端に寄りかかって

三津凛

第1話

漠然とした不満がいつも私の中にはあった。それは透明な膜となって私を覆い、静かに周りの人たちから私自身を追いやっていった。いくら手を伸ばしても、他のものを直には決して触れさせないための膜が、私の皮一枚隔ててそこにある。

それは、不意に私を追いやっていく。

飲み会の最中にある騒めき、その雑音が急に油のように重くなってどこまでも私と融け合わなくなったとき。奇数のグループの中で、自然とその会話から隔たっていくとき。そういった自分を静かに徹底的な諦めと共に眺めるときに、壁よりも膜といったものが私を覆っていると感じるのだ。

その膜は、胎児が母胎の中で包まれる膜のようなものではない。たとえるなら檻のようなもの。高校時代に開いた教科書で、不思議な近接を感じたもの。

鉄のカーテン。

別に見たわけでもない、触れたわけでもない。歴史の彼方に追いやられた西と東と、人々と……。添えられた写真には国境を命がけで越える親子が写っていた。鮮やかな色彩しかない教室の中で、モノクロのそれは全てが芝居染みているように見えたものだった。ボーダーラインをまたぐ最中で射殺されて親子が何百人いたかどうかなんて、知らない。今や東西冷戦、鉄のカーテンはただの暗記物として退屈この上ない存在として、教科書の中に押し込められている。

意識しなければそれでいい。けれど、それは透明ななにかを持って私をいつも覆っているような気がする。

そうやって私は生きてきた。



脚を伸ばした先に、また別の脚があること。自分の神経の埒外に、また別の肉体が転がっていることはちょっとした雑音だと思う。

それはちょうど交響曲の楽章間に挟まれるオーディエンスたちの咳払いやパンフレットをめくる音のようなものだ。それらが不快なものではないうちは、お互いの関係が上手くいっている証拠なのだと思う。

やや肉づきの薄い脹脛には薄っすら無精髭のような毛が生えている。私にとっては、そのざらつきが不快だった。

私はもう一度自分のものではない脚を蹴って、相手がまだ起きてないことを確かめる。むき出しの肩は規則的に上下して、乱れる気配はない。私は寝床からそのまま抜け出して、振り返らずに浴室へ向かった。思い切り蛇口を捻って、頭からそのまま熱湯をかぶる。その音でまだ寝たままの男が目覚めないか密かに期待をする。私は石鹸を泡立てながら、昨夜のことを思い出す。

会社の同期でやった宅飲み。いつもお人好しなえり子は嫌な顔せず酒を並べ、イオンで買い込んできた惣菜の封を開けていた。半ば強引に企画して、彼女の家を会場にしたのだけど意外なほどそこは居心地が良かった。酔いが回って、終わる頃には終電もぎりぎりで、仲本に至っては終電を逃したことを言い訳にそのままえり子の家に泊まろうとしていた。

前からこの男がえり子のことを狙っていると同期の中では有名だったから、何人かは含み笑いをしながら成り行きを見守っていた。えり子の困った笑顔と、仲本の小狡い上目遣い、助けもせずひやかすように後ろから笑う同期たちを見ているうちに、酔いが芯から醒めていくのを感じた。開け放たれたままの扉から流れてくる夜風に、アルコールで浮腫んだ神経の束が一本ずつ剥がされていくような感覚がした。

ふと、えり子と目が合って微かに彼女の唇が歪んでいることに気がついた。私がはっきり目を見据えると、えり子はさり気なく視線を逸らした。

嫌なら嫌だって言えばいいのに。

私は漠然とそう思って、無性に苛々とした。えり子は曖昧な態度のまま、仲本も一向に身体を起こす気はない。そして周りは早くも帰り支度をして、何人かはすでに駅に向かったようだった。途端に全てが茶番に思えてきた。

「じゃあ私の家に来れば。えり子は彼氏がいるからやめな、あんたもちゃんと言わないと」

私はわざとえり子に向かって言った。

「えっ、まじ?」

仲本は急に身体を起こして、目を剥いた。

「はあ?知らなかったの?」

「……え、ほんとに?彼氏いんの?」

仲本は半分怒ったように言う。それがあまりに滑稽で、私は笑いそうになった。

「え、うん。ほんと」

えり子は強張った顔で、仲本ではなく私を見ながら言った。彼氏がいることは嘘だった。それに、えり子はレズビアンで男にはそもそも興味なんてない。

仲本は失望を隠そうともせず、赤黒い顔で立ち上がり私の肩を押して靴を履き始めた。そのまま私たちはえり子の家を出て、仲本は本当に終電が終わっていて、私の家に当然のように転がり込んで来た。

