第12話 鬼がいる間に その3

「来たね――なんだ、思っていたよりも早いじゃないか……」


 その声に、クードが意識を目覚めさせる。体を起き上がらせ、目をごしごしと手の甲で拭う。

 まだ完全に眠気を払拭できたわけではなく、再びまぶたを下ろせば、もう一度、ふっと眠れるくらいには不完全な目覚めだった。


 しかし――。


 屋根から見える、村の景色――、クードが見ている、村の半分ほどの景色のちょうど真ん中に、一人の少女がこちらを向いて、こちらを見て、見つめて、ゆっくりと歩いていた。


 それを認識して、クードは自動的に、意識を完全に目覚めさせる。

 本能的に、ここは眠っている場合ではない、逃げなければいけない状況であると判断したのだろう。迫る少女はプラムであるが、発見されたところで逃げ切ることができるだろう――なんて常識は、既に常識の枠に入らない。


 こうして見つかってしまった、こうして目と目が合うほどにまで、こうも近づかれてしまった……、その時点で逃げ切れる可能性は、少なくなっていると考えるべきだ。


 副リーダーの少年はそう判断したらしく、腰を上げて、逃げる体勢へ。いつの間にか、準備は万端だった。片足を屋根から外に下ろし、もう片足は、まだ屋根の上に残しながら、


「……高所恐怖症だからと言って、ここが安全ってわけではないからね……、今の内に反対側から逃げることをおすすめするよ。建物が陰になって、目視はされないと思うからね」


「なら――先に行け。おれはここで、プラムを引きつけておく」


「――どうして? 一緒に逃げればいいのに……」


「これは個人戦じゃない――チーム戦だ」


 クードも腰も上げた――だが、少年と同じように逃げるべく、上げたわけでなく、逆……立ち向かうべく、上げた腰だった。

 少年とは反対側の屋根の端に、数歩、歩いて近づき、足を、屋根の端に置いた。

 そして、下にいる、ゆっくりと歩いて、近づいてくるプラムを、見つめる。


 見下す。


 人差し指を立てて、こっちに来いよ、と誘うように挑発する。


 プラムはクードの挑発にイラッとしたのか、おでこに怒りマークを浮かばせる。

 が、ぷくーっ、と頬を膨らませているだけなので、怒っているというよりは、いじけている、すねている――そんな類の感情に見えてしまう。


 迫力がない怒り方だ――。


 それはそれで、プラムの良いところの一つなのだと認識しながら、クードは後ろにいる少年に伝える。


「……プラムがここに来たってことは、他の奴らは捕まった、と見るべきだろうな。

 残りはおれたち二人――、時間制限がある以上は、逃げ切ることを考えるべきだ。

 そしてそれは、囮を使えば、一人を逃げ切らせることは、針の穴に糸を通すよりも簡単なことだ。おれがプラムを引きつけている内に、お前は逃げ切るために、遠くへ行き、隠れる――。

 作戦としてはこんなもんだけど……いいか?」


「クードは、囮として捕まるつもりなのかい……?」


「囮ってのは最終的に敵側に捕まるもんなんだけどな――、けどおれは捕まらねえよ。

 プラムには絶対、負けられないからな」


「そう――」

 少年は頷いた。

 クードが後ろをちらりと振り向けば、少年は既に、屋根から体を、八割以上も外に出していた。屋根の上に残っているのは顔と、肩――、そしてその肩も、すぐに外へ出てしまう。

 順番通りに、顔も――。


 少年が屋根から全身を降ろしたのを見届けてから、クードは意識をプラムに向けた。

 あのプラムだ、と過去の彼女の印象がまだ抜けていないからこそ生んだ、油断だった。


 まだ下にいると思っていた――、クードが思い描く予想では、まだゆっくりと、こちらに歩いて向かっているところだと思っていた。

 ここまで上るのに必要な、はしごでも探しているのだと思っていた。

 早くても、はしごを立て掛けているのだろう、と思っていた。


 しかしプラムの成長は、クードの予想の全てを越える。


 プラムは、はしごを使わずに、ただの助走で、走りの勢いをそのまま使い、壁に足をかけ、そこから跳躍――、ここに上ってくるまでの過程は、そのまんま、クードと同じだった。

 もしかしたらどこか遠くから、クードがここを上る様子を見ていたのかもしれない。もしそうなのだとしたら、なぜその時に、ここに上って来なかったのか、という疑問が残ってしまうが、その答えは簡単なことなのだろう。


 たとえば、後回しにしていただけ――、

 逃亡者は、リーダーが捕まり、残りは四人なのだから、ここにいる、クードと副リーダーではない、他の二人の逃亡者を捕まえることを優先させたのかもしれない。


 たとえば、上り方は分かったが、高所恐怖症が前面に出てきてしまい、気持ちの整理が必要だった――など。そういう精神的な葛藤があったのだとしたら、まだ付け入る隙がある、と見るべきだとクードは思ったが――、しかしこうして上って来てしまっているということは、プラムは覚悟を決めたのだろう……、高所恐怖症と、向き合うための。


「お――」

 動きが止まってしまっていたクードは、

 声を無理やり出すことで、体に、動けという命令を出した。


 今更だが、鬼は逃亡者の体に、指先でも触れればいいことになっている――、それで鬼は逃亡者を捕まえた、とすることができるのだ。

 そしてこの状況――、飛びかかってきているプラムの勢いは、素直に速い。


 クードがその位置にいながら体をくねくねと動かし、避けようとしたところで、きっとプラムは、指先でクードの体のどの部分でも、触ることができるだろう。


 クードの鼓動が早くなる。

 このままではプラムに触れられて、捕まってしまう。副リーダーには囮役として動くと言っているし、捕まったところで、それは囮としての役目を全うしたということになるのだが――、

