最終章「本当の夏休み、そして……」

 夏の暑さは相変わらずで、俺と少女はあおい寮の前で向き合っていた。


 太陽はじりじりと肌を焼き、蝉の鳴き声が鼓膜を振動させ、むわっとした熱気が空気中に漂っている。


 暑い…………暑い……暑い。そう、今は夏。暑くて当然だ。


 けど、俺はいつの間にか全身を濡らしていた汗が、すっと引いていくのを感じた。むしろ、ひんやりと寒気がするような感覚。俺は目の前で真剣な視線を向ける少女に、もう一度声をかける。


 「……どういうことだよ?」


 少女は確かに言った。


 ——この世界の真実を教えると。 


 「あなたはこの世界を繰り返している。そうよね?」


 「それは……」


 この少女は、俺が置かれている状況を知っている。そして、俺の中で驚きとともにもう一つの感情が生まれた。それは……多分、期待。俺は二度目のあおい寮を経験した。その日々は、みおなを助けることで無我夢中だった。何よりも孤独だった。ずっと一人で戦っているような感覚だった。けど、もしかしたら……理解してもらえるかもしれない。力を貸してもらえるかもしれない。その対象はもう誰でも良かった。そんな微かな期待にすがりたいと思うほど、俺の心はもう疲れ果てていた。


 「……あぁ、お前の言う通りだよ。けど、どうしてそんなことまで知ってるんだ?」


 俺の言葉を聞いたあと、少女はゆっくりと視線を空に向ける。そして、つぶやいた。


 「いつからか夢を見るようになった」


 「夢?」


 「知らない人が出てくる夢。最初は変な夢だなって思ったぐらいで、別に気にもしなかった。けど、その夢を見る頻度が次第に増えていったの」


 「……」


 「さすがに怖くなった私は、家族や友達に相談した。けど、誰も信じてくれない。それどころか学校では、他の生徒から気味が悪いって避けられるようになった」


 ……確か駄菓子屋で常連の小学生が、この少女のことを変な奴だから近づくなって言っていた。この夢が理由だったのか。    

 

「夢の中では、今までその人が経験してきたことをまるで映画でも見ているように眺めてた。そんな日が何日も続く内に、私はいつの間にかその人のことを理解できるようになってしまったの」


 少女は再び俺を真っ直ぐ見つめる。


「その人物は……あなた」


「え?」


 風がひゅるりと通り過ぎ、少女の黒髪をさらさらとなびかせる。


「……俺がお前の夢にずっと出てきた?」


「えぇ」


「ただの偶然じゃないのか?」


「けど、あなたがこの町に来る事を私は夢の中で知っていた。だからあの日、駅前であなたを待っていたの。そして、実際にあなたは現れた」


「あ、俺も思い出した。あの時、お前にギトギト味噌汁を……」


「許して。初対面で少し照れていたの」


「どこがだよ」


 俺がこの町に来たことは紛れもない事実だ。けど、どうして少女は俺が出てくる夢ばかりを見ていたんだ。その事実には何か意味があるのだろうか。


「……あなたに聞きたいことや、言いたいことが沢山ある。けど、夢で見ていた事が本当だとしたら、まずこれだけは確認しなきゃいけない」


「確認?」


 そう言って、少女は真っ赤なランドセルの中から何かを取り出した。そして、俺の目前まで近づき、


「手を出して」


 と、言った。

 俺は言われた通りに、少女の前に手を差し出す。すると、一冊の本が渡された。


「…………」


 表紙を眺める。


「何だよこれ。ただの小説じゃ——」


 その瞬間。俺は自分の目を疑った。違う。ただの小説なんかじゃない。……何かの間違いだろうか。偶然だろうか。幻でも見ているのだろうか。瞬きをして、目を見開いて、何度も確認をする。それでも、この小説のタイトルには確かにこう書かれていた。

 

 ——ようこそ、あおい寮へ


 「何であおい寮が……」


 嫌な予感がした。


 俺は、恐る恐るページをめくる。文字の羅列を目で追う。ページをめくる。文字の羅列を目で追う。


 ……何度も何度もページをめくる。……何度も何度も文字の羅列を目で追う。取り憑かれたように何度も何度も。


 そして、ざっと最後のページまで確認し終えた後、俺はすっと全身の力が抜け、膝からその場に崩れ落ちた。


 「嘘だろ……」


 持っていた小説が手の中からこぼれ、乾いた地面にパサッと転がる。


 蝉の鳴き声が、まるで自分だけを呪っているように聞こえた。


 もう何がなんだかわからない。こんなことある訳ない。何かの悪い冗談だ。また俺はおかしくなっているだけだ。そう思いたかった。否定する根拠を探し出したかった。けど………けど……決して覆りはしない事実が確かに目の前にある。……認めたくない。こんなこと絶対に認めたくない。体が震え、俺は唇を噛み締める。だって、認めてしまったらあいつらは……あいつらの存在は一体どうなる。


 「やっぱり心当たりがあるんだね……」


 「…………」


 俺は少女を睨みつけるように見つめたが、肝心の言葉が見つからなかった。はけ口のないもどかしい感情が、体の隅々にまで駆け巡っていく。考えたくない、考えたくない、考えたくない、考えたくない。考えたくない。考えたくない。考えたくない。けど……思考は止まってはくれない。

 

 篠宮杏子。


 谷川航。


 松本康也。


 藤田夏美。


 東城沙織。


 俺の知っているあおい寮のメンバーは……


 小説の中で登場人物として書かれていた。


 「何なんだよこれ……」


 少女は俺のそばに落ちていた小説を拾い、パラパラとページをめくりながら静かに話した。


 「小説『ようこそあおい寮へ』 高校生たちが田舎町にあるあおい寮で、夏休みの間、住み込みバイトをする青春ストーリー。問題児だった主人公の谷川航は、あおい寮で仲間たちと出会い少しずつ成長していく……」


 「…………」


 「あなたはこの物語を知ってるよね?」


 「……知ってるも何も、ここに書かれていることはほぼ俺が経験したことだ」


 「本当にあなたが経験したの?」


 「そうだよ。それがどういう訳か、こうやって物語になってる」 


 少女は持っていた小説をパタンと閉じ、まるで大切なものを扱うように両手で抱える。


 「……この小説をあなたは気に入っていた」


 「は? そんなわけないだろ。てか、今お前に見せられるまで、俺はこんな小説なんて知らなかった!」


 「違う」


 少女は否定する。


 「何が」


 「あなたはこの小説を本当に気に入っていたの!」


 「……どういうことだよ」


 「何度も何度も読んで、いつも鞄の中にはこの小説が入っていた。自分の環境とは全く違うこの物語に、憧れを持ち続けていた」


 少女が何の話をしているのか。どうしてそこまで必死に訴えかけようとしているのか。俺には何もわからなかった。ただ頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくみたいで。自分が自分でなくなるような気がして。怖くて仕方がなかった。もうこの場所からすぐにでも逃げ出してしまいたかった。


 「だからあなたは……この小説の物語を自分の都合の良いように作り変えた」


 「え?」


 「そして谷川航ではなく、自分自身を主人公にした」


 「……何言ってんだよ」


 「自分がこうあって欲しいという願望を具現化した!」


 「だから何言ってんだって!」


 まるで懇願するように声を絞り出す俺の目の前に、少女はゆっくりと座る。


 「山岡和希」


 そして、どこか悲しそうな表情を浮かべながら、


 「ここはあなたの精神世界。あなた自身が想像して作り上げた世界なの」

 

 と、確かにそう言った。


 ……空が青い。どこまでも続く青空。


 真っ白な入道雲が誇らしげに浮かび、太陽の日差しがギラギラと降り注ぐ。そして地面は、その暑さを俺の足から全身に伝え、セミの鳴き声は止どまることを知らない。そして、ふんわりと通り過ぎていく風からは微かな潮の匂いが混じっている。全身で確かにこの夏を感じている。こんなにも全てがリアルなのに。それなのに……


 「この世界が俺の想像?」


 「えぇ……」


 「ははははははははははは」


 俺は突然、頭がおかしくなってしまったように、笑い声をあげた。


 「わかった、また俺のことをからかってるんだろ。だって、そんな馬鹿なことあるわけない。そんなこと……信じられるわけないって!」


 だって信じてしまったら。俺はこの世界の全てを否定しなければいけない。そんな事……あっていいはずがない。


 「…………」


 「…………」


 しばらく空白が続き、少女は再び口を開く。


 「本当のあなたは今、別の世界で存在している」


 「……本当の俺?」


 そうだ、あっていいはずがない。だから俺は拒絶する。


 「なんだよそれ。じゃあ、今の俺は? 目の前にいるお前は? このあおい寮は? 何もかも偽物だって言うのか!? そんなことある訳ないだろ!」


 何もかも嘘だって思いたかった。けど、そんな俺の思いとは関係なく、少女は肯定する。


 「いいえ。あなたの言う通り」


 「え?」


 「私もあなたも。全て作り出された偽物」


 少女は静かにそう言った。


 「……その偽物を作ったのが、全部俺だって言うのか」  


 「そう」


 「……お前が何を言ってるかわからないし、全然信じられない。けど、教えてくれ。本当の俺がここじゃないどこかにいるとしたら、どうしてこの世界を作った? 何でそんなことをする必要があるんだ?」


