『くわあぁ……。おーぅ、シシィ。はよぉ……ぅ、くわあぁ……』


 スイレンの大きなあくび。

 子狼に軽く朝の挨拶をしたところで、また大きなあくび。

 そんな父を呆れたように半目で見やって、子狼――シシィもおはよと返す。

 のだが、何だかむずむずとし始めて。

 う、ん。ふ。開きそうになる口を、その衝動を堪えようとして。

 けれども。


『ん、ふ……ぅふわぁぁ……』


 と。堪えきれなく、小さなあくび。

 碧の瞳は瞬き、目元にちょびっと涙がたまった。

 父のあくびがうつってしまったようだ。

 そう思ったところで、ふっと笑う声が聞こえ、父の方へ向きなおる。

 そこにはくつくつと喉の奥で笑う父の姿があって。

 恥ずかしさか、かっと頬で熱が弾けた。


『ちちうえ、わらうなあっ!』


 くわっと噛み付くように叫ぶ。

 むっと頬を膨らませたのは、怒っているとの主張だ。


『いやいや、な。カワイイあくびだと思ってね』


『むうー』


 唸りながら、シシィがさらに頬を膨らませた。

 小さく吊り上がる碧の瞳には、可愛らしい怒りの色が浮かんでいる。


『まぁまぁ、そう怒るなよ』


 な、シシィ。と、なだめるような声音に。

 スイレンは愛おしげに目を細めると。

 自身の額とシシィのそれとを重ね、うりうりと互いの額を擦り合わせる。


『むう、わあ、もうっ』


 けれどもそれを、シシィは鬱陶しそうに前足でスイレンの顔を退けようと押す。

 が、幼子の力で押し退けることなど出来るはずもなくて。

 スイレンは構わずにうりうりを続ける。

 うりうり。うりうり。

 繰り返される毎に、シシィの顔は不機嫌で染まっていく。

 やがて、いつまでも続くそれに耐え切れなくなって。


『――んもうっ、ちちうえはなれてっ!』


 爆発した。

 押し退けるのが無理ならば、逃げればいいだけだ、と。

 するりんとシシィはスイレンの包容から抜け出した。


『あ』


 咄嗟のことで、スイレンはシシィを捕まえ損ねてしまう。


『じゃあ、ちちうえ』


 くるりと身体の向きを変えて。

 抜け出すことに成功したシシィは、スイレンから少し距離をとってにんまりと笑う。


『あそびにいってくるっ!』


 くるり、父に背を向け駆け出した。

 逃げたシシィのぬくもりの余韻を感じながら、遅くなるなよ、とスイレンはその背に声を投げかける。

 その声に、小さな尾をひょんっと揺らして応えて。

 シシィは足に力を込め、地を勢いよく蹴り上げた。

 そんな小さくなる背中を眺めながら。


『さーて、オレもいくかなー』


 のびーと身体を伸ばし、くわあと大きなあくびをひとつ。

 駆けていった小さな背は、もう既に見えなくなっていた。

 よし、と。かけ声と共に、スイレンも立ち上がった。




   ◇   ◆   ◇




 たったったっ。草地を踏む軽快な足音が元気に森に響く。

 何かを探しているかのようにシシィの視線は忙しない。

 あちらこちらへ視線を走らせながら、シシィは歩を進めていた。

 と。かさり。どこかで葉が落ちた。


『――!』


 ぴんっとシシィの両の耳が勢いよく立ち上がった。

 木の葉が触れ合う小さな音を聞きとめ、歩を進めていた足もその動きを止めた。

 ぱあっと輝いた眼差しでシシィが音の方を見上げれば。


『あら、チチィ。おはよう』


 枝にとまった、淡い黄に身を包んだ小鳥の姿が在った。


『おはよ、ちあ』


 小鳥がぱさと小さな両翼を広げ、飛び降りるように枝から足を離した。

 ばさり。羽ばたきひとつ。

 とす、とシシィの隣に舞い降りる。

 そして、くるりと彼に向きなおると。

 はあ、と深い息をひとつ。


『チチィ、何回言えばわかるの?』


 呆れたように嘆息をもらす。


『あたちはティア。ちあではないわ。ほら、ティア、ティアよ。言ってみなさいな』


『ちあ』


『ティア、よ』


『ちぃ、あ』


『ティ』


『てぃ』


『そう。そんな感じで、ティア』


『ちあ』


『…………』


『ちあ?』


 どうしたの、とシシィが首を傾げた。

 そんな彼を見やり、はあと再度深い息をもらした彼女は。


『もう、いいわ。ちあでいいわ』


 諦めたように翼をすくませた。

 幼いと音にするのは難しいのかしら、とひとりごちる。

 そんな彼女を見やりながら、シシィも口を開いた。


『なら、さ』


 その声に、ち、とティアから鳥の声がもれて。

 どうちたの、と今度はティアが首を傾げた。


『ぼくのことも、なんかいいったらいえるようになるの?』


 にひっと。碧の瞳がいたずらっぽく笑った。