 だけど、クードは、それで満足はできなかった。


 負けられない。

 捕まるわけにはいかない。


 だから、


「――クーくん! 諦めてわたしに……」


「――つ、捕まるか、よぉお!」


 プラムは両手を広げて、クードを逃がさないようにした。右左前を塞がれて、クードの逃げる選択肢は、一か所に絞られてしまった。

 それによく考えてみれば、今のプラムの体勢は、まるで抱擁する時の体勢だった。

 だがそんなことなど意識の外だ。クードは絞られた一か所に、身を投げる。

 背中から地面に、倒れるようにして、体から力を抜いた。


 逃げ場所を一か所に絞った先に、もう一つの攻撃があるとは思えなかった。

 プラムにそこまでの戦術を組み立てられる頭があるとは思えないし、それに、経験も足りない。これで決まり手だと思っているのだろう。だとしたら、まだまだだった。

 クードにはもう見えている――、勝ち筋ではないけど、逃げ筋が。


 倒れ、背中が地面に着いた瞬間――、クードは足を上に振り上げ、そしてその時についた勢いを使い、真後ろに後転した。

 一瞬、ぐるりと視界が回転し、プラムの姿もよく認識できなくなったが、ただ真後ろに逃げるだけならば、特に問題はなかった。

 プラムに、さらに追撃される前に、ひたすら逃げる。


 屋根の上から落下したところで、体を鍛え上げているクードには、大してダメージはない。それに着地の瞬間に受け身を取ってダメージを和らげることができるのだから、恐怖はなかった。


 回転し、空中へ飛び出す。


「きゃ――」

 というプラムの悲鳴が聞こえ、驚きの顔が不安定な状態で見えたが、すぐに視界から消える。


 見えるのは、石造りの家の、窓――、

 視界の真下から真上に高速で移動し、それも視界外に消えていく。


 そして――家の扉は消えることなく、視界の中に存在し続けたままだった。


 そこで回転はなくなり、体の落下も止まる――。


 どうやら、地面に着いたらしかった。


 受け身を取るのを忘れていたが、必要なかったということは、体に怪我がある、というわけではなし、怪我をする危険性もなかったというわけだ。


 自分基準では、この高さから落ちれば、怪我くらいはすると思っていたが。

 自分で思っているよりも、体は充分以上に鍛えられているというわけか――。


 後頭部を擦りながら、なんとなく、「いてて……」と言いながらあぐらをかく。


 すると、


「――だ、大丈夫なの!? ――クーくん!」


「……んー、大丈夫だ。別に痛みも特にないしな――」


「そっか……良かったぁ。――もう、いきなり危険なことしないでよ!」

「しょうがないだろ。ああしなくちゃ逃げられなかったんだから」


「必死にやるのはいいけど、無茶しないでよ……っ」


「……その言葉はそっくりそのまま、お前に返すけどな――まあ、いいけど。

 つーわけで、おれは逃げるから、またおれたちを見つけるところから始めろよー」


 最後にそう告げて、森の中にでも――、いや、村の中、建物の陰にでも隠れていようかと今後の予定を考えていたクードに、プラムの泣きそうな声が聞こえてくる。


 反射的に、逃げる行動を捨てて、クードは振り返った。

 その声を聞いたら、すぐにでも駆けつけて、そばにいてやりたくなった――、


 だがプラムが抱えている問題は、クードが駆けつけて解決するべき問題ではなかった。


 自業自得と言うべきもの。

 クードはプラムの様子を見て、ニヤァ、と口元を歪めた。


「……クーくん、ここから降ろしてほしいんだけど……」


「上れたんだから、降りられるだろ? 高所恐怖症は克服したんじゃなかったのか?」


「上るのは、行けるんだけど――というかさっき初めてやってできたんだから、降りるのも大丈夫かなって思ったんだけど……、やっぱダメだった。

 ――やっぱり怖い! たーすーけーてー、クーくーんっ!」


「あー……。悪いけど、プラム――こういうのは、助けない方がお前のためになるから」

「ちょ――ちょっと待ってよ! ほんとに見捨てちゃうの!? ねえ!?」


「それにこれは勝負だ。お前がそこから降りられなくて、鬼ごっこがこのままおれ達の勝ちで終わる方が、都合が良い」


「……ずるい」

「なんとでも言えばいい」


「ずるい、卑怯、最低、バカ、アホ――」

「なんとでも言えばいいとは言ったけど――悪口は気を遣って言わないようにしろよ!」


 裏切り者ー! と叫ぶプラムに背を向けて、すたすたとクードは距離を取る。

 助けたい衝動に何度も駆られたが、ここは心を鬼にするべきだと判断した。


 ここで助ければ、プラムに鬼ごっこで負ける可能性がぐんと高まってしまう。プラムを剣士にさせたくないクードは、なんとしてでも、ここで負けるわけにはいかない。

 ならば――今の衝動を抑えるのが、ここでプラムを助けないのが、プラムのためになる。


 剣士なんて――死に職業だ。


 プラムにはなってほしくない。


 そういう気持ちを再確認してから、クードは走り出す――。

 囮としての役目は充分に果たしたはずだ。今までのやり取りの間にも、副リーダーの少年はどこか遠くに行き、隠れているだろう。

 ならば――もしもの話だが、彼が見つかり、捕まってしまった時のことも考え、自分も隠れているべきだろう。


 いや――、

 一か所に停滞しているよりも、動き続けている方が、結果的に逃げ切れる確率は、高いかもしれない。もしも隠れていて、その状態で見つかれば、足掻くことなく、ゲームは終了だ。

 だが、動いていれば、そこから逃げ切ることもできるのだ。


 そういうことを踏まえれば、答えは出ていた。


 動き続ける――、クードが選んだのは、体力勝負だった。

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