箱庭

ひなた

第一章

1-1

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「もう三年しかない、わかるか、クリス」

 静かに問われ、俺は唇を尖らせて頬杖をついた。

 うららかな午後の光が室内に差し込んでおり、うっすらと開けた窓から軽やかな鳥の声がきこえてくる。丘の上に建てられたこの屋敷は大きく、領主の館にふさわしい。

 その領主であるアダム・アクトンは、まだ十五の少年であり、ほかならぬ俺と同い年だ。子供らしさが残った顔立ちを隠すために、黒い髪をオールバックにあげて、しゃれたスーツに身を包んでいる。

 対するこの俺、クリスはアダム様の選んだ仕立てのいいブラウスに身を包み、飾りたてた襟元に赤いリボンを結んで、ながい金髪をひとつに結っている、アダム様の「可愛い、いぬころ」だった。

 特に俺は、このいまいましい襟元の赤いリボンを首輪だと思っているので、それを知る仲間の下男などは、そんな俺を「スパニエルくん」だとか「コーギーくん」だとか呼んでくるから腹が立つことこのうえない。

「なあにが、三年しかない、だよ。まだ四年でも五年でもあるでしょう。時間は無限だ」

「時間を無限と思えるのは、お前が自由だからだよ」

「そんなものですかねえ」と俺は語尾を伸ばす。眉根を寄せた俺の顔を見て、アダム様は息をついた。語学の本で俺の肩を軽くたたき「つぎはこの本を読め」と言い捨てて部屋を出ていく。俺は下男だぞ、なんでそんな俺に、こんなにたくさんの勉強をさせてくれるんだ?……

 そう何度尋ねても、答えをいつもはぐらかされるのだから、もはやきく気もおきない。

「とりあえず文字の読み書きだ」と俺はその分厚い表紙の本をまず開いてみて、その文字の小ささに、はああと大きなため息をついたのだった。

 アダム様は、ただの下男としてアクトンの屋敷にやってきた俺を、まるで養子か弟かのように扱ってくださる。それ自体は別に構わないし、ありがたいことだとはわかっているのだけれど、仲間たちにどうしめしをつければいいのか、とも思う。アダム様は、ほかのやつらのことは普通の下男として扱っているくせに、俺だけ「特別扱い」をするのだ。

 アダム様のその気まぐれのことは「俺をペットだと思っているのだ」と考えることで、俺もきちんと分別をつけようとしているのだけれど、それにしてもアダム様の俺へのひいきは、下男にするにはすこしばかりおかしいようにも思ってしまう。

「ただの下男のスパニエル君に、アダム様はえらくご執心だなあ。もしや、お前を次期領主にでもするつもりなのかねえ」

 俺の兄貴分であるカールが首をかいているのを横目に「次期領主なんて、それこそあり得ないだろう」と、俺はつい声を荒げる。

「だって、あり得ない話じゃないだろう? いまのうちにお前にいろいろなことを叩き込んでさえおけば、アダム様が万が一、なにかあったときの替え玉として、とかさ」

「アダム様の替え玉になんて、なれると思うのか、この俺が?」

 俺が頬を膨らませたのを見て、カールは「はは、まあな。たしかに、これはただの愉快なおとぎ話だ」と両手を上げて降参する。

「まあでも、アダム様にはブライアン様がいるからな。アダム様になにかあっても、ブライアン様がご健在であれば、いよいよブライアン様が領主になられるだけだろうよ……悪ふざけが過ぎたな。いまの話は気にするな、クリス」

 そういってウインクするカールを横目に、俺は腕を組んでかまどの傍に座り込む。俺が暖炉の火に当たることができるのは、アダム様が屋敷にいるときだけだ。ただの下男に過ぎない――はず――の俺は、アダム様がいない日は、こうして台所にたむろする仲間たちに混ざって、しこたまからかわれているのである。

 アダム様は、まだ年若く、経験が浅い領主である。なので、アダム様の代わりに領土を統治するものが必要で、つまり、アダム様の叔父であるブライアン様は、その「アダム様の代わりにこの土地を統治している」いわゆる「摂政」だった。

 アダム様になにかあるよりも、随分年上の叔父のほうが、先にぽっくり逝くのではないか……などと、ふと思ったとしても、口に出せば俺は職を失ってしまう。

 貴族の出でもなければ商家の出でもない、貧しい家柄の俺は、この家の下男である、いまの身分を捨ててしまえばただの紙くず同然であり、それはこのかまどの火にたかる仲間たちもおなじなのだ。