 少女はゆっくりと立ち上がり、俺から背を向けて距離を取りながらも話を続ける。


 「この世界はあなたにとっての理想と願望を具現化している」


 「理想と願望……」


 「田舎でのゆったりとした生活。あなたが本当に心を許せる仲間たちとの出会い。そして、憧れていた夏の青春」


 「…………」


 「けど本当の理由は別にある」


 「何だよ、本当の理由って」


 少女の歩みがピタリと止まる。そして、ゆっくりと振り返る。


 「それは……辛い現実から逃げる為」


 「辛い現実?」


 「言ったよね? あなたは嘘を付いている。自分自身を騙してる。あおい寮で住み込みバイトなんかしてないって」


 「あぁ、聞いたよ。けど、それだけじゃどういう事か全然わからない」


 「本当のあなたは……」


 そして、なぜか少女は口を閉ざしてしまう。


 「…………」


 「何だよ……」


 「…………」


 「言いたい事があるんなら、はっきり言えよ!」


 この先に続く言葉がどんな内容なのかもわからない。受け入れる余裕なんてもうない。けど、俺は少女の言葉を待った。少女は、そんな俺を再び見つめる。そして「本当のあなたは……」と再び言い直し、


 ——言葉にした。

 

 「野球をしていた」


 ——言葉にした。


 「この夏休みの間、ずっとずっと練習をしていた」


 ——言葉にした。


 「そして甲子園に出場した」


 その言葉達が、頭の中ではち切れんばかりに大きくなり、埋め尽くしていく。


 『本当のあなたは野球をしていた。この夏休みの間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した。本当のあなたは野球をしていた。この夏休み間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した。本当のあなたは野球をしていた。この夏休み間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した。本当のあなたは野球をしていた。この夏休み間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した。本当のあなたは野球をしていた。この夏休み間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した本当のあなたは野球をしていた。この夏休み間、ずっとずっと練習をしていた。そして、甲子園に出場した』


 頭に激痛が走る。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 あまりの痛さに俺は大声を上げた。頭が割れてしまうような痛み。地面をのたうち回った。そして……意識が朦朧としていく。



 野球? 練習? 甲子園? 俺が? 本当に? それは本当に俺なのか?

 

 あぁ、そうか。あの時……



 俺はというと、いつもどおりの無難な紹介を言い終わると同時にツインテール女子から「ねぇねぇ。結構、肩幅とかがっしりしてるけど何か部活とかやってんの?」と質問されたので「別に、何もしてない」と答えた。そんなに体育会系に見えるのだろうか。まぁ、背はそこまで高くはないがガリガリって訳でもないしな


 ——嘘を付いた。俺は高校球児。体育会系に間違われて当然だ。


 あの時も……


 

 俺が一日分の食事を摂取したような満腹感で一息ついていると、店内のテレビでは高校野球の番組が流れていた。


 みおなはじっとその画面を眺めている。


 「野球、好きなのか?」


 「……」


 やはり話してもらえない。まぁ、あれだけ何度も声をかけても無視され続けていたんだ。当然っちゃ当然か。俺は溜息をつき、どうしたものかと頭を悩ませる。


 「……ルールはあんまりわかりません」


 「え?」


 「でも、同年代が頑張ってる姿を見ていると凄いなって思います」


 「そっか」


 「はい」


 ——俺はずっと……あのテレビの向こうに側にいたんだ。


 あの時も……


 

 テレビでは甲子園の特別番組が流れていた。選手たちがインタビューに答えている声が訊こえる。沙織がみんなに目配せをした後、航に近づき声をかけた。


 「おーい、ギャル男。今、あんたの話してるんだから少しぐらい——」


 「……」


 「ギャル男?」


 「うぇぇぇーん!!」


 「って何、泣いてんのよ!?」


 航は子供のようにボロボロと泣いていた。


 「応援してた高校が負けちゃってさー」


 航がそう言ったので、みんななんとなくテレビの前に集まった。画面の向こうでは、俺と同い年のやつらが悔し涙を流している。……何ていうか、凄かった。その背景には色んなドラマがあったに違いない。俺でも多少、熱くなるものを感じたのだから、応援している航からするとそれは物凄いことなのだろう。


 ——甲子園球場に立って、ずっと試合をしていた。そして……この瞬間、負けた。俺のせいで。


 

 「はぁ……はぁ……はぁ……」


 少しずつ痛みが和らぎ、少女を見つめる。少女はずっと悲しそうな表情をこちらに向けていた。 


 「本当の現実から逃げるために、あなたは想像した。つまりこの世界、架空の夏休みを作り上げた」


 「…………」


 「けど、一つだけ予想外のことが起きたの」


 「予想外のこと?」


 「無意識の内にあなたは、新たな登場人物を作ってしまった」


 「どういうことだよ?」


 「この小説の物語には、篠宮杏子に妹はいない」


 「それって……」


 「新たな登場人物。それは、篠宮みおな」


 「みおな……」


 「あなたが篠宮みおなを作った」


 「…………」


 何だよそれ。そんな馬鹿な話があるか。俺がみおなを作った? みおなは最初から存在しない? じゃあ俺は、何の為に今まで頑張ってきたんだ。俺は一体何をしてるんだ。


 「彼女はあなたが無意識の内に作り上げた自分の分身。この意味がわかる?」


 「……どういうことだよ」


 「篠宮みおなが置かれている状況、悩み、葛藤、それらは全て現実世界のあなたが抱えている事と繋がっている」


 「俺が抱えてるって……」


 あぁ、今ならみおなの気持ちが少しわかるような気がする。何もかも嫌なことから解放されて楽になりたい。もう何も考えたくない。全てを投げ出してしまいたい。だから……自分の存在を消してしまいたい。俺は自嘲するように口元を緩める。けど、少女はそんな俺の心の中を読んだみたいに。こう言い放った。


 「……本当のあなたは今、自殺しようとしている」


 「え?」


 「そして辛い現実から逃げる為に、ずっとこの夏休みを想像して、繰り返し続けてる。あなた自身が9月1日を望まない限り、この夏休みはずっと終わらない。夏が繰り返される原因は、篠宮みおなじゃない。あなたなの山岡和希!」


 あぁ、そうか。それって何もかも俺のせいじゃないか。みおなの自殺を口実に、俺は自分でこの夏休みを何度も繰り返していたんだ。現実から逃げる続ける為に。

 

 全てなかったことにしようとしていた。


 ずっと忘れたままにしようとしていた。


 まるで臭いものに蓋をするかのように。


 無理やり押さえつけていた記憶が、反動で一気に脳内へと駆け巡る。


 ……鮮明に蘇っていく。


 

 ——カキーンッ。

 

 高く、高く、どこまでも高く、ボールは舞い上がっていく。


 あの一球を捕れば終わる。


 そう、全てが終わるはずだったんだ。


          ◆◆◆

 

 幼い頃から野球をしていた。


 やり始めた頃は全く興味もなかったし、面白いのかどうかもわからなかった。けど、野球は俺にとって父さんとの唯一のコミュニケーションだった。


 寡黙で強面で、どこか近寄りがたい。血の繋がってる息子の俺でさえも、そんな感覚があった。父さんは元甲子園球児だった。母さんが言うには、当時はかなり活躍していたらしい。プロになるかという話もあったが、試合中に大怪我をして夢を諦めたと母さんから聞いた。


 自分が果たせなかった思い。親が子に夢を託す。まぁ、野球に限らずよく聞くような話だ。そして、俺もまた例外ではなかった。


 まだ幼稚園の年長ぐらいだったと思う。日が沈んであたりが真っ暗になる頃。父さんは仕事から帰ってくると、俺に声をかけ、家の前で野球を教える。外灯の光だけを頼りに、俺は教えられるがままに。バットを振った。ボールを投げた。ボールを捕った。


 父さんは厳しい人だった。俺がまだ幼いことなど関係なく、教えられたことを上手く出来ないと真剣に怒る。時にはその怒鳴り声で通行人にじろじろと見られたり、近所の人に心配されることもあった。最初は何でこんな事をしてるんだろうって思った。怒られるばかりで、大して面白さもよくわからない。ただその頃の俺は、父さんの機嫌を損ねない為に、仕方なくそんな時間を過ごしていたんだと思う。父さんの野球への熱意に応える為に、いい息子を演じていたんだ。


 だから小学二年で地元の少年野球チームに所属する事は、ごく自然な流れに思えたし、特に拒絶する理由もなかった。他の同級生がゲームをしている間、遊びに出かけている間、俺はずっと遅くまで練習をしていた。もちろん、本音を言うと自分も遊びたいに決まってる。けど、その時間を削って俺は練習をしていた。サボると父さんに怒られるから…………確かに最初はそうだった。けど、その考えも自分の身体が少しずつ大きくなるにつれ変わっていった。実際に試合に出るようになって、父さんから教えられた事、監督から教えられたこと、自分が努力したこと、そんな多くのものが結果として形になった時、俺は初めて野球が面白いと思えた。だから、自分の意思で野球を続けたいと思った。


