1-3

 チャールズ様とミス・エバンズのデートの前日、結局俺はよく眠れなかった。どきどきやわくわくなんてものではなく、自分がとんでもないことを言い出したのでは、と思えてしまって仕方がなかったのである。

 そんな状態で当日を迎え、目をこすりながら身支度をして、アダム様の部屋へと行く。アダム様はやはり、すっきりと目覚めており、俺とおなじく……いやそれ以上にしっかりと身支度も終えて、迎えに来た俺を見てそっと微笑んだ。

「おはよう、クリス」

「……おはようございます、アダム様」

「チャールズ兄さんはもう起きているか? あのひとのことだから、待ち合わせの時間まで寝ていそうだが」「起きているかは知りませんが、まあ、それには同感ですね」と会話を交わして、俺は窓の外を見る。

 雨の気配すらない、さわやかな春の朝である。

「おはよう、アダム、クリス坊! 見ろ、この俺がきちんと起きているんだぞ」

 チャールズ様の部屋に、アダム様と連れ立っていくと、部屋に入って一番に、チャールズ様がそう俺たちに明るく声をかけた。

「珍しいですね、兄さん」とアダム様が目を丸くしていたが、チャールズ様は「俺もやればできるということだよ、若様。そうそう、こちらのネクタイとそちらのネクタイ、どちらが良いと思う?」なんて、ふたつのネクタイを指さして尋ね返している。

「そちらの白いほうが兄さんらしいと思いますよ」とにっこり笑うアダム様を見ていると「本当に、アクトンで一番人当たりが良いのは、この若き領主様なんだな」だなんて、自分らしくないことを思ってしまう。

 ――いや、アクトンの家柄は、本当にみなそろって人当たりが良いのだ。悪いことなんてまったく考えていません、みたいな顔で笑っている……

「兄さんが泣いているんじゃないか、アダム。俺とお前が遊びに行くのに、自分だけは置いていけぼりだってさ」

「シリル兄さんに限って、そんなことは……まあ、そうかもしれませんね。なにか本でも買って帰ってくるかな……」

 本、と聞くと、反射的に勉強のことが頭をよぎってしまって、俺は顔を真っ青にして背筋を震わせた。そんな俺を見たチャールズ様が「クリス坊、そんなに本が好きなのか? どうだ、アダム、シリル兄さんへの本は俺がみつくろうから、クリス坊になにか良い本を買ってやれ」とけらけら笑う。

「クリスに、本を? それは構いませんが、兄さんがみつくろう本って、もしかしてわいせつなものなのでは?」

 きょとんとしているアダム様の言葉を、俺がすかさず「構いますよ……俺に本は必要ありませんから、内輪うちわの話にしておいてください」といってる。

 アダム様と俺の様子には無頓着なチャールズ様は「お前が見ないようなものではあるだろうな。まあ、それもまた兄さんが喜ぶだろう」なんて、ずいぶんと上機嫌であった。

 ミス・エバンズの準備も整い、彼女がチャールズ様の部屋にやってきたので、俺たちは屋敷を出発することにした。公園や町の散策なので、特別目立つこともない……と俺は思っていたのだけれど、領主であるアダム様と、その兄のチャールズ様が揃うとなると、使用人たちと遊びに行くのとはわけが違い、立派な馬車を出すことになって、俺は馬車のなかで縮こまっていた。

 ミス・エバンズもいささか緊張しているようで、チャールズ様に「こんな待遇を、いいのでしょうか」と何度もたずねている様子である。

 使用人の身分のものが、主人と一緒に遊びに出かけているのだという不可思議な状況だというのに、当のアクトンの息子ふたりは気にも留めないでいるのも、俺であっても頭が痛いというのに、家庭教師を任されているミス・エバンズからしてみれば、気もそぞろになっても致し方ない。

「チャールズ様、町の見学なのではなかったのですか? 遊びにいくとはどういうことです」

 ミス・エバンズがちいさくそう、チャールズ様にたずねているのがきこえて、俺は「なるほど、チャールズ様はそういう風に彼女を呼んだのだ」と俺はこっそりうなずいた。アダム様が「どうした?」と俺にたずねるので「いえ。なにも」と俺はアダム様から顔をそらす。

 アダム様は馬車の小窓から外に視線を投げ「町の様子を見るのは、とてもいいことだ。クリス、お前はいつもどこに行っているんだ? 買い出しをしたことはあるんだったか?」

「俺の担当は馬の世話なんですよ。アクトン家の立派なものは買ったことがないので、買い物なんていっても、安物のぼろ靴か、立派な馬のえさを仕入れてくれる店くらいです。アダム様が知っていて得をするような店じゃないですよ」

