1-4

 アダム様の怒りは長く続いているようだった。それを眺める俺の苛立ちも長く、俺が足を引きずりながら下男の仕事をしているのを手伝ってくれていたカールが「アダム様となにかあったのか?」と数度目の質問を俺に投げかけてくる。

「なにもないよ」と、その問いかけに対してすっかりおなじみとなった返事をした。

「なにもないって……そんなけがをしているお前に、アダム様がなにも言わないのが、すでに異常に見えるんだが……」

「なにが異常だって? 下男がけがをしただけだよ。執事長でも、兄弟でもなんでもなく、下男が。それを主人が気にしないということの、なにがおかしいのか、俺にはとんと理解できないね」

「いや、それは……そうだけど……でも、この屋敷では……」とまだまごついているカールをじとりとにらみ、俺は馬のたてがみを洗おうと、かかとを上げて背伸びした。足首に体重をかけるとやはりするどく痛み、じゅうぶんに仕事もできない現状にも、いらいらする。

「おい、俺がやるから」

「ごめん、あとを頼んでもいいか?……」

 俺はカールにブラシと石鹸の入ったバケツを手渡し、彼に背を向ける。

「背伸びもできないなんてたいへんだよなあ。医者にいけたらいいが、金も貸してやれないし。あとどれくらいで治るんだか」と俺を同情しているらしいカールのひとりごとがちいさくきこえて、俺はすこし厩を離れてから、ようやく胸にため込んでいた息を吐いた。

 ようやく下男として働いて、下男らしく過ごしているのに、胸になにかがつまってしまって、息が苦しくって仕方がない。

「アダム様はさみしくないのかな。俺なんか、かわいがっていたいぬころがいなくなったとき、胸が苦しくってしんでしまうと思ったんだけどなあ」と仲間内の誰かが言ったとき、俺は一言もうまく返せなかった。

 そいつのいう「かわいがっていたいぬころ」はもちろん、本物の犬のことで、いつもであれば俺も「お前の犬と俺をおなじにするな」くらい思うだろうに、それすら考えられなかった。

 アダム様はさみしくないのかな……あのひとにとって、俺はいったいなんだったのだろう。

「友人」と俺が言葉に出したタイミングが、良くなかったのはわかる。わかるけれど「やはり友人などではなかったよな」とつくづく思うし、彼にとっての俺はやはり「いぬころ」で「ペット」だったのだと思う。

 一日をなんとか終えて、ベッドにもぐりこんだとき、暗がりのなか、テーブルの上で、久しく腕を通していない一等品の衣装と赤いリボンが泣いているように見えた。

 それからまたすこし時間が経って、アダム様のはなしを仲間たちが誰一人しなくなったころ――これはたぶん、あまりにも長い俺とアダム様の冷戦に、周囲が気を張り出した証拠だった――、チャールズ様が「クリス」と俺を呼び止めた。いまだすこしびっこを引いている俺に大股で近づいて、チャールズ様が「足はどうだ?」と首をかしげるようなしぐさをする。

「まあましになってきました」

「そうか。それはよかった。いまさらかもしれないが、これですこし医者にいかないか」

 そういってチャールズ様が俺のふところに金をいれようとしたので、とっさに俺は身をくねらせ「よしてください!」とするどく言った。チャールズ様が困ったように眉をさげたので「いまさらです。もう要りませんよ。気持ちだけありがたくいただきます」

「やはりいまさらだったか? 俺もあちらの様子をうかがっていたんだが、どうもあんなに強情だとは知らなくてな。こんなにお前を放置するなら、はやいとこ医者にみせてやればよかったと後悔しているんだ」

「あちらとは?」「若様のことだよ。わかるだろう」と分かり切った問答をして、俺は眉間に深くしわをよせ、そっぽを向く。チャールズ様はそんな俺を見て、首をかきながら「おまえのほうから謝るというのはどうだ」

「俺が? どうして? あの日のデートが、俺のことで水の泡になっているのであれば、俺はチャールズ様に謝りますよ」

「水の泡にはなっていないな。むしろアダムもあのあとすぐに帰ったから、俺はそのおこぼれでベティとすこしふたりきりになれて上々だったさ。まあ、アダムもお前みたいに、歩いて帰ったみたいだったけれど」

「はあ? アダム様が、あのあとすぐに帰った? しかも歩いて?」と目を丸くする俺に、チャールズ様は「アダムもふさぎこんでいるんだよ。わかるだろう」というので、俺は「なにもわからないですね」と素直に返事する。

 本当になにも、まったく意味がわからない。ミス・エバンズのことを気に入っていたのだから、あのひともその場に残って、三人でアイスクリームでも食べていればよかったのに! 領主が自邸の馬車を置いて、すごすご歩いて帰る意味もわからない!