 「和希、甲子園はいいところだ」


 そして、父さんが立っていた場所。その場所に俺も立ちたい。そこから見える景色を見てみたい。俺はもっと上手くなって絶対に甲子園を目指す。そう心に誓った。


 中学でも俺は当然のように野球部に入部した。同級生や先輩。チームとなって一緒に野球をする中で、俺は実感していた。自分が注いできた時間は間違ってない。俺は出来る。通用する。今まで色んなことを我慢して、人一倍努力をしてきたんだ。だから他のやつらと俺は違う。実際に俺は上手かった。けど今思えば、それは自信ではなく、自惚れだったのかもしれない。そして、そんな空気が伝わっていたのだろう。俺は周りから好かれてはいなかった。元々性格的に意味もなく群れるのが好きじゃなかった。他のやつらには興味がない。けど、野球はチームプレイだ。そして、皆んな口を揃えたかのようにチームメイトは仲間だと言う。俺はどこかで綺麗事だと思った。確かに野球をするのは楽しい。 


 けど、俺はチームメイトを心から信用することはなかった。本当に信用するべきもの。それは他人じゃない。自分の実力。ただそれだけだと思った。だから、俺は誰よりも努力した。周りに嫌われようが、煙たがれようが関係ない。実力でのし上がり、試合では活躍した。だから、俺は怖くなかった。自分の居場所は自分で作れる、そう思った。


 中学を卒業し、俺はずっと声をかけてくれていた強豪校の宮園高校に入学した。ついに甲子園に行けるかもしれない。そう思うと胸の高鳴りを抑えられなかった。

 しかし、宮園高校の野球部は驚くほどレベルが高かった。練習についていくことがやっとで先輩はもちろん、同学年にも自分が実力で負けていることが目に見えた。初めて経験した挫折。いや、そもそも俺は井の中の蛙だったんだ。今まで見ていた世界はあまりにも小さくて、勝手にその中で調子に乗っていただけだった。俺は野球が上手い訳じゃない。その事に気付かされた。


 そして迎えた一年の夏。全国高校野球選手権大会。


 宮園高校は当たり前のように甲子園に出場した。そして、俺もついに憧れていた甲子園球場を目の当たりにする。けど、俺の居場所はグラウンドではなくベンチだった。それは本来、喜ぶべきことなのだろう。強豪校、しかも部員が大勢いる中で一年がベンチ入りすることは凄いことだ。一年がスタメンに選ばれる。そんなのは野球の神様に選ばれたような本当にセンスと才能がある奴だけだって分かってる。けど、俺は悔しかった。悔しくて仕方がなかった。結局、いつまでも俺の出番が回ってくる事はなく、ずっとベンチから他のメンバーが戦っている姿を眺めていた。こんなにもグラウンドが遠いと思ったのは初めてだった。


 そして二年の夏、俺はまた甲子園球場のベンチにいた。そして、一年の時と同じように、監督に出番を与えられることもないまま、俺はずっと試合を眺めていた。何も出来ない自分が、実力がない自分が、情けなくて仕方がなかった。


 俺は野球に向いていないのだろうか。


 真剣に悩み、野球を辞めることも頭にちらつき始めた俺に、言葉をかけてくれたのは両親だった。


 父さんはいつまでも結果を残せないでいる俺を責めることもなく「和希、諦めるな。諦めなければ負けじゃない」と言ってくれた。あぁ、わかってる。俺は諦めない。何度でも何度でも挑戦する。絶対に周りの奴らより上手くなってやる。


 母さんとは朝練に行く前に、リビングでこんな話をした。


 「なぁ、母さん」


 「どうしたの?」


 「もしもの話だけど」


 「うん」


 「俺が野球辞めるって言ったらどうする?」


 「うーん、いいんじゃない?」


 「え?」


 「まぁ、和希はあの人から色々と押し付けられてきたところもあるからね。だから、自分が本当に好きな事をすればいいと思う」


 「そっか……」


 「けど、お母さんからワンポイントアドバイス」


 「何?」


 「和希は残念なことに、野球しか取り柄がない!」


 「……あのさぁ。それ親が子供に言う、セリフじゃないと思うけど」


 「あはは。親だから、こんなことを言う資格があるの」


 「何だよそれ」


 「朝練。頑張って」


 「うん」


 「それと今日の晩ごはん、楽しみにしてなさい」


 「おっ、もしかして……」


 そして俺と母さんはお互い顔を見合わせてこう言った。


 「「カツカレー!!」」


 両親はずっと俺を支えてくれていた。


 もう昔のように、夜一緒に練習する事はなくなったが、寡黙な父さんはいつも俺のことを近くで見ていてくれた。そして、その時の自分が本当に欲しい言葉をかけてくれる。


 母さんはいつも朝練に行く俺の為に、早起きして弁当を作ってくれた。泥だらけになったユニフォームをいつも洗ってくれた。たまに俺も鬱陶しくなって、生意気な事を言ってしまうこともある。けど、やっぱりこの二人には感謝しかなかった。だから、俺は野球を続けた。絶対に努力をやめない。そう心に誓った。


 そして俺はその頃に、あの小説と出会った。


 いつもの練習の帰り、たまたま立ち寄った近所の本屋。普段、読書なんかしない俺だが、その日はなぜか本屋に足を運び、そして店頭に置いてある一冊の小説に手をかけた。タイトルは、


 ——ようこそ、あおい寮へ


 軽くあらすじに目を通してみる。特に大げさな設定でもなく、どちらかと言うと地味な内容だった。高校生が田舎町で住み込みバイトをする為に、あおい寮という場所で一ヶ月間の共同生活を送る。そして、問題児だった主人公の少年が少しずつ成長していくという物語。特に明確な理由はなかったと思う。ただ何となくという感覚的なもの。俺はいつの間にかその小説を買っていた。


 そして、読んだ。朝の電車。学校の休み時間。寝る前のベッドの上。


 野球のこと以外に時間が出来ると、俺は習慣のように鞄の中からこの小説を取り出していた。何度も何度も読み返す。この物語が。自分で作り上げた映像が。脳に焼き付くほど何度も何度も。


 不思議な感覚だった。俺はどうしてここまでこの小説に心惹かれたのだろうか。その理由は自分でも、よくわからなかった。物語は夏休みの設定。自然に囲まれた田舎町で、それぞれ違う場所からやってきた高校生たちは、次第に心を通わせ、時間と共にいつしかかけがえのない存在になっていく。そんな様子が、この小説では丁寧に描かれていた。


 ずっと練習をして、試合をして、ただただずっと野球と向き合っていた自分とはまた違う世界。いや、そう思っていたのは俺だけなのかもしれない。自分に壁を作り、上辺だけの人間関係を作り、心から周りを信用しようとしない。俺は野球を通してそんな生き方しか出来なかった。だからこそ……俺にはその世界が眩しくて、素晴らしいもののように思えた。単純に自分もそんな夏休みを経験をしたいと思った。そうだ、俺は……結局、どこかで憧れていたんだ。心から信頼できる仲間というものを。


 三年夏。俺はついにスタメンに選ばれ、甲子園でグラウンドに立つことになった。やっとここまで来た。思いっきりあのグラウンドでプレーをすることが出来る。ただ少し不思議だった。確かに血の滲むような練習を繰り返してきたからこそ、今の自分はここにいる。けど、それ以上に俺の考え方にも変化があった。それは多分、あの小説の影響だ。そして、それが確信だと思えたのは宮園高校野球部顧問、寺田監督の言葉だった。


 宮園高校。


 甲子園常連校で名の知れた歴史ある強豪校であり、特にそのチームを育てる監督は少し変わった人柄で有名だった。俺は父さんから監督には二種類のタイプがいると聞いたことがある。一つは選手の個性を殺し、自分の枠に当てはめて理想のチームを作る監督。そして、もう一つは選手の個性を活かして好き勝手にさせる監督。

 寺田監督は確実に後者だった。


寺田スマイルと周りから呼ばれ、いつも笑顔を絶やさない。たとえチームが不利な状況で追い込まれていても、監督は笑顔だった。俺にはずっとその理由がわからなかった。この人が今まであの宮園高校のチームを育てていたのだと思うと、どこか不思議だった。そして、選手の育て方も少し変わっていて、試合前になると寺田監督は選手を自分の家に泊め、共に食事をし、風呂に入り、そして一晩中話をする。


 甲子園での第一試合前、俺は監督の家に泊まりに行った時、お互い湯船に浸かりながらこんな話をされた。 


 「なぁ、山岡」


 「はい」


 「どうして今年、俺がお前を選抜メンバーに選んだのかわかるか?」


 「俺が上手くなったからですか?」


 「確かにそれもある。けど、それだけじゃない」


 「それだけじゃない……いや、わからないです」  


 「山岡はずっと自分一人だけで、野球をしていただろ?」


 「えっと……」


 「正直に答えろ」


 「まぁ、そうですね」


 「だから、お前を選ばなかった」


 「え?」


 「俺は変わっている監督だと言われる。そんな教え方ではダメだ。もっと厳しく選手を育てろと言われたこともある。けどな、それだけじゃあ意味がないんだ」


 「……」


 「お前が他のメンバーを信用していないのは、入部した時からわかっていた。俺はそれが勿体無いと思ったんだ。せっかく才能があるのにな。けど、お前はこの三年間。宮園高校野球部という環境に身を投じながら変わっていった。なかなか結果を残すことができない自分に嫌気がさすこともあっただろう。まぁ、逆にそれが良かったのかもしれないけどな」


