第5話 恋人に
学校に休みの連絡を入れて三日目。いつまで逃げ続けるのか。
彼女が俺を忘れてくれるまでだ。
もう彼女を守ろうとする必要はなくて、そもそも守る必要なんてなかったんだ。
「俺は何がしたかったんだろ」
布団に丸まってぼんやりと虚空を見上げているとインターフォンが鳴った。
うるさい。勧誘なら別の日にしてくれ。
ドアの方向に背を向けて耳をふさぐ。
しかし、それでも一定の間隔でアパートのチャイムが鳴った。
五回ほど続いた後、ドアをノックする音がした。
「久保くん、いるんだろ?」
声の主は
彼女の兄が何の用だろうか。
「僕の話を五分だけ聞いてくれないか」
ちらりと時計を見るともうすぐ午後五時だ。授業なんてとっくに終わっている。
「光里が中学生の頃、あいつがいじめられてるのに僕は気付いてやれなかったんだ」
同じ中学に通ってたのにな、と雨宮兄はため息をついた。
「あいつがいじめられてたことを聞いたのは僕が卒業した後だった」
その頃には彼女も学校からいなくなった。当時を思い出し、布団を頭からかぶる。
「心配をかけまいとした光里を今度こそ守ろうと僕は生徒会に入った。あの娘が安心して過ごせるようにしたかったんだ」
俺は何もできなかった。知っていたのに、見ていたのに、雨宮を助けることはできなかった。
「三年の田島が光里に手を出そうとしていたのを知って、どうにか手を打とうとした矢先、君が現れた」
すべてが動き出したあの日。
思えば雨宮を助けようとしたのが間違いだったのかもしれない。
「その日のうちに嘘の恋人同士になったと打ち明けられたよ。君が光里の過去を知っているかもしれないということもね」
聞かされた時、雨宮兄はどう思ったのだろうか。
「最初、僕は君から離れることを提案した。でも、光里は前に進もうとしていた。だから、君も――」
「あんたに何が分かるんだよ!」
思わず、叫んでいた。
そして玄関のドアを挟んで言葉を続ける。
「俺はあいつの厚意に甘えてただけだったんだよ。周りを騙して優越感に浸ってたんだ。そうじゃなきゃ、あいつの傍にいるはずないだろ」
嘘だ。俺はただ、雨宮の傍にいたかったんだ。
今度こそ、一緒にいたかったんだ。
「だから、逃げるのか?」
彼の一言は俺を動揺させるのに十分だった。
言葉に詰まっていると郵便受けに空色の封筒が落ちてきた。
「君がどうするか。僕に口出しする権利はないのかもしれない」
雨宮兄は諭すような口調で続ける。
「だけど、君がその手紙を読んで気が変わったなら、日が暮れる前にあの子に会いに行って欲しい」
人の気配が遠ざかるのを感じた。俺はすぐに封筒を手に取ることはできなかった。
もしかしたら、また嘘をつくことになる。そう思ったから。
いつまでもこうしてなんていられない。いつかは前に進まなければいけない。
雨宮兄はそのチャンスをくれたのかもしれなかった。
「これは――」
女の子らしい丸まった字で手紙は書かれていた。
『久保雅人君へ。貴方が私を助けてくれた時、すごくうれしかった。他の誰も動いてくれなかったのに、貴方は私の傍に来てくれた。
そのあと私の過去を知ってるって聞いて少し怖くなりました。また同じようなことが起きるんじゃないかって。
でも、私は貴方を信じたかった。中学校の頃、図書室に本を返しに来た貴方のことを思い出したんです。
貴方は覚えていないかもしれないけど、ポスターで私のおすすめする本を借りてくれた人がいて、うれしくて声をかけてしまったのを覚えています。
面白かったと言ってくれたのが、あの日々の中では数少ない嬉しい出来事でした。
そんな貴方と一緒にいたい。そう思ったんです。
だけど、私に勇気がなくて嘘の恋人という口実を作らなければ一緒にいられないと考えました。
それが間違いでした。
貴方を困らせてしまった。貴方を怒らせてしまった。貴方を傷つけてしまった。
それでも、私は貴方にお弁当を作ったことも、一緒に映画を見に行ったことも、手をつないで歩いたことも、後悔なんてしていません。
もし許してくれるのなら、また学校で会いましょう。雨宮光里より』
読み終えたときには、手紙を握りしめて部屋を出ていた。
走って走って走って。もっと早く。彼女のところへ。
中庭。人の姿はない。
教室。ほとんどの生徒は帰っている。
時折、私服の俺を怪訝そうに見てくる生徒など知ったことか。
廊下を走るな? そんなこと今は関係ない。
「ここにいたのか」
「雅人くん」
屋上で雨宮は待っていた。
「聞こえてたよ。先生の怒鳴り声」
クス、と雨宮は小さく笑みを浮かべた。
「そうだろな」
それきり無言。お互いに何から切り出していいか判断を迷っていた。
だけど、ここは俺からいくべきだ。
「手紙、読んだよ」
「そっか。兄さん、届けてくれたんだ」
俯いていた雨宮は影から顔を上げ、俺から視線を外さなかった。
そしてゆっくりと口を開く。
「私を許してくれる?」
彼女の表情に怯えはなかった。どんな答えでも受け入れるような雰囲気で。
「謝らなきゃいけないのは俺の方だ。好き勝手なこと言って悪かった」
頭を下げると彼女が近づいてくるのが分かった。
「じゃあ、嘘の恋人関係はこれでおしまい」
「ああ」
顔を上げると彼女の晴れやかな笑顔が待っていた。
そうだ。これでいい。俺たちは前みたいに――。
思考を遮るように、雨宮が両手で自身の頬を叩いた。
「雨宮?」
「だから。だからね」
彼女は、はにかんで右手を差し出してきた。
「私と本当の恋人になってくれませんか」
夕日に照らされた彼女はいつも以上に眩しくて。
そんなの答えなんて決まっている。
「俺でよかったら――」
彼女の手を握り返す。
もう一度、ここから始めよう。本当の恋人として。
嘘の境界線と恋人の始まり 平石永久 @Hiraishi_Nagahisa
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