閃光は暁に刺す
平賀・仲田・香菜
閃光は暁に刺す
茨城県土浦市。市中から少し離れ、蓮の池に囲まれたトタンの小屋があった。錆びた屋根や扉は歴史を窺わせ、いつも何処かが壊れているような有様である。
暖房もストーブもないその小屋は、真冬になると凍てつくように冷たい。扉を閉めても、何処かから凍てついた空気が流れてくるのである。その冷気は、中の人間の身体を、精神を蝕むようであった。
それにも関わらず、小川暁という青年は此処を幼少の頃より根城としていた。物心がついてから、十七になる現在までずっとだ。特に、父親と揉めた時ほどよく来ていた。今日、此処を訪れた理由も正にそれであった。
「変な臭い、だよなあ」
暁青年は誰に聞かせるでもなく呟いた。ダウンコートを羽織り、埃っぽい机の上に腰掛けて尻を冷やしながら呟いていた。浮いた足を所在なげに揺らし、天井を見上げる。剥き出しのトタン屋根には小さな穴が所々に空いているようで、朝の冷たい陽光を通したそれはまるで星空であった。雨水を通さぬよう透明なビニールを通した光だが、ビニール越しの光は屈折し、滲み、それもまた星の様相であった。
雨水が錆を流して天井に出来た染みは天の川だな、などと季節外れな星座を思い浮かべていた時、暁青年は外に強い光を感じた。ヘッドライトを消し忘れた車でも来たのか、などと勘ぐりもしたが、自分と父親以外の人間が此処にやってくることなど暁青年にとっては初めてのことで訝しむ。立ち上がり、窓硝子越しに外の様子を窺う。
小屋の入り口には一人の少女が佇んでいた。表札をじっと見ている。歳は十五であったが、暁青年には同い年か年上かと錯覚させるほどに艶やかで大人びて見えていた。そして奇妙なことに、その少女は真冬だというに浴衣を着用していた。さらに言えば、編み上げのロングブーツを履いている。頭には大きな黒いお団子、簪が刺さる。その姿は季節も国籍もアンバランスなものであったが、どこか調和も感じるものであった。
暁青年は少女を見たとき、母親の印象を彼女に重ねていた。幼い頃に亡くした母だ。彼の記憶に母親は殆どいない。唯一残っているのは、手を引かれて夏祭りを回ったことであった。その記憶が呼び起こされたのだろう、暁青年は一人でそう納得し、外に出た。
「何か御用ですか」
彼が声をかけると、少女は一瞬だが目を見開いた。扉から外に流れた小屋の空気に顔もしかめていたが、すぐに平静を取り繕い彼女は返答をする。
「花火、売ってもらえますか」
おずおず、といった様子で訊ねる彼女は、内容も含めて何だか滑稽なものに見えていた。
小屋は花火の工房であり、少女が見つめていた表札には『小川煙火店』とあった。そして、小川暁という青年は花火師の跡取り息子であった。
「申し訳ないですが、一般には直接売っていないんです。そもそも、うちは尺玉が中心なので個人には売れません」
彼女は狼狽した。最初からおっかなびっくりな様子であったが、購入を断られるとも思っていなかったのである。
「尺玉って打ち上げ花火ですよね? 売れないものなのですか?」
「花火は危険物です。打ち上げるにも手帳や資格、地域に申請だっているんです。気軽なものじゃあない」
暁青年は語気荒く応対している。父親と揉めた苛立ちをぶつけてしまっているかもしれない、そう思って少し反省した。
「小さな花火でもいいんです。どうしても『小川煙火店』さんの花火を見たいんです」
どうしたものかと暁青年は困惑する。苛立ちを八つ当たりした手前、無下に断るのも気が引けていた。
「そんなことを言われても、この季節じゃあ在庫だってありません」
「季節が関係あるのですか?」
「花火の旬は夏じゃないですか」
もちろん秋や冬に花火大会を行う場所もある。ここ土浦市の花火大会もそうである。が、どうせ工房にはないのだからと思い、そう言った。少女は目を見開いて驚いていた。そんなことは初めて知ったと言いたげだ。羞恥と落胆に沈むその瞳は、暁青年の良心を揺らした。
「何とか、簡単なものを一つでも作っていただくことはできませんか。今日中に帰らなければならないのです」
父に頼めば、それくらい何とかしてくれるだろうとは思った。しかし、喧嘩をしたばかりでお願いをすることは暁青年にとってシャクであった。