 俺は湯船に浸かりながら、監督の言葉に耳を傾けていた。


 「いつしかお前は、悩んでいる者の話を聞き、お節介だと思うぐらいに面倒を見るようになっていた。まるで別人のように。何がきっかけかは俺にもわからん。けど、お前はちゃんとみんなで野球をするようになった」


 「そうなんですかね……」


 「なぁ、山岡。約束してくれるか?」


 「何をですか?」


 「一つは仲間を信じること。そしてもう一つは笑顔を忘れないことだ」


 「…………」


 「野球は一人じゃ出来ない。仲間を大事にしろ。そして、どんなに苦しくても野球を嫌いにならないでくれ」


 「……はい」


 そう言って監督は優しい笑顔を俺に向けた。


 確かに俺は少しずつ変わっていたのかもしれない。本当に信用できるのは自分だけ。自分の実力だけ。ずっとそう思っていた。しかし、その自分の実力がいざ通用しなかった時、頼れるべきものは周りのメンバーだった。


 真剣に一つのことに向き合って、時には大喧嘩をしたり、そして気がつけば仲直りをして、みんなと一緒に同じ釜の飯を食べた。だから、俺は初めて他のメンバーを仲間だと思えた。ちゃんと心を開こうと思った。そんな築き上げてきた信頼関係があったからこそ、俺たちは強くなれたんだ。それは間違いないと思う。


 そして、そんな俺たちの思いを具現化していくように、奇跡が起きた。宮園高校は一試合、二試合、三試合、四試合と次々に勝ち進み、ついに決勝にまで駒を進めた。その時にはもう、俺たちには一つのことしか見えていなかった。甲子園での優勝。優勝を勝ち取るために、全力を出し切る。そう思っていた。 


 しかし、事件が起きた。それは……


 ——父さんとの別れ。


 決勝戦の一週間前に、父さんは持病が悪化して入院。そして、あっという間に息を引き取った。……あまりにも突然の出来事だった。心の整理がつかないまま、重くのしかかる父さんが亡くなったという事実。まだまだ話したい事があった。決勝の舞台に立つ俺の姿を見ていて欲しかった。けど、それはもう叶わない。もう二度と野球を教えてもらうことは出来ない。俺はそんな色々な思いをぶちまけるように、病室で声を上げて泣いた。母さんは黙って、ただ泣いている俺の背中をさすってくれていた。

その手は震えていた。本当は真っ先に自分が泣きたかったと思う。けど、母さんは俺のために、我慢をしてくれているのがわかった。


 そんな俺の状況なんか関係なく、世の中の時間は進んだ。俺は何とか自分の感情を押し殺し、ただただ目の前の試合の為に準備をした。


 そして、決勝戦当日。相手も宮園高校と同じ、甲子園常連校。2−1の9回裏。


 ——カキーンッ。

 

 高く、高く、どこまでも高く、ボールは舞い上がっていく。


 あの一球を捕れば終わる。


 そう、全てが終わるはずだったんだ。


 俺は空に向かって手を伸ばす。


 ギラギラと輝く太陽の光を浴びながら、脳裏にこんな言葉が浮かんでいた。

 

 「父さん、ついにここまで来たよ」


 「そして……この一球で終わる」


 「俺たち優勝するんだ。なぁ、凄いだろ」


 「……どうして父さんはいないんだよ」


 「ねぇ、何でだよ」


 「あんたが……俺に野球を教えてくれたんだろ。だったらちゃんと最後まで見ててくれよ!」


 ボールがスローモーションのようにゆっくり、ゆっくりと落ちてくる。俺のグローブまであと少し。


 そう思った瞬間、大きく視界が揺れた。


 ……しばらく、思考が止まっていた。そして違和感だけがふわふわと身体中を漂っていた。


 どういう事だ。目の前に……すぐ近くにグラウンドがある。


 何が起きたのか自分でもわからない。そうだ、ボール。俺はゆっくりと顔を傾け、グローブの中を確認する。本来そこにあるべきもの。全てを終わらせる事が出来る大切なもの。……俺は言葉を失った。 


 そして、さっきまでの静寂をぶち壊すかのように。耳をつく歓声と怒声と奇声が、甲子園球場を震わすように鳴り響く。慌てて身体を起こし、辺りを見渡したところでようやく俺は自分が今置かれている状況を理解した。

 

 ——俺は一段高くなった人工芝に脚を取られ転倒した。そして、ボールを取れなかった。


 頭が真っ白になった。そして絶望と恐怖が一気に俺を襲った。


 ……何でだよ。何で俺は取れなかった。これで優勝だったはずだ……それなのに俺は……何で取れなかったんだ!!


 俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ、これで負ければ全部……俺のせいだ。もうそれしか考えられなかった。


 その後、試合の流れは一気に変わり、結果……俺たちは負けた。

 

 優勝してグラウンドで校歌をみんなで歌う事を夢見た。


 その夢を果たせなかった宮園高校野球部は、寺田監督を筆頭に誰もいないホテルの大浴場で校歌を歌った。涙を流しながら、嗚咽を上げながら、それでもみんなは歌った。俺はもうその場にいる事ができなかった。みんなの顔を見るのが怖かった。みんなと校歌を歌う資格なんて俺にはないと思った。だから、一人浴場から部屋へと戻った。みんな俺の事を気遣い、誰も俺を責めるやつはいなかった。


 「気にするな」


 「お前のせいじゃない」


 「仕方がない」


 寺田監督にもメンバーにもそんな言葉を投げかけられる。それが辛くて仕方がなかった。むしろ、とことん責められた方がましだった。俺はただみんなに頭を下げ続ける。


 すみません、すみません、すみません。そんな言葉を繰り返した。


 三年の俺たちの夏は終わった。あとは卒業すればそれで高校生活も終わる。来年はもうない。


 いつもは簡単に取れるはずのボールだった。俺が集中できなかったせいで、俺が心を乱されたせいで……取れなかった。そして、チームは負けた。俺がみんなの夢を奪ったんだ。この事実はずっと変わることはない。俺は……最低だ。


          ◆◆◆ 


 甲子園球場から自宅に辿り着くと、リビングの扉の前から母さんの声が聞こえた。


 「申し訳ありませんでした……」


 母さんは電話の相手に、謝罪の言葉を繰り返していた。そして、俺は自分の耳を疑った。


 「息子がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした!」


 息子……母さんは確かにそう言った。そして、俺にはこの状況が何となく想像出来てしまった。その後、しばらく同じような会話が続き、母さんは電話を切る。それを確認して、俺は扉を開けた。


 「お帰り」


 母さんは何事もなかったかのように、明るく声をかけてきた。 


 「電話、誰から?」


 俺は母さんの目を見ずに質問した。


 「あぁ、友達からちょっとね。あ、和希。今日の夕飯さ、またカツカレーを作ろうと思ってるんだけど——」


 「……いらない」


 「え?」


 「どうして、嘘つくんだよ」


 「……嘘って?」


  確信なんてなかった。けど、俺はもう自分が思っている事を口に出さずにはいられなかった。


 「本当は俺への嫌がらせの電話だったんだろ。俺のせいで宮園高校が優勝出来なかったから……」


 「それは……」


 母さんは言葉を詰まらせる。その反応を見て、俺は自分が思い描いていた最悪のシナリオ通りだと悟った。どうして家の番号を知られたのかはわからない。けど、誰かがあの決勝の試合を見て、苦情や嫌がらせの電話をかけてきた事は間違いなかった。そして、その被害が何も関係ない母さんにまで及んでいる。俺は自分自身の情けなさにもう呆れ返っていた。その場に立ち尽くす母さんを無視して、部屋に戻ろうとした時、背後から声が掛かった。


 「和希!」


 「何?」


 「試合……お疲れ様」


 それは母さんの精一杯の慰めの言葉だった。俺の事を気遣っての言葉だった。それはわかってる……わかってるけど……俺はまるで甘えるように、ただの子供のように、母さんに……八つ当たりをした。


 「何でだよ……」


 「え?」


 「何で母さんは怒らないんだよ! あの試合見てただろ? 俺があのボールを取れば宮園高校は優勝出来たんだ!」


 「そうね」


 そう言って、母さんはどこまでも優しい表情で、


 「けど、和希は頑張ったよ」


 と言った。


 「頑張ったって……母さんに何がわかるんだよ」


 言葉を母さんにぶつけるたびに、その言葉が自分に跳ね返り、さらに惨めになっていく。


 「父さんが生きてたら、こんな俺を許さなかった……」


 「……」


 父さんが生きてたらなんて、こんな事……ずっと側で支えてくれていた人に言いたくなかった。口が裂けても言いたくなかった。死んでも言いたくなかった。けど、けど……もう止まらなかったんだ。