 それに対して、うっと言葉を詰まらせたのはティアだ。


『それは、それはちかたないじゃないっ!』


 ぴちちちち。忙しない囀りがティアから飛び出す。

 余程慌てているらしい彼女の様子に、シシィはくすりとこっそり笑った。


『ぼくはチチィじゃなくて、シシィだよ』


『だ、だからそれは、ちかないのよっ! 身体に引っ張られるのか、“ち”が“ち”になっちゃうんだからっ!』


 ぴちちぴちち。

 抗議するような、忙しない囀りが忙しなく響く。


『ああっもうっ! 違うのよ、違うのよっ! なんで、“ち”だけがちゃんと言えないのよぉーっ!!』


 どうしても、“し”の音が“ち”になるのだ。

 これだけはどうにもならなくて、本当に忌々しい。

 だんだんだんっ。足で地を叩くのは八つ当たり。

 ああもう、本当にもうっ。

 ひとり騒ぎ、あげくにうわあと頭を抱え始めた彼女に。


『もう、いいよ。チチィでいいよ』


 くつくつと喉の奥で笑いながら、シシィはちらと横目でティアを見やる。

 そうしたら、彼女はぴたりと動きをとめ、自分の方に向きなおったなと思えば。

 次第にその目には、むうと不満げな色が滲み始めて。

 やがて、ぷっくりと可愛らしく頬を膨らませた。

 同じ言葉を返されたのが、彼女はどうやら気に入らなかったらしい。


『もう、ちらないっ!』


 ふんっ。ティアはぷいとそっぽを向く。

 そのぷりぷりと怒る姿に、シシィは何だか妙ないたずら心をうずかせた。

 いやいや、でも。うん、だめだよ。

 そう、だめだよ。でも、でもでも。ああ――もう、いいや。

 うずうずとする衝動に耐え切れなくなり、えいっとかけ声と共に思いっきり地を蹴り上げる。

 その声に嫌な予感を覚えたティアが振り向けば、跳躍したシシィの姿が視界にはいる。


『んげっ』


 女のコらしからぬ潰れた声がもれたが、逃げるにはもう遅かった。

 どさりと上から被さったシシィに押し倒される。

 何するのよと押し飛ばそうとも思ったが、にへらと楽しそうでだらしのない笑みを浮かべるシシィに、興がそがれるというか、なんというか。

 まあ、いいか。と。反撃するのもどうでもよくなってしまった。

 だから、一緒に騒いであげることにした。その方がきっと楽しそうだ。

 押して、倒して、押し返されて、倒し返されて。

 そしてまた、押して倒して返しての繰り返し。

 気が付けば、シシィとティアは互いに上下を入れ替えながら転げ回っていた。

 それはぎゃいのわいのと、しばらくばかり続いたのだった。




   *




『んもうっ! チチィのせいで草まみれちゃないっ!』


 ティアは不満げに自身の姿を見下ろす。

 両翼を軽く広げてみれば、翼の懐にまで細かな草が羽毛に絡まっていた。

 小さなくちばしでそれをつついてみるが、なかなか取り除くのに苦労しそうだ。

 はあと深い嘆息が嫌でももれる。と。


『あははははは』


 先程から笑い転げているそれを、ティアはきっと鋭く睨みつけた。


『笑うんちゃないわよっ!』


 くわりと噛み付く勢いで叫ぶ。

 が、笑い転げるそれはとまらない。


『だって、なんで、そんな』


『ちょうがないちゃない。……わたちの羽毛は、何かと絡みやすいんだからっ』


 両翼を器用に腰へ添えあて、ぷくうと頬を膨らませる。


『えー、そんなのこうすればいいじゃん?』


 むくりとシシィは身体を起こし、ぶるりと頭から胴、尻へと順に身を震わせる。

 それは身体に水を滴らせた獣が、水気を飛ばすために身を震わせる動作と同じで。

 シシィからは水気の代わりに細かな草らが舞った。

 一通り落としたところで、すとんとその場に座って得意顔。

 えへん、とティアに向いた。


『……はあ』


 やれやれとティアは翼をすくめ、重い息を吐いた。


『それがあたちに出来るわけないちゃない……』


『え……?』


 シシィから怪訝な声が一瞬もれたが、すぐに、ああそうか、と納得する。


『ボクとちあじゃ、違うから』


『そーゆーことよ』


 ティアは再び羽毛に絡まる細かなそれをつついてみる。

 だが、取れそうな気配はなくて。これはなかなかに厄介だ。

 仕方ない、と諦めの嘆息をもらす。


『……ママに取ってもらわなくちゃ』


 母はいつも綺麗に身を整えている。

 自分が汚れて帰ってくると、仕方ない子ねと苦笑しながら綺麗にしてくれるのだ。

 と、そこでふと顔を上げる。

 何だか、空気が変わった気がしたのだ。


『――――』


 ティアはそこで動きを止めた。

 あ。声にならない吐息がもれた。

 彼女を見つめるシシィの瞳。その碧の瞳に別の色を見つけた。

 だが。