仲本は気を遣う素振りもなく、勝手に水道水を飲み、シャワーを使わせてくれと言った。私も彼には興味がない。黙ってタオルだけ渡して、浴室の電気をつけた。

シャワーを浴びた後の仲本は幾分清潔な雰囲気になり、私も入れ違いにシャワーを浴びた。

その後で仲本は形ばかり「ありがとな」とだけ呟いた。散々えり子に男がいたなんて、と愚痴を聞かされた後で仲本は半分引きずるようにして私を寝室に連れて行った。

鬱憤を晴らすような仲本の動きに、私は一層滑稽なものを感じて吹き出した。それを仲本は勘違いしたのか、得意そうに鼻を膨らませて私を見下ろす。

私はそこで、心からえり子に同情したのだ。

仲本はシャワーを浴びた後でも起きていなかった。本当は起きていたのかもしれないけれど、寝たふりをしていたのかもしれない。私は全てが終わって改めてまだ膨らんだままの寝床を眺めた。そこに徹底的な異質を感じて、漠然とした不満が立ち昇ってくるのを覚えた。それは仲本とえり子の二人に感じたもので、この愚鈍な獣のような男にまずは怒りを覚えた。私は強引に布団を剥がして、「早く起きてくれない、それにいつまでいる気よ。日曜日だけど、私はやることあるんだけど」と怒鳴った。

仲本は微かに呻いて、ようやく目を開けた。私は自然と剥き出しになった下半身に目がいった。こんもりとした恥毛に埋もれた肌色のそれはしな垂れて小さかった。

「……うるせーな、いいだろ」

仲本は隠す素振りもない。私は呆れて、こんな男に狙われていたえり子に同情した。

けれどそのえり子にも私は怒りを覚えた。彼女のセクシュアリティを知ったきっかけは些細なものだった。たまたま会社の近くのレストランで、随分歳上の女性とえり子とが親しそうに食事をしているのを残業終わりに見たのだ。えり子はよく見れば綺麗な顔立ちをしている。意図的に地味に抑えられた化粧や服装がそれをうまく隠していた。それなのに、その時の彼女はいつもより濃い化粧をしていた。それだから余計に目を引いたのだ。彼女の視線の先にいたのは男ではなくて、女だった。でも直観でわかったのだ。この二人は「そういう関係」なのだな、と。

えり子は私に気づいていなかった。翌日会社で、私はストレートに聞いた。

「ねぇ、えり子って女の人が好きなの?もしかして、付き合ってる人っている?」

えり子はそこで固まった。

「あ、たまたま見ちゃったの。この前の残業終わりにさ……なんか綺麗な人と一緒にいたの。化粧とか普段と違うし、直観でそうなのかなって」

私は慌ててそう言った。別に咎めるつもりもないし、誰かに言いふらすつもりもない。暗に私は目でそう訴えた。

「……やっぱり、見る人が見たら分かっちゃうんだね」

えり子は観念したように笑った。

「彼女とはもう4年になるの。誰にも言わないでね」

「それは、もちろんだけど……。会社の近くでは会わない方がいいんじゃない。余計なお節介だけど」

「ううん、そうだよね。ありがとう」

えり子とはたまにその事について話す。件の彼女は大学時代に出会って、当時は非常勤講師だったそうだ。卒業して何年か後に再会して、付き合いが始まったという。今は大学の准教授で文化人類学だかを教えているらしい。

仲本がそんなことを知るはずもなく、えり子もまた異性からの好意には無防備だった。えり子はこれまでずっと女の子としか付き合ったことがない、と言っていた。その恋愛は時として難渋するものであっただろうけれど、そうであるがゆえに、えり子のパーソナリティを侵されざるものにしている。さながら科学研究室で徹底的に管理された培養皿に並べられる微細な細胞群のようだと思った。えり子はえり子自身の手でそれを慈しみ、守ってきたに違いない。それは不思議な魅力をもって、一定の男女を虜にするのだ。

私はそんな彼女に、どこかで嫉妬に似たような怒りを覚えていた。それは馬鹿な仲本に対するそれよりも根深い怒りだった。女が女に向ける怒りはどこかで肉親への憎しみとも似ていると思った。