「行ってみたいな」とアダム様が笑うので、俺はつい「はあ? よしてください……」と口をひん曲げた。

「クリス坊は下男だもんなあ。そうか、そうか」とチャールズ様が俺たちの様子を朗らかに見ている。

「ベティはどういう店でドレスを仕立ててもらっているんだ?」

 チャールズ様がミス・エバンズに話を振ると、ミス・エバンズはちょっと考えたあと、はっと顔を赤らめてうつむき「……いえ。仕立ててもらうなんて、しません。私はいつも、自分で縫っているので」

「自分で? そのドレスも? それは素晴らしいな」

「仕立てるなんてできるのは、貴婦人だけですよ。流行りの形や欲しい形を見て作るのは、それはそれで楽しみがありますが」

「いつか作ってもらいたい?」とチャールズ様が首を傾げ、それにエバンズはふと、自然な調子で笑う。

「そうですね。作ってもらいたくないといえば、うそになってしまいますね……」

 俺はふたりの会話をききながら、ミス・エバンズがミシンをかける姿を想像していた。家着の簡素なドレスを身にまとったミス・エバンズが、ミシンをかけながら、ずれ落ちた眼鏡をあげているような様子だ。

 聖書が好きだから、わきのテーブルには聖書が開かれて置かれているかもしれない……なんて、そういう、なんてことはない空想である。

「ベティは立派な女性だな……こういってはなんだが、縁談はないのか?」

 アダム様がふいにそんなことをたずねたので、ミス・エバンズは突然の踏み込んだ質問に、一瞬鼻白んだようだった。それでもその顔をいつもの固い表情にすぐさま戻し、座りなおして「ありません。いきおくれですから」

「ああ……すまない。侮辱する意味があったのではなくって……すこし、きいておきたくて」

 ちらりとアダム様がチャールズ様を見る。その視線に気付いたチャールズ様は、ミス・エバンズと一緒に首を傾げている……俺も「なんでそんなはなしを?」とアダム様の黒い目をみてしまう。

 チャールズ様が、ぱっと場を切り替えるように笑って、アダム様の脇腹を小突き、それで馬車の中はまた先ほど同様の柔らかい雰囲気に戻っていく。

 それでも、俺はなんだかずっともやもやしてしまい、アダム様からあえて顔をそらしていたのだった。

 馬車から降りて、広々とした公園を散策する。わきあいあいとしている三人を遠巻きにして、立ち止まり、俺はミス・エバンズの日傘を飾ったフリルを眺めていた。

「クリス。どうした?」とアダム様が、チャールズ様とミス・エバンズからわざと離れている俺のところにくる。俺はそんなアダム様を横目で見て、それからふうと小さく鼻から息を吐いた。

「いえ……なんか疲れるなあと」

「疲れたのか? レモネードでも飲むか」

「レモネード?」という俺の顔をあげさせて、アダム様は端っこに身を寄せている、小さなアイスクリームだとかジュースだとか、こまごまとした菓子を売っているらしい、カラフルなその店を指さす。

「ああいうのは、女子供の……」

「そういう風に断るな、こういうときしかできないだろう?」

「兄さんとベティも一緒にどうですか」とアダム様が数歩前を行くふたりにもたずねる。

 俺は「なんだ、ふたりの分もか」と一瞬落胆してしまって「いや、なぜこんなに残念な気持ちになるんだ?」と、知らないうちに唇をとがらせてしまう。

 俺は輪に入らなければならない気がして、ミス・エバンズの隣に立った。はからずもミス・エバンズを、チャールズ様と挟む格好になる。

 そのまま口数少なく店まで歩いていると、馬車が突然目の前を通った。

 それに驚いたミス・エバンズが、後ろにこけてしまいそうになったのを、俺は咄嗟にその腰を支えてやる。

「大丈夫か」と、アダム様とチャールズ様が同時に驚いた顔をして、ミス・エバンズの手を取る。

 俺は空いた手で、落ちた日傘を拾い上げた。

 アダム様が「けがはないか?」と言い、チャールズ様が「気をつけなければならないな。いったいなんだ、誰が乗っているんだ? いまの馬車は……」と文句を言っているのを、俺は遠目に見つめてしまう。