『――じゃ、きょうはここでおわかれする?』


 シシィが笑顔を浮かべると、その色はすぐに掻き消えた。

 どうする、と首を傾げて問う彼に。

 ティアは一度言葉をこぼしかけて。


『…………』


 それを飲み込んだ。


『……ちあ?』


『――けど、もうちょっとだけ、何とかちてみることにするわ』


 いつも甘えてばかりも恥ずかしいし。

 すました顔でちょっと大人ぶる。

 だから、と彼女は言葉を続ける。


『あなたも手伝いなさい』


『え』


『え、ちゃないわ。……そもそも、あたちが汚れたのはチチィのせいでちょっ!』


『……そうかな』


『そうよ。だから、この責任はあなたにもあるのよ』


 さあ、あなたも手伝いなさい。と。

 押し付けるように片翼を彼の方へと押し向ける。

 シシィはしばしティアを見つめると、仕方ないなあと立ち上がった。


『わかったよ、てつだうよ』


 ティアの隣に座ると、シシィは彼女の翼に絡まったそれへ口を寄せる。

 草先をそっと咥えて引けば、するりとそれは抜き取れた。


『なんだ、すぐにとれるじゃん』


『え、うそ』


『ほら』


 シシィはもう一つ抜いて見せる。

 咥えられたそれを見て、ティアは悔しそうに顔を歪ませた。

 むうと唸る彼女に、シシィはははっと声を立てて笑った。


『ちあはへたくそだなあ』


『へたっ……!?』


 ますます悔しそうに歪む彼女の顔、と。

 ますます楽しそうに笑う彼。


『あははは』


『笑うなあっ!』


 笑いながらも、シシィはひとつひとつ丁寧に抜き取っていく。

 ティアも彼を真似てみれば、あっさり抜き取ることができた。

 確かにすぐ取れるな。ティアの目が半眼になる。

 へたくそ。へたくそ、か。

 ははっと乾いた笑みを浮かべたくなった。

 いや。いやいや、ただ不器用なだけだ。そうだ。

 ぶんぶんと頭を振り、その考えを振り払う。

 いいじゃん。不器用な女のコカワイイじゃん。

 うんうんとひとり頷く。

 そうやって無理矢理に己を納得させ、彼女も抜き取り作業を開始――しようとして。

 ぱちと碧の瞳と目が合った。

 まさか、先程のを見られていたのか。

 百面相じみたことをしていた自覚はある。

 羞恥がのぼる。

 瞬間。かっと熱が弾けた気がした。


『ちあはみててあきないなあ』


 くつくつと喉奥で笑いながら、シシィは作業に戻る。

 見られてたあと頭を抱えたくなる衝動を堪え、ティアも作業を始める。

 頬が熱い気もするが無視だ。そう、無視。




 黙々とそれを抜き取る作業。

 時折。さわと風が枝を撫で、くすぐったさに木の葉が震える。

 ティアの頬の熱も冷めた頃。

 彼女はちらりとシシィの様子を横目で伺った。

 片翼に絡まったそれも、既にあと幾つか。

 抜き取って、また抜き取って。

 その繰り返しの単純作業。けれども、彼は楽しそうだ。

 それでいて、どこか嬉しそうな雰囲気もまとっている。

 そんな彼の姿に、ティアは安堵したように息をこぼした。


『……こっち終わったら、こっちもね』


 と、もう片翼も示す。

 もう少しだけ手伝え。と、言外に訴える。

 けれどもシシィは。


『――やっぱりさ』


 作業を一旦止め、顔を上げた。

 ん、とティアが小首を傾げたのを見て、彼は言葉を続けた。


『……おうちにかえったほうが、はやくおわるんじゃない?』


『なんで……?』


『なんでって、そのほうがはやくきれいになるよ』


 瞬間。瞬きひとつの合間に、彼の碧の瞳がゆれた。

 あ、とティアは思った。

 また、あの色だ――と。

 彼のまとうあの色。その色が自分は――だから。

 だから、違う。言葉にしたいのは違う。

 早く小綺麗にしたいとかじゃなくて。


『だから、ね』


『うん?』


『今日はまだ遊びたいから、あなたに手伝えっていってるのよ』


 瞬間。碧の瞳が見張った。

 そして次第に、その瞳が嬉しそうに笑った。


『なら、はやくおわらそう』


 へへっと笑うシシィにつられて、ティアもふふっと笑った。

 あの色はもう、彼からは消えていた。


『そうよ。早く終わらせましょ』


 そう、ただ。

 自分があの色を見たくないだけなのだ。

 彼が時折まとうその色を、自分は嫌いだから。

 寂しそうなあの色を。

 彼にまとって欲しくはない。

 これは、自分の勝手なわがままかもしれないけれども。

 それでも、自分が傍にいることで少しでも和らぐのなら。

 自分は彼の近くにいたいと思った。

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