「それよりさあ……」

仲本のねとっとした掌の熱で、私は我にかえった。素早い動作で、仲本は私の太腿に擦り寄った。その中に一際熱っぽい部分があって、私は呆れた。

「なに、欲求不満?」

仲本はそれには答えず私を布団に押しつけた。私はちらりと仲本の身体を眺める。鍛えていると散々同期に自慢していたわりには締まりのない身体だった。

「お前って、彼氏とかいんの?」

思いついたように仲本が言う。

「いるけど」

一瞬だけ仲本の動きが止まる。

「まじ?」

私は笑った。

「冗談だよ」

仲本は唇を歪めて笑った。

「……で?あんたは彼女とかいんの?」

「いたらこんなことしてねぇよ」

こんなこと、ね。

私は心底この男を軽蔑した。盛んに擦りつけられる部分に、仲本の熱が伝染しているのが不快で身体をよじった。

その熱に仲本自身が囚われるのに、時間はかからなかったようだ。その日から仲本はやたら私に馴れ馴れしく、私の終業を待ち構えて強引に一緒にご飯を食べに行かされる。それがない日は、「お前んちでなんか食べようよ」と当たり前のように言う。仲本は必ず「なにか買ってく?」と聞くが、会社終わりに寄り道するのも面倒で、大抵あり合わせのもので私が何か作るはめになる。嫌なら断ればいいのだけれど、一旦他人のいる生活に慣れると、不思議とそれを手放すのが惜しいような気になってくる。それがたとえ仲本のような男であっても、人格の嫌らしさと肉体同士の暖かさ、心地よさはつくづく比例しないものだなぁと思う。

仲本の方もそう感じているのだろうか。彼は今や週のほとんどを私の家で過ごしている。えり子のことはさすがに諦めたようだけれど、好きな子はまだ他にいるようだった。

当然、それは私ではない。

終わった後にすぐ私に背を向ける。その姿が妙に痩せっぽちで孤児のように見える時がある。

でも今は私たちはほとんど一緒にいる。



仲本と不毛な関係を半年ほど続けていた時、今度はえり子の方から久しぶりにご飯でも行かないかと誘われた。そこで彼女は思いもよらないことを話したのだ。

「私ね、結婚しようと思うの」

「え、だってえり子はさ……」

私を遮るようにえり子は口を開く。

「もちろん、彼女のことは好きだし、別れるつもりもないけど……やっぱり、親とか社会とか……そういうものからは逃れられないのよ」

えり子が自嘲気味に笑う。それはあまりにもよく馴染む笑みだっただけに、彼女は過去幾度もこんな風に自分自身を笑うことを繰り返しているのだろう。私はそれを哀れだと思った。

それに彼女は一度も男としたことはないのに、これからどうやって結婚生活を営んでいくというのだろう。その問いの一つ一つが、えり子を錐で突くようなことだと気づいたのは随分後になってからだった。

私は綺麗に揃えられた脚に目をやった。ぴったりと閉じられたそれは、甘えを寄せつけない隙のない場所だ。大聖堂を支える支柱。

それが蛙の足のように広げられて、男が飛び込んでいくことはなんだか信じられなかった。

「その、付き合ってる相手はえり子が結婚してもいいの?」

そこでえり子は更に自嘲気味に笑った。

「あのね、彼女にもパートナーがいるのよ」

「えっ」

「事実婚で週末婚なんだけどね。旦那さんも知ってるみたい、妻が女と外で付き合ってること」

「そうなの?」

「うん。変でしょ、私たち」

えり子の思いもよらない告白に、私はほんの少し動揺した。えり子はレズビアンで、恋人はいるが彼女には異性の別のパートナーがいて、しかも妻のセクシュアリティを知った上で関係を続けている。そしてえり子自身も結婚する予定なのだ。

それに比べるとあの夜からずるずると続いている私と仲本との関係なんて、陳腐すぎてお話しにならないだろう。

えり子はこの後泣きそうな顔をしていた。本当に彼女は幸せなのだろうか。

「……子供とかは産むの?」

「子供は好きだから、欲しいけど……。結婚する相手の子供は欲しくないかな。彼女の子供なら、産みたいけど」

「なんだか複雑すぎて、ついていけない」

「ふふ、私もそう思う」

えり子はそこで泣きだした。大きな両手でえり子は涙を見せないように泣いた。指の間から滲む涙がやけに綺麗に見えて、私は見てはいけないものを見てしまったような気がした。