ならば自分が作ればいいとも思えるが、法律は未成年による火薬の取り扱いを強く制限している。暁青年はその産まれにより、花火に関する法律や規則には詳しかった。
「線香花火」
暁青年は彼女に言った。
「火薬を別の材料で代用した線香花火なら、作れます」
「ありがとうございます!」
暁青年は少女の瞳から、季節に削ぐわない夏の高い太陽の輝きを感じた。
「私の名前、旭と言います。暁さん」
「よろしく、旭さん。──ところで」
名乗った覚えはなかったが、小川煙火店を知っているのならば不思議ではなかった。
「寒くない? その、団扇と鯉の浴衣」
旭少女はクスクスと静かに笑って応えた。
「大丈夫です。でも、鯉じゃなくて金魚です」
※※※
「こんな簡単に作れるんですね!」
「炭酸カリウムとか硫黄で作れる。集めようと思えば簡単に手に入るよ」
危ないから一人でやってはいけないけど、と暁青年は付け加える。混ぜ合わせた材料を、手馴れた様子で和紙に包んで、こよる。言ってみれば簡単な作業であるが、薬品の量、捻る強さは彼の経験によるものが大きかった。旭少女の感心を受けながら、五本の線香花火がみるみるうちに出来上がった。作業を傍らで見守っていた彼女に対し、暁青年は不思議と見知った幼馴染みのような心象を抱き始めていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。おいくらでしょうか」
「いいよ、素人が作ったものだから売物じゃない」
材料費こそかかってはいるが、職人ではなく技術もない自分が作ったもので収入を得ることは彼のプライドが許さなかった。
まだ日は高いが、これから何をしようかと当てもなく暁青年が考え始めた時、旭少女はもじもじと何かを言いたげだった。
「よろしければ、この線香花火で一緒に遊んでいただけませんか?」
この発言は暁青年にとって衝撃であった。多感な時期を過ごしている彼には、年頃の少女からの誘い文句に動揺せざるを得なかった。
「私、花火を触るのが初めてなんです。だから少し、怖い思いもあって」
もじもじに加え、おずおず、しずしず、といった様子であった。暁青年はボサボサに伸びた頭を掻いて居心地の悪さを誤魔化している。とはいえ旭少女からの言葉に対して、満更でもない思いもあった。
「駄目、でしょうか」
「……いいけど、暗くなるまでにはまだ時間がかかるけど」
その返答に、旭少女はぴょんぴょんと全身で喜びを表現する。
「ありがとうございます! 折角花火をするのです、どうせならお祭りらしいことを私はしてみたいのです!」
「花火が初めてと言っていたけれど、まさかお祭りも初めて?」
旭少女はこくりと頷く。花火もお祭りも経験せずに生きてきたとはとんだ箱入り娘なのかもしれない、暁青年はそう考えながら提案する。
「ちょうどいい店を知っている」
※※※
彼らが訪れたのは薄暗くて埃っぽい、玩具専門の問屋であった。問屋といっても、駄菓子や縁日用品を卸売りの価格で一般に販売している店だ。ここは、学園祭やバザーの際に地元の人間によく利用されている。商品の陳列は雑多であったが、来店した幼い子どもにとってはまるでテーマパークのようにも感じさせるものだった。
暁青年も、昔はそんな幼い子どもの一人であった。高校生になった現在でもよく訪れては、玩具を購入しているのであった。
「暁ちゃん、今日は彼女と一緒かい」
「すみにおけないねえ、青い目をした女の子だなんて」
顔見知りの店員からの野次に、暁青年はバツが悪かった。それとは対照的に旭少女は店の商品に釘付けで、野次は耳に入っていない様子であった。
「型抜きにポイ、あとスーパーボール詰め合わせ。アンズ飴も頂戴」
暁青年はさっさと目的を果たし、旭少女の手を引いて店を出る。旭少女は名残惜しそうな目をしたが、暁青年は気付かないふりをして、小走りだった。
彼ら二人は工房まで戻ってきた。店をもう少し堪能したいという思いが強かった旭少女だが、工房前で目の前に広げられた光景には思わず見入ってしまっている。
水が張られたビニールプールには、模様も大小も様々なスーパーボールが浮かんでいた。水に濡れたスーパーボールは日光を反射して宝石の様であったが、旭少女の大きな瞳はそれ以上に煌めいていた。
