第168話 雇用

 退院と再就職の手続きを済ましたヴィズはハンドルを握っていた。

 車種は先の戦いで生き延びた方のフォルクスワーゲン。

 その数立方メートルしか容積のない車内に、ヴィズとキーラ、そしてローレンシアが同乗し、そのメンバーに加えて車内は、ヴィズが全身から放つ負の雰囲気オーラが立ち込める。


「糞ッ垂れが!!」


 ダンッ!と車体が揺れる。ヴィズが刀鍛冶職人顔負けの気迫で、ハンドルを殴ったのだ。


「あのクソジジイも! ルーリナも! お前とお前も全員クソ野郎だ!!」


 鳩時計が決まったサイクルで時報を告げるように、ヴィズはかれこれ数時間、一定周期でキレ散らかす事を繰り返していた。


 キーラは沈黙は金という言葉を信じて、助手席のドアにピタリと体をすり寄せて怒りの矛先を交わし、一方で後部座席にいるローレンシアは紫色の瞳を愉悦を噛み締めた下弦の月形に歪める。


「ヴィズ……じゃなかったか。」とローレンシア。


 左右非対称に歪んだ“チンピラの目”がバックミラーを睨みつける。


「黙ってろ。置き去りにするぞ」


 繊細な動物ならショック死を起こしかねない恫喝も、ローレンシアには額面通りの意味しか持たない。

 それどころか、怒りという感情で動いているヴィズに比べて、“思惑”で動いているローレンシアの方がトラブルの種としては、厄介な存在なのだ。

 後部座席を滑るローレンシアは、自殺志願者を唆す死神のように座席の端から助手席のキーラに囁く。


「キーラちゃん。あなたもヴィズのパートナーなのだから、対等に意見するべきよ」


「巻き込まないでください。……マジで」


 キーラから扇動者の表情は伺い知れないが、うなじに当たる吐息の感触から、悪鬼めいた笑顔を浮かべているのは容易に想像できる。


「ねぇ、キーラちゃん。確か、あのおじいちゃんは“契約書を読め”って散々念を押していたよね?」


 ローレンシアの悪意しかない言葉は車内の隅々まで響き渡る。


 運転席から奥歯を噛み込む音が届くと同時に、キーラは目を閉じて耳を塞いだ。

 ちょうど死を悟ったダチョウが頭を地面に埋めるのと同じふうに。


「ローレンシア、よく覚えておけ契約書なんてな! ちり紙の硬いところを集めてこさえたゴミ屑なんだよ!」


 運転を放棄し、後部座席に掴みかかるヴィズ。

 そんな緊急事態が楽しくなってきたとばかりに、ローレンシアが声を張り上げる。


「じゃあ、そのゴミ屑ごときで右往左往してるヴィズはさながらスカベンジャーだね!」


「クソ野郎、お前なんかその辺の熊の餌にしてやる」


「この大陸に熊はいないよ! その様子だとお勉強の方も大変そうね!」


 拳の射程距離から指一本分で逃れたローレンシアに、ヴィズは発煙筒を投げつけて、沸騰した怒りのボルテージを冷ます。


「誰が勉強なんかするかっ!」


 ドンッと車体が揺れるほどの力で再びハンドルを殴る。

 その行動もさながら、ヴィズの言動は明確な契約違反を示唆しているのも問題なのだ。


「ヴ、ヴィズさん………。でも、でもですよ、契約書にはそう書いてありましたよね?

 動物管理官に就くに当たり、所定の大学で動物行動学等の学位を一定期間内に取得する事と………」


 キーラは正義感とパートナーとしての責務も果たす。

 その見返りは、「思い出させるな」と鼻差に指を突き立てられての恫喝だった。

 肺が裂けそうな緊張感の中で、さらに神経をキリキリと締め上げるローレンシアの声が続く。


「あと契約書には、動物管理官の補佐は区長及び区長の信託する人物が選任するともね」


 ギリッ。ヴィズの奥歯が音を立てる。そろそろ奥歯が砕けても誰も驚かない頻度だ。


「こんなの詐欺だ」


 彼女が溢した泣き言には、自分自身に対する強い侮蔑が込もる。


 彼女が夢見がちにサインした契約書には、半永久的に彼女の将来の安定を保証する旨味があった反面、彼女が見落としていた条件として、ヴィズには特権階級としての高貴さとして、“教養”と“隷属”が要求されていたのだ。

 教養は満たす条件は、学歴を示すこと。彼女は指定された大学で“自力かつ実力”で博士号を取得しなければならない。

 また、隷属の証として、国が指定した役員、この場合ではルーリナの根回しを受けたローレンシアを雇い続けなければならないのだ。

 突き詰めていくと彼女は、自分の落ち度とある種当然の責務に対して自己中心的に不快感を表しているのだ。


「…………上手い話には裏があるっていつも言ってたのはヴィズさんじゃないですか」


 キーラの言葉を皮切りに、ヴィズはタバコを咥える。

 苛立っているからタバコを咥えたが、タバコを忘れるほど激昂しているワケではないという塩梅。


「うるさいな。私だって完璧な人間じゃないんだ」


 諭しているのか、死体に鞭を打っているかキーラは、ヴィズに対して言わなければならない事を告げる。


「完璧じゃないのは知ってますけど、普通酒瓶と“仕事”を持ってきた友達の友達を信用してサインなんかしませんよね」


 深呼吸に伴って、さながら闘牛のようにヴィズの鼻から紫煙が噴き出す。


「普通? あいつが持ってきたのはジョニ黒だぞ。

 ジョニ黒を持ってきた奴は私にとって救世主なんだ」


 キーラは、オーバークロックさせたスーパーコンピュータのように頭脳をフル回転させて言葉を選ぶ。


「そう。そのように責任の所在がはっきりしてるので言わせて貰いますけど、完全に自業自得ですよ。ヴィズ・パールフレア


 オーバーレブするエンジンのようにハンドルを小突くヴィズ。その後には周囲の生き物の心臓を縮み上げさせる効果があった。


「クソ。金で全て解決するはずだったのに」


「ねぇ、キーラちゃん。こんな最高のジョーク知ってる?

 “これから私をパールフレア博士と呼べ! 博士号だぞ、箔がついた。博士号だけに!”」


 ローレンシアの合いの手は、キーラに擬似的な心筋梗塞の症状を催す。

 ローレンシアがジョークと称したその言葉は、昨晩の病室で酔ったヴィズが騒いでいた言葉そのものなのだ。


「マジで殺すぞ」とハンドルに額を押し付けるヴィズ。

 アクセルを踏んだまま、前など見ていないのだ。


「でもほら、この先は良い事しかないですよ、きっと」


 キーラはヴィズを慰める。


「良い事…………。例えば、この瞬間にチャーフィー戦車にカマを掘られて私だけ生き残るとかな」


ヴィズはキーラに中指を立てた。


「そう気を落とさずに………少なくとももう少しで、“我が家”ですよ」

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