 「父さんが生きてたら、もっと理解してくれた!」 


 「……」


 「父さんが生きてたら、ちゃんと叱ってくれた!!」


 「……」


 「それなのに……知らない誰かにはペコペコ頭を下げて、その原因になってる俺の事は、何で叱ってくれないんだよ!!」


 母さんは今まで見た事もないような、悲痛に満ちた顔をして、


 「……ごめんね」


 と、小さく言った。


 「何だよそれ……あんたなんか……あんたなんか母親じゃねぇよ!!」


 そして、俺は逃げるように部屋へと向かった。


 母さんが悪くない事なんかわかってる。俺が子供だって事もわかってる。電話の事も、俺の親としての責任を果たすために、下げたくもない頭を下げてくれたんだ。けど、何をしても受け入れてくれる母さんの優しさが、逆に見放されているような気がして、それが寂しくて、まるで冷たいナイフを突き刺されているような気がして……本当に苦しかったんだ。


          ◆◆◆

 

 決勝が終わった後、俺は残りの夏休みをただ惰性に生きていた。


 どれぐらい時間が経ったのだろうか。時間の感覚がわからない。ずっと自分の部屋に引きこもっていたから仕方ないか。ただ起きて、食事をして、寝るだけの毎日。まるで、魂が存在しない哀れな抜け殻だった。何もやる気にならない。そんな自分が情けなくて、格好悪くて、殺してやりたいほど憎かった。


 それからしばらくして、野球部のメンバーだけのグループラインに、あの決勝戦の動画がアップされた。何も考えないようにしていた。もう二度と思い出したくはなかった。すべての人の記憶から、この瞬間の事なんか消えてしまえばいいと思った。けど、そんな事はもう不可能だという事がわかった。画面の向こうでは、俺が足を取られ転倒した瞬間がしっかりと写し出されていた。


 そして、俺は自分の目を疑う。画面を覆い尽くしたコメントの数々。ボールを取れなかった俺に対する誹謗中傷の嵐。 


 どこの誰かもわからない人たちからの言葉。そんな言葉が永遠と画面に流れ続けている。俺は高校野球を楽しんでくれているファンの人たちの期待を裏切り、仲間を裏切った。


 動画をアップした奴の事はずっと仲間だと思っていた。試合のあともずっと「気にすんな」って、真っ先に俺に声をかけてくれていた奴だった。けど、無理だよな。憎みたくなるよな。自分の夢を台無しにしたやつの事を、簡単に許せるはずがない。だから、これは当然の報いだと思う。けど……そう頭では理解していても。仕方ないとは思っていても。俺にはもう……限界だった。


 それから次第に、自分の精神がおかしくなっていくのを実感していた。気がつくと逃げる事ばかりを考えるようになっていた。どうすればこの苦しみから、自分は解放されるのかを。楽になれるのかを。そして、いつだって同じ答えに辿り着く。こんな俺にでも、たった一つだけ残されている選択肢。それは……自分の存在を消すこと。

 

 そうだ。自分なんて最初からこの世の中に必要なかったんだ。最初から存在しなければ、誰かに迷惑をかけることもなかった。夢を奪うことも、期待を裏切ることもなかった。


 時間は流れる。夏が終わり、また高校生にとっての学校生活という日常が始まる。9月1日という日が当たり前のようにやってくる。それだけなのに。ただそれだけなのに。どうしてこんなにも息苦しいのか。どうしてこんなにも恐ろしいのか。……そうか、簡単なことだ。これだけ多くの人に迷惑をかけた俺には、もうとっくに生きて行く居場所なんかないことを、自分でわかっているからだ。


 8月31日。

 夏休み最終日。

 

 だから、だから俺は…………


 ——明日が来てほしくなかった。このまま全ての時間が止まればいいと思った。


 俺は公園のベンチに座りながら、宙を睨みつけた。真っ暗でほとんど何も見えない。遠くの空からはゴロゴロと不気味な雷の音が聞こえる。誰とも話したくない、誰とも関わりたくない。辛くて、苦しくて、怖くて、惨めで……俺はただ自分を責め続ける。何度も何度も責め続ける。自分の体に、自分の手で、幾つものナイフを突き刺していくように。何本も、何本も、何本も、何本も、何本も、何本も、何本も、何本も、何本も。この痛みから、この苦しさから。俺は逃れる事は出来ない。


 俺は公園のベンチから立ち上がり歩き出す。瞳には一切光が宿っていない。まるで抜け殻のように。まるで動く死体のように。ふらふらと歩き続ける。何度も何度も考えた。その度に、何度も何度も心は傷だらけになった。でも、まだ最後の選択肢が残っている。俺はマンションにたどり着き、エレベーターに乗り込む。指先が選択するボタンは、自宅がある4階ではなく最上階の13階。上昇するエレベーターの中で俺は一人皮肉っぽく微笑する。もう覚悟は出来た。


 俺はマンションの屋上に立っていた。何かに引き寄せられるように。そうしている事があたかも当然の事のように。俺は焦点の合わない瞳で前を見つめ、歩いた。前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、やがて。鉄柵の前まで移動していた。虚ろげに俺は辺りを見渡す。空も町も真っ暗な闇に飲み込まれている。どこまでも広がる闇。漆黒の闇。その闇の世界が俺には唯一の自由に思えた。自由を求める為に俺は今、鉄柵に足をかける。これでいい。何もかも終わりにしよう。


 明日が来てほしくなかった。このまま全ての時間が止まればいいと思った。だから俺はそっと瞳を閉じた。


 死ぬ前に。この山岡和希の人生を終わらせる前に。自分が理想だって思える夏休みを経験したかった。理想の仲間と最高の思い出を作りたかった。それが嘘でもいい。現実じゃなくても良い。せめて、最後だけ。だから俺は……もしかしたら自分が経験したかもしれない、そんないつかの夏休みをどこまでも鮮明に想像したんだ。      


          ◆◆◆


 全てを思い出していた。理解していた。


 今のここではない現実の世界にいる俺の事を。


 太陽はいつの間にか西へと傾き、あおい寮を、俺と少女を、オレンジ色に染めていく。ひぐらしのカナカナという鳴き声だけが、俺たちの無言を埋めていた。そして、俺がようやく全てを思い出したのが理解出来たかのように、少女は静かに口を開く。


 「山岡一希。最後の答えはあなた自身が決めるの」


 「……あぁ」


 これは俺が自分で始めた事。自分が作り出した世界。だから、最後の結末も自分で決めなくてはいけない。それは当然のことだ。


 「なぁ、一つ聞いてもいいか?」


 「何?」


 「君もあの小説には登場していなかった。じゃあみおなと同じで、君も俺が無意識のうちに作り出した存在ってことなのか?」


 「えぇ」


 「そっか……」


 「あなたに今の話を伝える事。あなたに考えるきっかけを与える事。それが私の役割なんだと思う。でも、そんな私を作ったのもあなた自身だから」


 ……俺は自殺をしようとしている。けど、心のどこかでは、そんな俺を止めてくれる理由を探していたのかもしれない。


 「あなたはずっと迷ってる。辛い現実を生きるのか、それとも自分の存在を消してしまうのかを。だからこの世界という理想でありながらも、自分が考える選択肢を残したの」


 「……」


 「……私からあなたに言えることはここまで」


 そう言って、少女は背を向けて歩き始めた。


 その後ろ姿がどこまでも小さく見えて、寂しそうに見えて。もっと違う形でこの少女と出会っていたら、また違った物語があったのかもしれない。けど、少女は自分の役割を全うしてくれた。俺に真実を教えてくれるために。俺にちゃんと考えさせてくれるために。


 「ちょっと待ってくれ!」


 少女の歩みがぴたりと止まる。


 「君は……幸せだったのか? 勝手に俺に作られて、それでも幸せだったのか?」


 なんて質問なんだと思った。けど、何もかも俺の為に生きてくれた少女に、俺は確認せざるを得なかった。


 そして、少女は静かに、


 「幸せだったよ」


  と言った。


 「私は夢の中でずっとあなたの事を見てきた。だから、あなたの気持ちは痛いほどわかってる。あなたに今の話が出来て本当に良かった」


 その言葉があまりにも意外で、


 「ごめん……ごめんな」


 と謝ることしか出来なかった。


 「じゃあね、ギトギト野郎」


 そう言って、少女は満面の笑顔を浮かべ、初めてあの駅で出会った時と同じように、あっかんべーと舌を出し元気に走り出していった。


 その瞬間、俺は自分の目を疑った。


 どこからともなくキラキラと眩い光が現れ、少女の身体を包んでいく。少女はまるでその光と同化するかのように姿を消した。幻想的で綺麗な光だった。少女が消えた後、その光の範囲はどんどん大きくなっていき、あたり一面を包んでいく。


 「……うっ」


 あまりの眩しさに、俺は目を閉じずにはいられなかった。その場から動くこともできず、ただただずっと目を閉じていた。その状態が五分ほど続き、俺は恐る恐る目を開けると、あまりにも驚くべき光景が広がっていた。


 「何だよ、これ……」


 今、目の前に見えるもの。


——それは現実世界で、俺がずっと通っている高校だった。

 

 さっきまで俺はあおい寮の前にいたはずだった。しかし、辺りを見渡すとあおい寮も、あの田舎町の風景もどこにも見当たらず、その代わりに恐ろしく何もない荒地がどこまでも広がっていた。そんな中、目の前にある高校だけが存在していることが、明らかにこの世界の奇怪さを物語っていた。