「これを……どうしたらいいの!?」
彼女は酷く興奮していて、暁青年は思わず笑みが溢れていた。
「これですくい上げるんだ。やってごらん」
暁青年は旭少女にポイを幾つか手渡す。どうせ最初は上手くいかないんだからと、数は多めだ。
浴衣の袖が濡れぬよう四苦八苦しながら挑戦する旭少女を尻目に、暁青年は廃材に腰掛けてアンズ飴を囓る。
『こういう食べ物はお祭りだからこそ美味しいのであって、今食べても美味しくないだろう』
べっとりとした砂糖の甘味が口いっぱいに広がった時にそう考えたが、不思議と不快ではなかった。むしろ美味しいとさえ感じていた。旭少女だけでなく、自分もお祭りの気分に酔っているようだと苦笑する。その様子に気付いた旭少女は小走りに駆け寄ってくる。
「暁さん! 難しいです、すぐに破けます! なのに楽しいのはどうして!? 私にもアンズ飴ください!」
捲し立てるようにそう言われ、暁青年は旭少女にアンズ飴を手渡そうとする。しかし、その手には破れたポイがたくさん握られていて、渡すだけでも一苦労であった。
「甘い……! とにかく甘い! たまに酸っぱい!」
ころころと旭少女の表情は変わった。
「ほら! 赤いですか!? 私のべろ!」
これは無邪気すぎた。暁青年は少女の口内を落ち着いて観察するには、まだ若かった。しかし、目に入った。食紅き塗れたその舌は、ぬらぬらと光っていた。見てはいけないようなそんな気がして、どうにも目を背けざるを得なかった。
次に、二人は型抜きを始めた。工房から椅子と机を持ってきて、押しピンを片手に向かい合って挑戦していた。
「男の子って細かい作業が好きですよね。プラモデルとかもそう」
「かもしれない」
「これ、楽しいですか?」
「かもしれない」
「本当にちゃんと抜けるものなのですか?」
「かもしれない」
集中する暁青年は生返事だ。旭少女は諦めたように自身も型抜きを始めた。
事実、暁青年は型抜きが嫌いではなかった。しかし、ここまでの集中力を見せることが今日までなかったことも事実である。これには先ほど目にした、旭少女の艶っぽい口内が影響していた。脳裏から払拭して塗り替えるように、集中という行為をもって記憶の上書きを図っているのだった。
ぱきり。暁青年の手元でデンプン質が砕ける。細部が割れてしまった。ため息を吐いて旭少女を見る。開始当初の困惑は何処へやら、彼女も大変に傾注していた。
暁青年は新しい型を手に取り再び挑む。針先を型に押し付けたところで、旭少女に尋ねた。
「どうしてうちの花火が欲しかったんですか?」
暁青年はだいぶ彼女に打ち解けていたが、その質問は敬語であった。旭少女は手を止めず、下を向きながら応える。
「到底信じられないかもしれない理由を話しますが、よろしいですか?」
暁青年がその問いかけの意味も分からず了承すると、旭少女は話し始めた。
「私は、西暦二千五百九十一年からやってきました」
暁青年は思わず手に力が入り、早々に二枚目の型を砕いた。
「その時代では、花火を作る技術が既に失われてしまっています。人々は映像やバーチャルの中でしかそれを知らないのです、私も含めて。だから一度、本物の花火が見てみたくて時間旅行に馳せ参じたというわけなのです」
「ふうん。でもどうしてこの時代、小川煙火店なのさ」
暁青年は平静を装うがぱきぱきと型を無駄にして、既に五枚目である。旭少女は続ける。
「驚かないでくださいね。私はあなたの子孫なのです」
驚くなという方が無理な話であろう。暁青年は六枚目に手をかける。
「代々続く花火師である小川家。丁度あなたの代で花火師の家系が途切れます。だから、どうして家を継がなかったのか少し気になった次第です。これが、私がこの時代に小川煙火店にやってきた理由なのです」
「──そっか、僕はやっぱり継がないのか」
暁青年は今朝も父親と進路について揉めたことを思い出し、苦虫を噛み潰す思いであった。
「そういうこと、過去の人に話してもいいの? タイムパラドクスだとか、バタフライエフェクトとかがあるんじゃないの?」
どこかのSF小説で知ったような言葉を旭少女に質問する。彼女は顔を上げて一瞬ぽかんとしたが、次の時には声をあげて笑っていた。