「ちょっと時間を置けば、すこしはお前も冷静になると思ったのになあ……」

 チャールズ様は呟いて「足を見せてみろ」と俺に命じたので、俺はチャールズ様に足を見せる。くじいたものをそのままにしていたせいか、すこし不格好になっているけれども、これくらいなら治ってしまえばきっと問題はない。生傷なんていくらでもあるし、これだってそのうちのひとつになるだけである。

 チャールズ様はため息をついた。

「もっと早く診せていれば……骨がゆがんでいないか? 変に力をいれていただろう、いぬころ」

「仕方がないでしょう。足がなければ仕事はできないんだし」

 そういって唇をとがらせた俺を、チャールズ様はしばし眺め、それからちいさく息をはいた。

「そうか。それなら早く治せ」

「無茶を言う」と思ったのが顔にでたらしく、チャールズ様が俺を見て「そんな顔をするな」と困ったように笑った。俺は自分の首をさすりながら「……アダム様に、俺を辞めさせるのだけはやめてください、と伝えておいてください」

「辞めたくはないか」とチャールズ様の目が一瞬、面白そうに光り、その言葉に俺が「そりゃあそうでしょう。職につくのがどれだけ大変か」と背筋を丸めたので、チャールズ様は「それはそうだな」と俺の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜた。

「アダムに言っておくよ。いぬころが仲直りしたいと泣いているぞってな」

「センスのない冗談……」と俺は言い返しかけて、でもぐっと言葉を飲み込んでしまった。チャールズ様に言われてようやく気が付いたのだけれど、アダム様がどう思っているかはともかく、俺はアダム様が全く俺に話しかけてこない現状が、すこしさみしかったのだった。

 その日の夜、あまりにも寝付けなかったので使用人室のあたりをうろついていると、下っ端の台所番が俺を呼びとめ、牛の乳をすこしだけ分けてくれると言った。

 その台所番には、けがをしている上に主人に怒られている最中の俺があまりにも落ち込んでいる風に見えたらしく、いつもは食事をわけてもらうことなどできはしないのに、その日はやけに親切だった。

 なぜかまだ火が残っていたかまどに鍋を置いて、少量だけあたためてくれる。

「これできっとすこし眠れるぞ」とにこやかに渡されたそれに口をつけて「こんなにうまいもの、初めて飲んだな」なんてのんきに思っていると、慣れ親しんだ声が「クリス」と俺を呼んだ。

 声質が似ていたので、てっきりチャールズ様かシリル様だと思って振り返ると、そこに立っていたのはそのどちらでもなく、アダム様だった。口に含んでいたものをうっかり吐き出しそうになってむりやり飲み下す。

 けほっとせき込んだ俺の隣に腰をおろし、アダム様は「お前も眠れないのか? ずいぶん良いものをもらったな」とぎこちなく笑った。

「すみません。使用人の身で、こんなものを頂いてしまって。これはお返しします」と俺が飲みかけの牛の乳を渡そうとすると「いや。いらない。それはお前が飲んで良い」とアダム様が指でそっと押し返したので、俺はその言葉に甘えてもう一度それに口をつけた。

 あたたかくて甘い、こんなうまい飲み物に、罪などあるはずがない。

 アダム様の手を見ると、アダム様も片手に俺とおなじ、いやそれよりもたっぷりの牛の乳を持っていた。あたたかな湯気までたてているそれを見て、台所のかまどにいまだ火がついていた理由を知る。ついでに、あの親切な台所番がなぜこの場所に残って仕事をしていたのかもわかった。アダム様が、自分のために頼んだのだろう。

 ……アダム様も俺とおなじように、眠れなかったのだろうか?