 そして、俺は自分自身の違和感にも気付く。さっきまではTシャツにハーフパンツを履いていた。けど、今はなぜか服装が変わっている。それも、自分の私服と同じぐらい着慣れている格好。真っ白なカッターシャツにネクタイ、そして紺のスラックス。俺は、制服を着ていた。そして、目の前に見える校門は開かれている。


 俺は思った。これは偶然ではなく必然なんだって。この世界が偽物だったとしても、全ての状況を俺自身が無意識で作っているのだとしたら、そこにはちゃんと意味があるはずだ。それに、あの少女の思いに応える責任がある。だから、どんな結果になったとしても、ちゃんと答えを出すんだ。俺はゆっくりと高校の中へと歩みを進める。


 開かれていた校門を抜けて、校舎を見渡す。約一ヶ月間。たったそれだけの期間だというのに、もう何年もここに来ていなかったような気がした。とても静かで人の気配がしない。まぁ夏休みだから当然か。外から見える、他の学年の教室を見つめながら、三年間の色んな思い出が頭をよぎる。野球部やクラスメイトとの思い出。良いことも悪いこともあった。けど、今の俺は逃げようとしている。自分の犯してしまった罪から逃げようとしている。だからもう、この場所に来ることなんかないと思っていた。それなのに……。


 俺は無意識のうちにピタリと足を止めた。それは体育館の前。なぜかはわからない。けど、俺はここに入らなけれならないような気がした。


 入り口の扉を開け、体育館の中に入ると、全校朝会の時のように多くのパイプ椅子が並べられていた。俺は舞台に向かって歩いていく。静かな空間にコツコツと俺の足音だけが響く。最前列の席に幾つかの人影を見つけ、俺はすぐにそれが自分の知っている人物達だということを理解する。そして、ゆっくり、ゆっくりと歩みを進め、ようやく俺はたどり着く。


 「みんな……」


 ——航、康也、沙織、夏美、そして杏子さん。あおい寮のみんながそこにいた。


 ただ、いつもと違っていたのは、杏子さんはスーツを着ていて、他のみんなは俺と同じように制服を着ていた。


 そして俺は思った。こんな世界もあったのかもしれない。大好きな人たちと、こうやって学校生活を過ごせばまた違った未来があったのかもしれない。杏子さんが担任で、みんながクラスメイトで。あおい寮のような関係性が学校にもあれば。けど、俺は痛感する。これは現実じゃない。あくまでもしもの話なんだ。現実の俺にはもうそんな居場所はないんだから……。みんなはそれぞれ席から立ち上がり、一斉に俺へと視線を向ける。


 「……なんて顔してんのよ、あんたは」


 そんな俺を見て、沙織がいつもの口調で声をかける。自分でも今、どんな表情をしてるのかわからなかった。俺は少し照れくさくなって「まぁ、色々あってな」と言った。


 「和希、和希、かっずきー!!」


 夏美もいつもの調子で、俺に声をかける。


 「どうしたんだよ、夏美」


 「制服似合う?」


 「あぁ」


 実際はあおい寮での生活を繰り返し、何度も何度も会ってきたはずだった。けど、今はまるで初めて会った時のような不思議な感覚だった。それは多分、俺があの少女と出逢い、この世界やみんなの事を知ってしまったからかもしれない。だから俺は、ちゃんと言葉にしないと駄目だと思った。ちゃんとけじめをつけないと駄目だと思った。 


 「俺、やっとわかったんだ。自分の事……あとみんなの事」


 「……」


 さっきまでの空気がゆっくりと変わっていく。その違和感を感じたように航は、


 「何、何、この空気? いつもの俺らっぽくないじゃん」


 と、大げさにふざけたトーンで言った。


 「ねぇ、和希。そんな湿っぽい話はいいでしょ? もっと楽しい話をしようぜ」 


 「航、もういいんだよ」


 俺はまっすぐに航の目を見つめて言った。


 「和希……」


 「俺はもうみんなとは会えないんだろ?」


 「……」


 俺の声が体育館に響き渡る。みんな黙ったまま、下を向いていた。


 「いや、違う。会っちゃいけないんだ」


 そうだ、これは俺のわがまま。俺がずっと甘えているだけの世界。


 「『ようこそ、あおい寮』は俺の物語じゃない。みんなの物語なんだ。それなのに俺が勝手な事をして、みんなを巻き込んでしまった。本当にごめん。だから、この物語はみんなに返すよ」


 沈黙が生まれる。


 「……」


 「……」


 そして夏美は今にも途切れてしまいそうなか細い声で言った。


 「和希……また一緒にみんなで遊ぼうよ」


 「夏美……」


 「もうお別れだなんて嫌だよ……」


 夏美の今にも泣き出してしまいそうな声が、悲しそうな表情が、俺の決断を鈍らせる。大好きな人たち、大好きなあおい寮という場所。そして、短い期間だったけど、確かにみんなとの思い出は俺の胸に刻まれている。


 「そうだって。返すとかそんな細かい事気にしなくてもいいじゃん。俺らとずっと一緒にいればいい。みんなもそう思うだろ?」


 航はそう言って、みんなに視線を送る。


 「あんた達、何勝手なこと言ってんのよ……」


 そして、沙織は静かに口を開いた。


 「何だよ、沙織は寂しくないのかよ!」


 「沙織ちゃん……もう和希に会えなくなるんだよ。本当にそれでもいいの?」


 「…………ないじゃない」


 沙織は俯きながら、身体を震わせていた。そんな沙織に航は声をかける。


 「沙織?」 


 「……いいわけないじゃない! 寂しくないわけないじゃない!!」


そして沙織は、大粒の涙をきらきらと流しながら続けた。


 「和希がいたから、あおい寮の生活があった! 和希がいたから、私たちは楽しかった! 和希がいたから……和希がいたからっっ、本当にみんな友達だって思えたの!!」


 沙織の言葉が本当に嬉しくて、本当に辛かった。


 「俺だって楽しかったんだ!」


 「康也……」


 「俺はずっと一人だった。今まで友達はいなかったし、ずっと一人でもいいと思ってた。けど、和希と出会って、みんなとも仲良くなって。俺も自分が変われた気がした」


 杏子さんはただ黙って、俺たちの様子を見ていた。


 「何だよ、みんな同じ気持ちじゃん……またみんなでくだらない話して、海でバーベキューして、今度こそ本当に怖い肝試しをするって約束だったじゃん。俺、今度は絶対にみんなを怖がらせるからさ。だから、その時に和希がいなきゃ駄目なんだよ!」


 やめてくれ。みんな、やめてくれよ。そんなこと言われたら、ずっとここにいたくなる。もう元の世界に戻れなくなる。みんなの言葉が痛い。


 「……駄目なんだ」


 「どうして?」


 「俺はただみんなに憧れていただけだから」


 「憧れてたってどういう事?」


 航と沙織が質問を投げかける。


 「俺、ずっと野球バカでさ。他人の事なんか全く信用できなくて。だからみんなの関係や生き方が、俺には眩しかったんだ。だから、そんなみんなと一緒にこの夏を過ごしたいって思った」


 自分の心の声がすっと口から溢れていく。


 「でも、それはただ現実から目を逸らして、逃げているだけなんだよな。ここまで来るのに回り道ばっかりしてきたけど、俺は答えをださなくちゃいけない。だから、いつまでもここにはいられないんだ。……俺、普段恥ずかしくてこんな事、言えなかったけど。最後にみんなにちゃんとお礼をさせてほしい」


 みんなとの思い出が頭をよぎる。あのあおい寮という場所で俺たちは、まるで家族のようにずっと過ごしていた。初めはどこかぎこちなかったけど、次第にその関係は変わった。だから俺が今、前に進もうと考える事が出来たのもみんなのお陰なんだ。だから、俺は伝えなきゃいけない。自分の正直な気持ちを。目の前にいる大切な人たちに、別れの言葉を。


