上野人類園

都途回路

第1話

上野人類園へようこそ


 当施設では、Homo Sapiens Sapiensを専門とした保護・繁殖・展示活動を行なっています。

 Homo Sapiens Sapiens 、和名ヒトは、哺乳類の進化上最も急激な変化を今に伝える貴重な種です。この種はかつて地球全域に生息しており、ピーク時の生息頭数は100億を超えると考えられています。最も繁栄していた時期のヒトは、現在とは異なり、高度な文明や言語を持っていたと考えられています。しかしながら、生息数の急激な増加によって食物の奪い合いや縄張り争いが激化し、急激に数を減らしました。現在、生息数は全世界で4万頭と推定されています。

 当施設では、自然のままのヒトを保存することを基本とし、できる限り職員による干渉を避けております。来園者の皆様におかれましても、ヒトへの刺激となる行為はご遠慮ください。



「ねえ、なんでヒトは人間じゃないのに『人』の字を当てるの?」Xは施設名を指して言った。


「昔はヒト科動物が人間だったんだよ」YはXの目を見て言った。


 二人の久しぶりの物理レイヤー旅行は、Yの念願たっての上野人類園だった。YにはXに見せたいものがあったのだ。


  5月の空は高く晴れ上がり、千切れた雲が悠然と流れていた。乾いた爽快な風に乗って、どこからか遅咲きの桜の花びらがはらはらと舞っていた。


 この気象条件はヒトやそのほかの野生動物にとっては恵みかもしれない。しかしXとYにとっては、旅情に華を添える背景に過ぎなかった。そうでないとすれば、さしづめ人間への脅威といったところだ。


 Xは物理レイヤーの感触からしばらく遠ざかっていたためか、流れる景色を忙しく目で追い、野鳥や昆虫が現れるたび「あれは何?」と聞いてきた。Yはその都度質問に答えた。200メートル進むだけで、このやりとりが10回は繰り返されただろう。


 二人は「上野恩賜公園遺跡」と書かれた看板の前で立ち止まった。


 Yらの元に、ガイドが一人歩いてきた。


「こんにちは。初めまして。私上野人類園ガイドのZと申します」


「どうも。予約していたYです。今日はよろしくお願いします」


 Xは無言でペコリとお辞儀をした。


 Zは二人を先導し、看板周辺の広場を奥へと進んだ。


「この恩賜公園遺跡は、ヒトが作った広場の遺跡です。このあたりにはかつて噴水があって、今でも構造が一部残されています。向こうにも遺跡は続いています」」


 Zはかがみこみ、露出した地面を指さした。


「見えますか。これが噴水池の底の部分に使われていたコンクリートです」 


 XはZを真似るようにかがみ込んで、地面に手を触れた。コンクリートは風化してほとんど土と同化していた。


「硬い。石みたい」とX。


「コンクリートはヒトが持っていた知識の結晶のようなものです。ほぼどんな形の建物も作ることができたんですよ」


 Zの説明にYはうなずいた。Xは相変わらず遺構に触っていた。百聞は一触に如かず、ということか。とにかく、フィジカルな感触はXにとって刺激的なようだった。


「この遺跡は何の目的で使われていたんですか」Yは質問した。


「ええ、大体今の正規レイヤーの公園と一緒です。ただ、この公園はかなり大きくて、しかも中にいろんな文化施設がありました。当時は相当賑わっていたでしょうね」Zは腕を伸ばして大きな円をかく仕草をした。


 Yは往時のこの土地の様子を想像した。何千というHomo Sapiens Sapiensが闊歩している様子を。


 Yは軽く身震いした。少々恐ろしい光景だと思った。


 その間にも、Xは勝手に遺構にそって進み、何かを見つけてYの方に合図を送っていた。


「ねえ、ねえ、見て」Xは飛び跳ねながら叫んだ。


 ZとYは小走りでそちらに向かった。


 そこにはコンクリートか石でできた囲いがあった。


「ああ、これは国立博物館遺跡ですね」とY。


「博物館って?」XはYを見上げた。


「今でいうカルチャー・インストーラのことだよ。昔は正規レイヤーも意味ネットワークもなかったから、物理レイヤーに発掘品や標本を並べていたんだ」ZはXに目線を合わせて説明した。


「ふーん。正規レイヤーがないなんて」


「ヒトは正規レイヤーなしで数万年間生きてきたんだ」Yが補足した。Zは首を縦に振って同意を示した。



 三人は遺跡を通り抜け、いよいよヒト保護区の入り口に着いた。


「では、ここからHomo Sapiens保護区に入ります。もう一度注意事項を確認しましょう。周遊路を外れないこと。それと大声を出さないことです。もし、周遊路にヒトがいた場合、私の方で対処しますので、ご安心ください」


 Yは一抹の不安を抱えていた。Xが勝手気ままな行動をとり、ヒトの攻撃を受けることはないだろうか。ただ、真剣にZの話に耳を傾けるXの姿を見て、多少その不安は和らいだ。