「そんなもの、時間旅行ができない時代の人が考えた御伽話ですよ。そんなそよ風じゃあ歴史は変わりません」
「──歴史は、変わらない」
暁青年はその言葉に揺れた。思わず手元にあった型抜きの失敗作たちをまとめて口に放り込む。
「これ食べられるんですか!?」
「まずいよ」
※※※
型抜きを続けていると、気付けば夜の帳がおりていた。線香花火に興じても良い時間帯である。暁青年は蝋燭と水の入ったバケツをてきぱきと準備した。
「遂に、本物の花火が見られるのですね。帰る時間はギリギリになってしまいましたけれど」
「火薬は使っていないし、僕が作ったものだけどね」
「些細なことです」
蝋燭の炎は冬の風に揺れながらも優しく二人を照らしていた。線香花火を一本ずつ手に取り、二人だけの、静かな花火が幕を開けた。
旭少女は言葉を発さず、火花の移ろいを真剣な目で追っていた。
「牡丹、松葉、柳、散菊」
暁青年の知識は線香花火にも明るい。その燃え方、移ろい方の名前を、歌うように慈しむように口遊んでいた。一本目は二人同時に燃え尽きた。
二本目に火をつけると、暁青年は語り始めた。
「僕は色弱だ。赤と青と緑が分からない」
線香花火は大きな火の玉を作った。牡丹。
「幼い頃、火薬を悪戯して勝手に花火を作った。それに火をつけたら目の前で爆発して、僕はそれ以来ずっと色の見分けがついていない」
火花がぱちぱちと音を立てて広く爆ける。松葉。
「怒られることが怖かったから、誰にも話せず内緒にしていた。人に話すのはこれが初めてだ」
火花が下に垂れ下がりはじめる。柳。
「きっと、花火師にとってこれほど不利なことはないと思う。だから僕は花火師を継ぐことがないんだ」
最後の力を振り絞るように火花が広がって、やがて落ちて消える。散菊。
暁青年は最後の一本を旭少女に手渡す。その時に彼女の手に触れ、彼女が震えていることに気が付いた。また、彼女が涙を流していることにも気がついた。
旭少女は震える手で、最後の線香花火に火をつける。
「歴史は変わらない。そう言いましたけれど、それはちょっと嘘なんです」
少しでも花火が長持ちするよう、彼女は涙を堪えて、震えを抑えた。
「特異点は決して変わらないけれど、歴史にとっての小さな出来事は変わることもあります」
暁青年は彼女の顔をじぃっと見ている。
「生物の身体が怪我を勝手に治すように、歴史の軌道は修正されます。しかし目的地は同じだとしても、寄り道も、道を間違えることもあります」
散菊が始まった。
「だから未来がどうなるかなんて、本当は私にもわかりません。私が知るあなたの未来は、違うものになるかもしれません」
火球が地面に落ちるのと、旭少女が閃光を纏って消えたのは殆ど同じであった。暁青年は土の上で爆ける火球を燃え尽きるまで見届けていた。
※※※
暁青年は父親と朝食を食べていた。向かい合っているが会話はない。二人とも昨日の喧嘩を引きずっているのだ。食器がぶつかる音だけが寂しく響く。
カーテンを開いた窓より朝日が差込み父親を照らす。それを見た暁青年は食べる手を止め、目線を下にして口火を切った。
「僕は、色弱です」
「知っている」
父は食べる手を止めず、暁青年の顔も見ずにそう応えた。
「工房の火薬を悪戯して、爆発させて色弱になりました」
「知っている」
暁青年は続ける。
「これが花火師として不利なことをわかります。だから今まで家を継ぎたくないと駄々をこねてきました」
「知っている」
気付けば父も食事の手を止めていた。
「だけど、僕も花火を作りたいです」
「知っている」
暁青年が顔を上げると、父親の顔は柔らかかった。父は食器を片手に立ち上がり、暁青年の隣に立つ。
「色が分からなくてもできることは十分あるだろう。頑張れよ」
父はそう言うと、頭をくしゃくしゃと撫でた。暁青年は恥ずかしい気持ちも強くあったが、今日ばかりはその感触を享受していたかった。
閃光は暁に刺す 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata
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