「仕事はいつまで続けるの?」

「まだ少しは続けるつもり。彼はやめてほしいみたいだけど」

えり子は涙を拭いて、小さく呟いた。

私たちはしばらく黙って、見つめあった。えり子の血の気のない顔色を眺めていると、心の底が不思議と冷え冷えとしてくる。

思い出したように、えり子はおもむろにスープを飲み始めた。それはとっくに冷めて美味しくなさそうだった。それでもえり子は文句も言わず飲み続ける。私も押されるようにスプーンを取った。冷えた膜を破って、かき回す。

どうしてこんなことになったのだろう。

どうしてこんな風になるのだろう。



えり子と別れた後で、アパートに帰ると仲本が上がり込んでいた。ものも言わず、仲本が擦り寄って来る。言葉の通じない獣を相手にしているようで、私は世界が急に冴え冴えとして来るのを感じた。

正体のない不満。とらえどころのない不満。漠然とした不満。それは覆いとなって、私の肌をすぐ外側から包んでいる。すぐ目の前の仲本を見る。彼は私と目が合うと、にやっとした。だが彼は私を見ていない。指をもつれさせるように、乱暴にブラジャーのホックを外す。

「ちょっとやめて」

「なんだよ、いいだろ」

私は仲本の黄色っぽい肌を眺める。そう歳も違わないのに、仲本は全体的に不健康に見えた。それなのに盛りのついた若い獣じみた呼吸をいつもしている。それが滑稽で、どこまでいっても好きになれない理由の一つはそれだった。彼はこうやって歳を取っていくのだろう。こんなことをするくらいなら、いっそ好きな子に告白でもすればいいのにと心底思った。

馴れ馴れしい手つきに、私はふとえり子のことを思い出す。彼女も結婚をしたらこんな風に男から扱われるのだろうか。同じ女でも、全く重なることのないえり子と私との人生が、それでもどこか深いところでは根を同じくしているのが見えた。彼女の痛みは、そのまま私のもので、私の痛みもまた彼女のものになる。

私は仲本を下から上へ眺めた。隙だらけでだらしのない佇まいだった。

「あのさ、もう来ないでくれる」

「は?」

私は乾いた唇を舐めてもう一度言う。

「もう来ないでくれる。あんたとは二度とこんなことするつもりないから」

仲本が何かいう前に、彼の腕を掴んでそのまま玄関の外へ押し出した。仲本は呆気にとられて抵抗することも忘れたようだ。騒ぎ出す前に居間に投げ出されたままの荷物と靴も放り出して鍵を閉め、チェーンを掛けた。

「お前!何してんだよ!どういうつもりだよ!」

仲本は数秒の沈黙の後で大騒ぎを始めた。私は無視して浴槽に湯を溜め始めた。そしてiPhoneから音楽を再生して、なるべく男の声が聞こえないようにした。

仲本はしばらく悪態をついていたけれど、諦めたのかすぐにドアの向こう側は静かになっていった。すぐにiPhoneに仲本が電話をかけてきた。そこで急に大学時代のことを思い出す。誰からも連絡のない日、誰とも会わない夜がとてつもなく怖い時期があった。震えるiPhoneは、そのまま何かの免罪符のように作用した。学生時代はどこか待ちわびるようなその震えが、こんな風に忌まわしく面倒に感じる瞬間が来るなんて、と笑えた。ふと鏡を見る。もうそろそろ「若い」とは言ってもらえない境にさしかかる。えり子はそうなる前に全てを予定通りに納めた、ということなのだろうか。

私はそのまま仲本をブロックして、全てを終わらせた。

湯船に浸かりながら、私は静かに考えた。

漠然とした不満がいつも私の中にはあった。それは透明な膜となって私を覆い、静かに周りの人たちから私自身を追いやっていった。いくら手を伸ばしても、他のものを直には決して触れさせないための膜が、私の皮一枚隔ててそこにある。湯の中にあってもそれは決して溶け出さない。ままならない生命のように、それはいつまでもしつこく絡まり、いつのまにか宿主を殺していく。ふと気がつく。

それは他人に対してではなく、私自身に対しての不満であるから決して溶けることがないのだ。湯の中に体を沈めて、息が苦しくなるまで待つ。やがて限界が来て、私は顔を出した。

翌日から、仲本は露骨に私を避けるようになった。

えり子はそれから半年もしないうちに会社を辞めた。結婚式の案内も来たけれど、私は気が進まなくて行かなかった。

えり子と会うことは二度となかった。

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