1-2

 アダム様の勉強部屋は、先述した通りアダム様とチャールズ様の父上、つまり先代領主が子供の時につかっていた勉強部屋である。

 なので、この部屋はチャールズ様のそれよりも、ずいぶんと広く、さらに立派な調度品がそろえられている。俺はその中心に据えられた机に座ることをなぜか許されており、それは決まって、アダム様が俺の傍に立っていられる――つまり、執務の空き時間だ――間だけであった……そう、アダム様が、俺の家庭教師の役割を担っているのだ。

「どうして俺にここまでするのです? 勉強なんてどれだけさせても、俺の頭には入らないのに……」

 俺の問いかけに、アダム様は目線を開いた本に落としたまま「気まぐれだよ」と、まず短く答える。それからやや間をおいて「そのほかになにがあると思う。言ってみろ」と俺の目を見た。

 黒い髪、黒い瞳、チャールズ様よりもすこし華奢な体格……アダム様は、母親に似ている。チャールズ様も母親似だが、その母は先代の領主の妾であるから、ふたりの外見に、似通ったところはほとんどない。

「そんないいかたをしなくても……」と口をすぼませた俺に、アダム様は目を細める。

「そうなにもかも、悪い風にとらえるな。俺が気になっただけだよ。お前はどう思うのか、と」

「俺はどう思うのか、ね」

「気になるだろう。よくしてやっているつもりの友人のことであれば、なおさら」「友人ねえ。ただの下男ですよ、俺は」と言葉を交わしあっていたが、ふと落ちた、アダム様の「あと三年だ。三年だけの友人には、できるだけ尽くしておきたいのも、ひとのさがだろう」という口癖のせいで、一瞬、部屋に静寂が満ちてしまう。

「……またその、三年」

「おもしろくないか、クリス」とアダム様はふっと口元を緩ませる。

 俺は目をそらし「面白くないし、意味が分からない。しかも、それはひとのさがじゃない。アダム様の人柄……」とつい口を滑らせ、ぱくりと言葉の続きを飲みこむ。

「俺の人柄か」「……いまは勉強の時間でしょう」と万年筆を持ち直した俺に、アダム様が「めずらしい。勉強のつづきをしたがるなんて」と上機嫌に笑っていたので、なんだか腹が立ってくる。

「そういえば」とアダム様が俺の目をまっすぐ見る。

「さっき、なにがあったんだ? チャールズ兄さんが声を荒げるなんてめずらしいぞ。お前がなにかしたのか?」

 急に先ほどのことを蒸し返され、俺はつい唇をとがらせる。いや、たしかに、アダム様からすれば、何が起きたのかもわからないのだ。あの場を見れば、俺が悪いと思うのも仕方がない。だけど、と俺はなんとなく面白くなくて「なにもしていませんよ……ただ、あちらがいやな顔でこっちを見てくるから」とアダム様の黒い目から視線をそらす。

「いやな顔?」「このはなしはもういいでしょう」とアダム様の問いかけを流してしまおうとする俺に「クリス」とアダム様は妙に真剣な顔で名を呼ぶ。

「いやなことをされたのであれば、一番に俺に言え。なにがあったんだ?」

「……なにもないですよ。いやな顔をされたから、こちらも少々……」とまで言ってから、ようやく「でも」と俺も自分をかえりみる。

 ――でも、あんただってお気に入りだろう……

 ――ミス・エバンズは、自分がお気に入りだとわかっていないのではないか。それでなくとも、あちらがなにか言ったわけでもないのに、突然そんなことを言い放った、俺のほうが……もしかして、悪者なのでは?……

「ああ」と俺は自分の情けなさに声を上げ「まずいことをした」と呟いたので、それを隣で見ているアダム様が首を傾げている。

「そういうわけだったんだな。それはお前が悪いな、クリス……というか、そうか、お前は俺のお気に入りだったのか」

 すべてを白状した俺に、アダム様はなぜか機嫌が良い。どこかたのしげに鼻歌など歌っているので、いよいよいらだってしまったこちらが「なんでそんなにご機嫌なんです?」と因縁をつけても、アダム様はどこ吹く風とでもいうのか「なんでもないさ。そうか、お前はお気に入りなんだな」と笑っているので、たちが悪い。

「言わなければよかった。だいたい、アダム様が悪いんですよ。俺を特別扱いなんてするから、俺も考えを誤ってしまって。下男は下男のように扱えばいいんです。それをこんな」

「こんな」と上等なシャツの襟元を引っ張る俺に、アダム様は「こんな上等の格好をさせて?」と片眉を上げて俺の言葉の先を補足する。

「それだけじゃない。勉強だってそうだし、なにもかも、ですよ!」

「甘んじておけばいいものを。そんなに青筋をたてるな」

「甘んじておけないんですってば!!」とだんだん、なにに怒っているのかもわからなくなってきた俺が声を荒げたのを、アダム様が「クリス」と再度、名を呼んでたしなめる。

「お前にその資格があるんだよ。俺はたしかに、お前を気に入っているが、アクトンの家人たちもお前に気を許している。主人は俺だとはいえ、上にふたりも兄がいるのに、そのどれもが、お前に対して俺がすることに口を出さないだろう。そういうことだよ。だから、甘んじておけば良いんだ」