「あの」と、隣に座って飲み物をすすっているアダム様にこわごわと声をかけた。アダム様の黒い瞳がこちらを見る。

 声をかけたのはこちらなのに、なにもいえずにうつむく俺に、アダム様がちいさく「足は」と言った。

「足は、大丈夫か。兄さんにだいぶ重症だったときいた」

「重症ではないですね」「本当か?」「もうだいぶ良くなったし」と証拠として足首を振って見せたのは良いものの、ぴしりとそこが痛んだせいで眉をしかめてしまう。アダム様は俺の表情の変化を注意深く見ていたらしく「無理をするな」とやわらかい声で言った。

「お前はすぐ、俺にうそをつく」

「うそなんてついたことないでしょう」

「俺にひどいうそをついただろう。思ってもいないのに友人と言って」

 アダム様がすねたように飲み物をすする。俺は眉間にしわを寄せたままで「はあ?……ああ、あれは……」と一度考えてから、アダム様の言っていることがわかって、額に手を滑らせ前髪をくしゃくしゃに掴んだ。

「俺はそれだけが一等許せないんだ。謝ってほしい」

「謝れというなら謝ります」

「そういうことじゃない。友人として謝ってくれ。俺を主人だと思うのは結構だが、いまは忘れてほしい」

「はあ……?」と怪訝にアダム様を見て、こちらをうかがう黒い目が、思っていたよりも本気の色をしていることに俺はようやく身構えた。

「いまだけ友人になってくれ」と本気で言われていると錯覚しそうになる。

「俺のことを友人だと思ってくれないか。そうすれば許せる」

「思ってもいないと言ってはいけないのでしょう。それなら俺はなにも言えませんね」

「どうして」「あんたが主人だからですよ……」と言い募るアダム様に返し、その目がゆらりと揺れるのを見て「なんだかこのひと、このまま泣きそうだな」と思ってしまう。

「三年しかないんだ。俺の時間を無駄にしないでほしい」

「またそんなことを……その三年って、なんです? 俺があんたのことを主人だと思うと無駄になる時間なんて、ありませんよ」

「クリス」とアダム様が静かに俺の名を呼ぶ。たしなめるときの言い方だった。

 わがままを言っているのはアダム様だろうに、まるで俺が悪いみたいな声色である。

 俺が折れるしかないようだった。それ以外は、きっとこのひとははねつけるんだろう。

「……すみませんでした」

「そうじゃない」

「……あんたは、俺の友だちですよ。ほんとうのね……」

 顔をそらし、俺はしぶしぶそう告げる。あからさまな嘘なのに、アダム様はそれで満足したように「そうか」と言った。

 それから「俺はお前に不義理なんて、ひとつもしていないよ、クリス」と呟いたので、それはさすがに言葉の意味がわからず、俺は「うん?」と顔を上げる。

 ぱちぱちと、背後でかまどの火が消えかかっている。アダム様は立ち上がり、寝巻の裾をはたいた。

「おやすみ」

「はあ、おやすみなさい」

 飲み干したコップを片付けようと、俺も立ち上がったけれど、アダム様は自分で台所番にコップを押し付けて去ったらしい。隣にはなにも残されておらず、俺が台所番にコップを渡すとき、アダム様にならったような恰好になってしまった。

 台所番が、にっと歯を見せて笑い「仲直りか?」と俺の背を軽くたたいたので、俺は「そうだろうか」と思いながら、お返しに思い切り表情をゆがめてやった。台所番はなにがおかしいのか、いまだに、にやけた顔でこちらを見ている。

 かまどの火が消え切ったのをたしかめ、俺は台所を後にする。

 窓から外を見ると、真っ黒な夜空に星がたくさん散っていた。文字の読み書きの最初のとっかかりに、いつだったかアダム様に見せてもらって、年甲斐もなくはしゃいでしまったあの絵本の、うつくしい挿絵のようである。

 俺はあくびをして「……寝るか」と呟き、目を擦って自分の部屋に戻る。

 また明日からもとの身分不相応な日々が戻ってくるのか、と思いながら眠りにつくことを、それはそれで悪くないと、初めて思えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

箱庭 なづ @aohi31

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