 ——俺は夏美と向き合う。


 「夏美」


 「うん……」


 「俺、夏美と初めて会った時、なんか変わったやつだなって思ってた」


 「何で?」


 「ずっとテンション高いし、話すのもすごく早いし。自己紹介の時なんか、早すぎてほとんど内容が入ってこなかったし」


 「……恥ずかしいから、その事は言わないで」


 「俺さ、実はそんな夏美の性格に救われてたんだ」


 「え?」


 「色々としんどくなった時もあって、でも朝起きて夏美に和希—って声かけられたら、何か頑張ろうって気になれた」


 「和希……」


 「今までありがとうな」


 「……うん」


 ——俺は沙織と向き合う。


 「沙織。色々と迷惑をかけたな」


 「何で……そんな事、今言うのよ」


 「じゃあ、下着姿見てごめん?」


 「……ふざけてんの?」


 「冗談だよ。何かあったらいつもみんなの相談役になってくれた沙織が頼もしかった」


 「……勘違いしないで。あんた達が頼りなかったからだけなんだから」


 「そうだな」


 「ちょっと変に素直にならないでよ。調子狂うじゃない」


 「悪ぃ」


 「だから……」 


 「今まで楽しかった……ありがとう」


 沙織は涙を拭いながら、


 「……馬鹿」


 と、言った。


 ——俺は康也と向き合う。


 「康也。正直、俺はお前と仲良くなれると思ってなかった」


 「そうか」


 「いつも難しい顔して。皮肉ばっかりで」


 「それは悪かったな」


 「けど、ちゃんと話してみたら良い奴で。俺と同じバカなんだって思った」


 「さっきも言ったが、俺もお前らと過ごして色々と変わったんだ。だから、自分がバカでいてもいいんだって思えた」


 「じゃあ、お互いに感謝してるってことか」


 「まぁ、そういうことだ」


 「小説、完成したら読ませてくれよ」


 「あぁ」


 「本当にありがとうな」


 「俺の方こそ」


 ——俺は航と向き合う。


 「航」


 「おぅ」


 「……」


 「……」


 「……」


 「……」


 「じゃあ次は杏子さんか……」


 「ちょっと待てー!!」


 「どうした?」


 「俺への感謝の言葉は?」


 「今、言っただろ?」


 「えーっと、だとしたら小さすぎて全く聞こえません」


 「そっか」


 そして、俺たちはいつものノリで。いつものようにケラケラと笑い合う。


 「航」


 「おぅ」


 「俺、ずっと野球部の世界しか知らなかったから、正直言うとお前みたいなチャラいタイプは嫌いだった」


 「あーそれ初めて会った時も言ってたよね」


 「あぁ。そうだ、覚えてるか? 初日にお前が勝手に俺の部屋に入ってきて、嫌いだって言う俺に『って事は、好きって事じゃん』とか、同い年ってだけで『俺たち親友だな』って言ってきたんだよ」


 「あぁ、そういえばそうだった」


 「いきなり呼び捨てにしてきて、堅苦しいよりもフランクな方が距離が縮まるとか言って」


 「ちょっと和希、すっげぇ覚えてんじゃん」


 「それぐらいインパクトがあったって事だよ」


 「なるほどね」


 「けど、今だからちゃんと言うな。本当にその通りだった」


 「え?」


 「俺と航は一生の親友だよ」


 「……」


 「何ていうか、航は不思議なんだよ。いつもバカな事ばっかりしてるのに、みんなが悩んだり、立ち止まろうとしてる時、自分の信念を真っ直ぐに貫くっていうか。普通の人はそれがやりたくても出来ないんだよ。そんなお前に俺もみんなも救われてた。だから、お前はやっぱり本当の主人公なんだよ。これからもお前は、お前のままでいてほしい」


 「和希……今まで——」


 俺は何も言わずに、航の前に拳を突き出す。


 「……」


 「……」 


 そして、俺たちは何かを誓い合うように、コツンとお互いの拳を当てた。


 ——俺は杏子さんと向き合う。


 「杏子さん、今までお世話になりました」


 「ううん。私の方こそ色々迷惑かけてごめんね」


 「迷惑だなんて……」


 「……和希、たとえお互いに存在する世界が違っても、和希が私たちを求めてくれるなら、私たちはいつだってあおい寮であなたを歓迎する」


 「杏子さん……」


 「けどね、それはやっぱり駄目だって思った」


 「……」


 「私たちが和希の歩みを止めてはいけない……だから、お別れ」


 「はい」


 「……あと最後に一つだけ、あなたに伝えなければいけない事があるの」


 「え?」


 「みおなが待ってる」


 「みおなが?」


 「あなたが普段、過ごしている教室で」


 「俺の教室……」


 「さぁ、山岡和希。ちゃんと答えを出してきなさい!」


 杏子さんはそう言うと、俺の肩をパーンと勢いよく叩き、俺のそばから離れていった。


 だから俺はその思いに応えるように、


 「はい!!」


 と、大声で言った。


 目の前にみんなが並んでいる。


 航、康也、沙織、夏美、杏子さん。


 涙を流しながらも、笑顔で俺に視線を送ってくれている。あぁ、これで最後なんだって思った。もう二度と会う事はないんだって思った。あの時の少女と同じように、光がみんなの身体を包んでいく。そして、次第にみんなの顔が、身体が、声が、その空間から……消えていく。

 

 「みんな……ありがとう!!!」


 最後に俺の声だけが残り、眩しい光の中、みんなは消えた。


 体育館にポツンと俺だけが残った。急に静けさが訪れる。今にも寂しさで、苦しさで、押しつぶされそうだった。けど、俺にはまだやらなくちゃいけない事が残ってる。杏子さんに言われた言葉を思い出す。


 『みおなが待ってる』 


 だから…………俺は全力で走った。


 体育館を勢いよく飛び出し、渡り廊下を駆け抜け、階段を登り、そして俺は息を切らしながらも、自分が辿り着いた教室の室名札を見上げる。そこには俺がずっと学校生活を送っていた、3年2組の文字が書かれていた。


 そして……


 教室の扉を開けると制服姿の女の子が立っていた。窓を開けこちらに背を向けながら外を眺めている。夕日が差し込む教室の中は、オレンジ色に染められていてなんとも不思議な光景だ。上手く説明できないが、どこか映画のワンシーンのような気さえする。こんな時に俺は何を考えてるんだって思う。けど……嫌いじゃない。教室という普段見慣れている場所が、こんな風に幻想的になる事が素直に綺麗だと思えた。俺はゆっくりと彼女に近づく。一歩、また一歩……次の瞬間、ひゅるりと窓から心地の良い風が訪れた。彼女の長い髪の毛が揺れ、そして振り返る。目が合う。彼女は全力で笑顔だった。そして、笑顔のままポロポロと涙を流した。俺は戸惑わずにはいられない。なぜか胸が苦しくなって、固まってしまう。そしてしばらくしてから、ゆっくりと彼女の口元が動く。


 「さようなら」    


 その彼女は……いや、みおなは確かにそう言った。


 だから俺は、この避ける事ができない運命をちゃんと受け入れるように。


 「あぁ」


 と、軽く微笑んでそう応える。


 俺は誰もいない教室で、みおなと向かい合う。この世界で俺が一番執着していた人物。けど、その理由が今なら分かる。みおなは俺が無意識のうちに生み出してしまった、自分の分身。だから、同じ境遇で悩んでいる彼女を見て、俺は他人事のように思えなかったんだ。


 「みおな」


 「ん?」


 「……俺、やっぱ格好悪いわ」


 今なら自分が思っている事を何でも言える気がした。正直に全てを話してもいいと思えた。


 「ずっとみおなを守りたいって思ってた。こんな自分でも悩んでるみおなの力になる事が出来るかもって思ってた」


 「うん」


 「けど、ずっと守ってもらってたのは俺だった。俺のためにあおい寮のみんなが、みおなが力になってくれたんだ。俺がいつまで弱くて、駄目なやつだから」


 「和希……」


 いつの間にか恐怖で身体が震える。俺は手をぎゅっと握り力を込めた。


 「……答えを出さなくちゃいけないのはわかってる。けど、こんなに時間をかけても、多くの人を巻き込んでも、まだ……怖いんだ。答えを出すのが怖くて仕方がない。自分がこのまま全てを投げ出して死んでしまう事も怖いし、これから現実を生きていく事も同じくらい怖い……俺は本当に情けない……いつまで経っても踏み出す事が出来ない、格好悪い人間なんだ」


 「……そんな事、言わないで」


 みおなの力強い声が教室に響く。


 「え?」


 「和希は情けなくなんかない、格好悪くなんかない!」


 「みおな……」


 「この世界は作りもの。だから、全ては嘘なのかもしれない。けど、そんな嘘の世界でも、和希はちゃんと私と向き合ってくれたよ」


 「それは……」


 「悩んでる私を、苦しんで駄目になりそうな私を全力で助けてくれた! 私が何度諦めても、和希だけは絶対に諦めなかった! 最後まで私を助けようとしてくれた。それはもう嘘なんかじゃない。本当の事だよ!」


 「けど……」


 「……私は和希が好き」


 「みおな……」


 「私だけじゃない。航も康也も夏美も沙織もお姉ちゃんも。それに現実の世界でも、あなたの事を好きな人は必ずいるから。だから……和希は一人じゃない」

 俺は一人じゃない? ……ずっとそんな事実を証明したくて。俺はもがき苦しみ続けてきたような気がした。今までは一人でも生きていけると思ってた。多分それは、誰も信用せずに心を開いてこなかったから。けど、今は自分にとって仲間だと思える存在が出来てしまった。そして、その大事な仲間の夢を俺が壊してしまったという事実が重くのしかかり……仲間さえも敵に思えて。自分以外の全てが敵に思えて。そう思ってしまうのが本当に辛くて仕方がなかった。   

                                                                                                                                 

 「本当にそうかな……」


 気がつくと俺は、もう涙を止めることが出来なかった。みおなの前で、大好きな女の子の前で、俺はボロボロと大粒の涙を流していた。見栄を張る事も、肩肘張って格好をつける事もやめた。すると、やわらかな手が俺の頭を撫でた。 


 「和希なら、絶対に大丈夫。だって、私を助けてくれたヒーローだから。……現実と向き合うことから逃げないで。全ての人が和希の敵じゃない。あなたのそばにはきっと大切な人がいるから」