「兄貴って、シリル様とチャールズ様のことでしょう? あのふたりは変わっているから」

 ぱたんとアダム様は本を閉じ「クリス。庭に出よう」と唐突に立ち上がったので、それきり俺はぐっと口を閉ざしてしまう。

 これは「もう良い。お前は何も言わずに俺の言うことをきけ」という、アダム様の合図だ。

 彼は言い合い程度のいさかいでさえ好まないところがあり、こちらが白熱しだしても、こうやってなにかをがらりと変える提案をすることで、こちらの言葉、すべてを飲み込ませてしまうのである。

「アダム、クリス。ちょうどよい、アダムもこいつになんとかいってやってくれないか」

 庭に向かう俺たちに、廊下でそう声をかけたのは、アクトン家の長子、シリル・アクトンだった。

 シリル様はアダム様とおなじ本妻の子だ。シリル様はアダム様をそのままで成長させたような外見だが、シリル様はアダム様より線が細く、どうかすると、異母とはいえ弟のはずのチャールズ様のほうが年長に見える。

 シリル様に「こいつ」と呼ばれているのは、シリル様の目の前に立っていたチャールズ様だ。チャールズ様は「若様、クリス坊、またもやふたりお揃いで。お前たちはもう、勉強はやめたのか?」と白い歯を見せて笑っている。

「何の話です」とアダム様がシリル様に近寄ると、シリル様は「チャールズが、こんな病床の俺に、気分転換に外に出ましょうと言うんだよ。よくよく話を聞けば、こんなことってあると思うか、アダム……家庭教師とデートしたいから、ついでに俺に女性をみつくろう、なんて言うんだぞ……さすがの俺も、ほとほと参ってしまってな。アダムからも、なんとか言ってやってくれ……」と眉をひそめ、自身の肩にかけたブランケットをいらいらと引っ張っている。

 アダム様が「チャールズ兄さん、それは本当ですか?」とチャールズ様を見た。チャールズ様はにやにやと笑っている。

「家庭教師とのことは、なにも言いません。ですが」と言葉を選ぶためか、顎をさわりながら考え込んでいる風のアダム様に「なにもいえないよなあ、アダム。そりゃあそうだ」とチャールズ様が目を細めているので「チャールズ」とシリル様が、頭を抱えながらチャールズ様をたしなめた。

「アクトン家の悪いところだな、みんな使用人に手を出したがる」

 シリル様の言葉に「かくいう兄さんは」とチャールズ様が茶々を入れ、それにシリル様が「俺は潔白だ……お前も知っている通り、俺はこんな風だろう」と返しているのを、アダム様が心配そうな目で見ているので「そんな顔をするな」とシリル様が困った顔をしている。

 その三人の会話で、ようやく俺も、色々なことに関しての理解が追いつく。

 ――つまり。アクトン家は使用人がすきなのだ。だからアダム様も、俺のことをお気に入りにしてしまったというだけなのだ

「……いいですよ。俺がついていきます」と言ってしまったのは、なぜだったのだろう。どこかやけのような気持ちで、俺はつい、チャールズ様にそう申し出ていた。チャールズ様が目を丸くする横で、アダム様もぽかんとしている。

「アダム様、いいですか?」と俺がアダム様をちらりと伺うと、アダム様は状況についていけていないなりに、整理しようとつとめているらしい。

「えっと、どういうことだ? つまり、俺とクリスが、チャールズ兄さんとベティのデートについていくのか?」

「そういうことですよ」と答えてから、ふと「うん……?」と俺のほうも疑問が浮かぶ。

 ――いや、ちょっとまてよ。なにかおかしくないか?

「……お前たちが? ふたりでついてくるのか?」とチャールズ様も首を傾げていたが、俺が重大なその事実に気付いて顔を真っ青にさせているのを見て、チャールズ様はわざとらしくにっこり笑った。

「それはいいなあ! よし、そうしよう。若様もよろしいですね!」

「え、え? いや、良いもなにも……いや、俺は良いが……クリスは、それで良いのか?」

 ぐるぐると混乱しているらしいアダム様の手を、俺は自棄じきになって握った。アダム様の黒い目が、こちらをうかがうように見ている。

「いいですよ。こうなりゃもう、いきましょう! いけばチャールズ様の用件も終わります」

「いけば終わるとはなんだ、それは失礼だぞ」とチャールズ様がさすがにむっと頬をふくらませたのを、俺は見ないふりをすることにした。

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