 XがYの脚に擦り寄ってきた。Xも強い不安を感じているのだ。もしや、恐怖を感じて保護区内で動けなくなりはしまいか、とYに別の不安が湧いてきた。


 Zが重い鉄扉の鍵を開けた。扉はゆっくりと開かれた。


 保護区は高木の森になっており、その下には草や灌木が密に生えていた。周遊路だけが砂利で舗装されて、植物の勢力を削いでいた。それでも道が凸凹していて歩きにくかった。


「200メートル先にヴィーナスという個体がいるようです。この坂を降ってすぐのところのようですね」先導するZが二人の方を振り返って言った。


 XはYの陰に隠れるようにして最後尾を歩いた。


 YはZの腰に警棒があるのを認めた。やはりHomo Sapiensに対面するには多少なりとも武装が必要だ。


 切り返しの多い坂道を降り終えると、森が開けた。Yらの目の前にはハスの葉が一面に広がっていた。湿地帯になっているようだ。


「この湿地の真ん中の微高地にも遺跡があります」Zは立ち止まって二人に説明した。「あのあたりにヒトがいます」


 三人は木道を進み、徐々にヒトの座標へと近づいていった。Xは中腰になって、周囲の丈の高い草に身を隠そうとしているようだった。


 ガサガサとアシの茎が揺れる音が前方からした。だんだん音が大きくなり、大きな影が草むらの向こうに透けて見えた。


「ウィー、ウィー」アシ原の中から声が聞こえた。間違いなくヒトの声だ。


 そのヒトは周遊路に現れた。


 伸びてからまった髪の毛。日に焼けた浅黒い肌。痩せた胸に垂れ下がる乳房。Yにはまさしく野獣の姿と映った。


 ヴィーナスと呼ばれたヒトは、Zの方を見つめて「ウィー」だとか「マッマッ」と


声を上げた。Zはそのたびに取ってつけたような笑顔を見せて「ウィー」と返した。


「挨拶ですよ。危険はありません」Zは振り向かずに説明した。「言語能力がかなり低くて、複雑な概念を伝えることはできません」


 Xはヴィーナスの姿を見つめていた。その顔には困惑の色がうかがえた。


「あのヒトはロボットなの?」Xはうわずった声で問うた。


「違う。野生の、生物の体をもったヒトだよ」YはXの肩をさすって言った。


「じゃあ、なんでロボットと同じ形なの?」


「私たち人間の祖先ですから、私たちはその時代の体に似せたロボットを物理レイヤーで使っているんだ」Zはようやく二人の方を向いた。


 ヴィーナスは周遊路から外れ、もと来た道を引き返し始めた。時々立ち止まってYとXの方を気にしていた。


「えっ」Xは驚きのあまり注意事項を破った。


 YはXを諌めたが、ZはYを制止した。「あまり大きく動かないでくださいね。ヒトが少し警戒しているようです。ゆっくり離れましょう」


 三人は木道の区間を抜け、島のようになった丘に登った。頂上には柵に囲まれた東屋があり、見学者向けの休憩所になっていた。


 Xはベンチに腰を下ろしながら「怖かった」と呟いた。


「すみません。ヒトを怒らせてしまったようですね」YはZに頭を下げた。


「いや、怒ったわけではなくて、Xが子供のヒトのように見えたのでしょう。大抵のメスのヒトは子供を気にしますから」Zは淡々と説明した。この程度の危険には慣れているのだろう。


「ちょっとここでクイズを出しましょう。昔と違って、現在のヒトは群れを作りません。なぜそうなったと思いますか?」一転して、Zは明るくハキハキと問題を出した。


 Zの配慮に、Yの気持ちは落ち着いた。


「うんとね、ええっと…」Xは答えを捻り出そうと、首を傾げながら考え込んでいた。Xも先程の恐怖から解放されたようだ。


 Yもクイズに参加した。確かに、古い時代のHomo Sapiensは集団生活を送っていたことが知られているが、現生のものは集団で発見される例はほとんどない。言われてみれば不思議な事だ。


 Yは十分とは言えない知識を辿って考えた。まず、ヒトが絶滅寸前に追いやられた原因は食糧難と戦争だ。現代でもヒトの食料は不足しているだろう。大集団で狩りや採取を行うより、単独で縄張りを作ってその範囲の食料を確保する方が理に適っているのでは?


「推測ですけど、群れを維持するだけの食料がないのでは?」とYは回答した。


「実は、違うんです。ヒトの食物を調べた研究があるのですが、どの地域でもありふれた動植物を利用しているようなんです」


「じゃあ、わかった。喧嘩になるからでしょう」とX。


「ええ、ほぼ正解です。今のヒトは近づきすぎると喧嘩をします。縄張りがあるんです。歴史を遡って調べていくと、ある時期を境に、ヒトの群れはどんどん小さくなっていってるんです。そして現在では完全な単独生活になったわけです」


「え、その時期は具体的にいつなんでしょう。きっかけも無しにそんなことが…」Yには合点がいかなかった。


「約5000年太陽前ですね。ちょうど戦争の時期と重なっています。まだ仮説段階ですが、戦争を起こす文化を捨てたものだけが生き残ったとも言われています。実は、今我々が調査をしているんですよ」Zは誇らしげに言った。


 なんだ、まだ理由はわかっていないのか…とYは落胆した。


 しかし同時に、自然の恐ろしいほどの正論を突きつけられたようにも思えた。Homo Sapiens Sapiensが人間のままでは生き延びることができなかった。言葉を捨て、協調性を捨て、それでもなお絶滅のふちに立たされた生物を哀れに思う心がどこかにあった。


 人間は自然に見放され、機械の中に逃げ込んだ。古風な言い方をすれば、コンピュータに心をアップロードしたのだ。当然、データとしての人間を動かすためには大量の電力が必要だが、それさえも手に入れられずに、処理速度を落としてなんとか電力を節約してきたのだ。その結果、実物の地球が太陽を1万周する間に、機械の中の人間界では200標準年しか経っていないことになっている。成長をやめた人類には、もはやこの物理世界をどうすることもできない。


 Yは東屋から湿地を見下ろすと、沼のふちにヴィーナスと思しきヒトが歩いているのが見えた。


 そのヒトはこちらを気にしているようだった。Yには、それが恨み顔のように思えた。



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上野人類園 都途回路 @totocaelo_19

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