 「……」


 みおなの言葉。それは、ただの言葉なのかもしれない。けど、俺たち人間はそんな何気無い言葉で、救われる事もあるんだと思った。実際に乾ききった俺の心は、その言葉によって潤いを取り戻していった。そして、不思議と頭に触れられていたみおなの手の感触が薄れていく。俺は俯いていた視線をゆっくりとみおなに向ける。また……あの光が輝いていた。みんなが消えてしまう時に、必ず現れるあの光が。少しずつ、少しずつ、みおなの身体が光と同化していく。


 「みおな……嫌だ、行くな!」


 「安心して」


 「え?」


 「もし、世界中の人が和希の事を嫌いになったとしても……」


 みおなの姿が、光となって……消えていく。


 「私はずっと和希の味方だから」


 みおなはそう言葉を残し、俺の前からキラキラと輝き、姿を消した。


 俺は思わずその場にうずくまり、声を上げた。 


「……みおなぁぁぁぁああああああ」


 何度も何度も声が枯れるまで叫んだ。


 そして、俺だけが残った教室にも異変が起き始める。ピキピキと音を立て、どこからともなく空間に亀裂が走り、その瞬間、不思議な力によって何もかもが次々に吹き飛ばされていった。学校も、教室も、バラバラになって空中に浮かんでいく。俺もいつの間にかそのまま空へと投げ出され、そして……意識を失った。


 俺が作りだしたいつかの夏休みは、完全に崩壊した。


            ◆◆◆


 長い、長い、旅をしているようだった。


 いつの間にか眠っていたのだろうか。


 マンションの屋上。目の前には鉄柵があった。意識が朦朧としつつも、俺はゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。静かな風がそろりと吹き、少しずつ今の自分を取り戻していく。そして、真っ先に自分が考えるのはあの事。それはまるで呪いのように、他の考えを妨害し、どんな時でも土足で脳内に入り込んでくる。俺がボールを取れなかったあの瞬間。動画に流れる誹謗中傷を見てしまった瞬間。その光景が鮮明に具現化され、何度も何度も脳内をリフレインしていく。そのたびに胸は締め付けられ、心にまた傷が増えていく。


 「はぁ……はぁ……」


 息が上がる。次第に苦しくなっていく。なんて惨めなんだ、なんて情けないんだ。やっぱり、俺には生きる価値がない…………覚悟を決めろ。


 勇気を振り絞り、俺は鉄柵を力一杯握る。そして、その身を乗り出した。あとは鉄柵の一番上に足を乗せ、そして、手を離し、前に体重を乗せる。たったそれだけ。たったそれだけで、この13階という高さから人間は落ちてしまい、地面にたどり着いた瞬間、いとも簡単に命を失う。そうだ……もう苦しむ事はない。悩む事はない。この現実という地獄から抜け出す事ができるんだ。だから……さぁ……さぁ……さぁ!!!!


 そう決意をし、右足を鉄柵の上に乗せた瞬間——。


 ——朝日が昇った。


 俺はなぜだかその光景から目を離せなかった。ゆっくりと朝日に照らされていく、俺が生まれ育った町の景色。夜の闇が徐々に消えていき、その代わりにまるで絵具でも塗っていくかのように、光が町をオレンジ色に染めていく。その景色は今までと違って……凄く綺麗に見えた。


 父さんが亡くなり、甲子園で失敗をして、動画で多くの人からの誹謗中傷を受けた。それからは、この世界には地獄の苦しみしかないと思っていた。どこまでも深い闇が永遠に続き、そこに光が訪れる事はないと思っていた。けど、同じものを見ても……少しだけ角度を変えればまた違った見え方がする事を、今この瞬間知った。

 俺は一気に力が抜け、その場に座り込む。ふと、視線を地面に向けた。そこには一冊の小説が横たわっていた。俺がずっと気に入っていた小説。何度も何度も読んで、すっかり傷んでいるのがわかる。


『ようこそ、あおい寮へ』と書かれている表紙の文字を見た瞬間、一気に色々な事が脳内を駆け巡っていった。


 ……そうか。俺はあの夏休みを経験してたのか。


 今だから分かる事がある。作り物だったかもしれない。全てが嘘だったかもしれない。けど、自分が逃げるために作りあげた理想の世界で、俺は確かのものを手にしていた。俺がここから飛び降りれば全てが終わる。一瞬の恐怖に打ち勝つ事が出来れば、俺は何もかもを捨てて自由になる事ができる。今の自分には、もうそれしか選択肢がないんだって思ってた。


 けど、俺は思い出す。みおなが自殺した後の出来事を。火葬場での杏子さんの姿を、ばあさんの姿を、そしてみんなの姿を。俺が自殺をすれば、少なくとも俺の周りにもあの時と同じような事が起きる。俺は自分が経験したあの地獄のような苦しみを、十字架を、今まで俺と関わってくれた全ての人たちに背負わさなければいけない。


 それを俺はみおなに教えられたはずだ。


『あなたのそばにはきっと大切な人がいるから』


 俺にとって大切な人。今ではたった一人の家族。ずっと俺を支えてくれていた……母さんの存在。父さんが亡くなって、息子の俺が自殺したとすれば、残された母さんは一体、どうなる? ……そうか、やっとわかった。俺はなんて馬鹿だったんだ。俺がこの世界に生まれてきて、誰かと関わった時点で、それはもう俺だけの人生じゃない。だから、俺は逃げちゃいけない。たとえ辛くても、苦しくても、死にたくなっても……この今という世界を生き抜かなきゃいけないんだ。


 俺は9月1日の朝日に向かって、そう静かに誓った。


          ◆◆◆        


 気がつけば俺は、自分の部屋に戻っていた。


 そして、再び思考を巡らせる。あの夏休みは俺にとっての理想だった。本当に信頼できる仲間がいて、その仲間と時間を共にする事が憧れだと思えた。けど、現実の俺はどうなのだろうか? 本当にこれから先の現実は、ただの地獄なのだろうか。本当に信頼できる仲間……。いや、違う。俺はただ自分を騙していただけだ。現実世界でも、俺にそんな仲間はいたんだ。


 ——野球部のみんなや監督。


 泥だらけになって、同じ釜の飯を食べた。そして俺はそんな彼らと苦楽を共にし、甲子園という一つの目標に向かって情熱を注いだ。俺はただ自分が犯してしまった罪から、目の前の幸せを覆い隠し、ようこそあおい寮という物語の中に救いを求めた。


 そして、そんな信頼できる仲間を、俺は勝手に敵だと思い込んだ。自分があんな酷いことをしてしまった。だから、相手も自分を憎んでいるに違いない……そう思うことしか出来なかった。


 けど、もしかしたら……そうじゃない可能性もあるのかもしれない。……実際はどうかなんて本人にしかわからない事だ。けど、まだチャンスがあるんだとしたら俺は、崩れてしまった人間関係という環境の中にもう一度飛び込むべきなんだ。それは死にたくなるほど苦しい事だってわかってる。恐ろしい事だってわかってる。けど、俺はもう逃げない。絶対に諦めない。ずっと支えてくれた、あおい寮のみんなの気持ちに応える為に。


 そして俺は、制服に身を包み、鞄に筆記用具やノートを入れる。それは他でもない、学校に向かうための準備。学生なら誰でもするそんな当たり前の事が、あまりにも息苦しく、これから先の学校生活を想像すると、恐怖で身体が震えた。


 その瞬間、スマホからラインの着信音が響いた。確認すると、寺田監督からだった。


 「山岡、久しぶりに部室に来い。みんな待ってるからな」


 俺は自分の胸が熱くなっていくのを感じた。俺にはまだ……居場所が残っていた。

 航、康也、沙織、夏美、杏子さん、みおな。俺、自分の目で、自分の言葉で、ちゃんと現実の仲間と向き合うよ。


 「ありがとうございます」


 と寺田監督にラインを送り、俺は自分の部屋から飛び出した。


 リビングには母さんがいた。


 母さんはどこか心配そうな顔を浮かべ、俺を見つめる。そうだ、いつだって俺はこの人に心配をかけてきた。俺が生まれてから今まで、こんな俺を育ててくれた。俺が描いた夢を、いつも自分の事のように背負ってくれた。父さんが亡くなってからも、毎朝早くに起きて弁当を作ってくれた、泥だらけのユニフォームを文句も言わずにずっと洗い続けてくれた。俺が馬鹿みたいに酷い事を言っても、この人だけはこうやって、俺を心配してくれるんだ。俺は自分のそばにいる本当に大切な人を……もう傷つけはしない。


 「和希……」


 「母さん、今日の夕飯なんだけど……」


 「え?」


 「俺、カツカレーが食べたい」


 「うん……行ってらっしゃい!」


 人は誰もが主人公で、自分だけの物語を持っている。その結末を悲劇にするのも、喜劇にするのも全て自分次第だ。時には物語の登場人物は、自分一人だけだって思う事もある。けど、ちゃんと周りを見渡せば、そこにはきっと誰かがいる。自分の事を好きだと言ってくれる人が必ずいるはずだから。苦しくなった時、そんな人に自分の弱みを見せる事、頼る事は格好悪いことじゃない。だから、恐れずに飛び込んで行こう。諦めかけていた、山岡和希が主人公である本当の物語の続きを、もう一度始めるんだ。


 現実世界へと続く玄関の扉を、俺は精一杯の力を込めて開けた。



 《了》

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いつかの夏休み 森口裕貴 @moriguchi_hiroki

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