「クリス」とアダム様が、日傘を持ってぼうっとしていた俺に声をかけたが、俺が冷たく「なんですか。いまはミス・エバンズのことを気にしてくださいよ」と目をそらし、それにアダム様がきょとんと目を丸くした。

「お前、足首をひねったんじゃないか? 見せてみろ」とアダム様が言っているが、俺は「ひねってません」とさらにつめたく返事をする。アダム様も、それ以上突っ込めないでいるらしく「そうか」とうなずき、後ろ髪をひかれている様子ではあったが、ミス・エバンズのもとにいってしまった。

 俺も突っ立っているわけにはいかず、三人の後ろを数歩遅れ、足を引きずりながら歩く。

 レモネードを買って、ベンチに座っているミス・エバンズになぜか詫びをいれたチャールズ様が、こちらに向かってくる。すこし遠い芝の上に座っている俺の前にかがみこみ、まず「レモネードはうまいか」と笑い、それから小声で「足をくじいたな? いぬころ。見せてみろ」

「……よくわかりましたね」と俺は眉根をひそめる。チャールズ様はいまだ笑みを崩さず「そりゃあ、それだけあからさまにびっこを引いていればなあ」

 靴下をすこしずらして、チャールズ様に足を見せる。チャールズ様は「腫れているな。医師に見せるか」

「見せなくても、つばでもつけときます。医者に見せて、誰がそのあと金を払うんです」

「そりゃあそうだ。さすがにアクトンも、下男にそこまではできないな……」

「診療費もばかにならないのに……」と話す俺の上に、影が落ちる。思った通り、俺と向かい合って座るチャールズ様の真後ろに立ち、こちらを見下ろすアダム様と目が合って、俺はその目をなんとなくにらみつけた。

「クリス」と俺の名を呼び、アダム様は俺の傍に腰をかがめ、背中を見せる。俺は「なんです」といったが、アダム様は「乗れ」と短く命じて、それきり口を閉ざす。

「いやですよ。あんたにそんな、みっともないことさせるわけには」

「じゃあ俺に乗るか、クリス?」とチャールズ様が隣で笑ったので、俺が「そちらのほうがまだまし」と言いかけた途端、アダム様はなぜかしびれを切らしたらしい。

 唐突に立ち上がり、俺の腕を無理やり引いたので、俺は「ちょっと!!」と足の痛みと驚きでとっさに非難の声をあげた。

「さきに帰ります。兄さんたちにはあとで馬車を呼んでおくので、そちらに乗ってください。そのあとは、ごゆっくりどうぞ」

「おう。いぬころはきちんとせるのか?」というチャールズ様に、アダム様は一度うなずいて、それから歩き出した。

「離してくださいっ」とわめいて暴れる俺に耐えかねたアダム様は、さきほどの店から数メートル歩いた場所で俺の手を離し「クリス。俺は怒っているよ」

「は……?」

「俺が足のことをたずねたとき、お前は言わなかったな。なのに兄さんには言った」

「そんなの」と言葉をつまらせる俺に、アダム様は「あまりにも不義理ふぎりじゃないか。俺は以前も、なにかあれば一番に俺に言え、とお前に言っていたのに」

「不義理って」

「主人に詫びるすべも知らないのか」と言い放った、アダム様の声の重さに、俺は顔をそらす。アダム様は俺の様子に、鼻から息を吐いた。

「クリス。なにをすねている?」

「はやくミス・エバンズのもとに戻ってくださいよ。彼女の縁談が気になるくらい、あんたが彼女を気に入っているなんて、知っていれば俺はこの場に顔を出さなかったんですよ。言わなかったのも、友人に対してあまりに不義理では?」

 はじめて、しかも心にもないのに、俺はそこで「友人」という言葉を使った。

 その言葉の響きに、アダム様は目を細める。それから「そうだな」とうなずいて「それはそうだ。最初から言えばよかったよ。友人に対してあまりに不義理なのは、お前の言う通り、俺のほうだったようだ……先に帰れ、クリス。俺は友人推薦のミス・エバンズと、兄さんと三人で楽しむことにする」

「そうしてください」とふらふら背中を向けた俺を、アダム様はずっと見ているようだった。

 視線を感じながらも、俺はそれきりアダム様を振り返らず、足を引きずりながら公園を出た。

 屋敷の馭者ぎょしゃが、びっこを引く俺をふしぎそうに眺めていたのを横目に、俺も意地になって公園を遠ざかる。何度も休みながら、屋敷になんとか戻った頃には、とっぷりと日が暮れていたのだった。

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