「こら、こら。またお前たちはこんなところに集まって……クリス坊を困らせるな」

 仲間たちを払いのけるその男性の顔を仰ぎ「チャールズ様」と名を呼ぶ。チャールズ・アクトン。アクトン家の第二子、妾の子だ。

「自分が本妻の子ではないため、領主の座は本妻からうまれた子であるアダム様に譲った」人物である。

 アダム様とは似ていない、男らしい顔立ちに、俺の金髪よりもすこし赤みがかった色味のブロンドヘアーで、その目は青。

 チャールズ様はアダム様をいたく可愛がりながら、俺たち雇われ者たちにも分けへだてなく優しくしてくださるので、俺はアダム様よりも、むしろチャールズ様のほうになついていた。

「チャールズ様、もしかして、アダム様が俺を呼び出しているのですか?」

 チャールズ様が台所にくるときは、献立をのぞき見するためか、もしくはアダム様の使い走りが多い。だから、今回も後者だろうかとたずねてみると、チャールズ様は「いやいや、そういうわけではない」と顔の前で手を振った。

「では、つまみ食いですか」「俺のイメージはいったいお前のなかでどうなっているんだよ、坊」と軽口をたたきあって「まあなあ」とチャールズ様はうなじをかいている。俺が怪訝な顔をすると「アダムの使い走りなのはあっているんだ。今回はお前に俺の本を貸してやれと。家庭教師もお貸ししようか、クリスお坊ちゃん」

「チャールズ様の家庭教師って、あのびん底眼鏡の方ですか。彼女は苦手なので、それは遠慮しておきます」

「ベティはきれいな女性だよ。お前も気に入ると思う」

「びん底眼鏡の彼女が?」と俺が渋ると「お前はあの目を見たか? 緑のきれいな目をしているんだ」とチャールズ様はウインクする。

 チャールズ様はそこまで女性が好きというわけではないのだが、どういうわけか身近な女性にすぐ熱を上げる癖があるのだ。

「今度は家庭教師か……」と俺があきれている背後で、仲間たちもおなじように「つぎは家庭教師か」「また悪い癖だ……」とささやきあっているが、チャールズ様はそういったものはとんと耳に入ってこないお方であるので、今回もしっかり聞き流して、いけしゃあしゃあとしている。

「まあ、その話は良い。俺の本を貸せと若様からのお達しなんだよ。勉強部屋にいくぞ、クリス」

「チャールズ様の本なんて、文字の読み書きもまともにできない俺に、読めるはずが……」

「ぶつぶついうな」とチャールズ様が俺の腕を無理やり引っ張るので、俺はしぶしぶ、チャールズ様の勉強部屋へと連れていかれたのだった。

 チャールズ様の勉強部屋は、もともとブライアン様が使っていた勉強部屋である。アダム様の使う、アダム様の亡きお父上様の勉強部屋よりいささか小さいが、それでも使用人の俺からするととんでもなく広く、立派に見える。

 部屋の壁に沿って置かれた、びっしりと分厚い本で敷き詰められた本棚と、窓際に置かれた立派なこしらえの勉強机だけの部屋だが、殺風景ではない。

 華やかな壁紙が張られたこの部屋には、ブライアン様の肖像画や、チャールズ様も描かれたアクトンの家族団らんの絵なども飾ってあるのだ。

 机の上すらも美しく、数冊の本とノート、万年筆と使いかけのインクボトルが整理されて置かれている。

「あまりじろじろ見るな。恥ずかしいだろう」と笑うチャールズ様は、本気で「恥ずかしい」などとは、きっとつゆとも思っていない……と感じるくらい、その勉強部屋は隅々まで片づけられていた。

「ちょっと待てよ、アダムに頼まれた本は……」と並べられた背表紙を指でなぞっていくチャールズ様をぼんやり眺める。

 わりと上背があり肩幅も広い、ブロンドの男性なんて引く手あまただろうに、どうしてこの人は使用人にばかりかなわぬ思いを抱くのだろう。

 俺がつい「まあ、別にどうだって」とつぶやいたのが、めずらしくチャールズ様にきこえたらしく「どうだっていいかもしれないが、勉強をさせてもらえるのはわりあいありがたいことじゃないか、クリス」と別のことを言ったので「そういう意味では……。まあ、そうですね」と俺は頬をかいてうやむやにする。

「ああ、あった。これだよ」とチャールズ様が俺に渡したのは、思った通り、分厚い語学の辞書と数式の本だ。

 思い切り嫌な顔をした俺を見て、やはり、チャールズ様は「その顔、傑作けっさくだぞ」と腹を抱えて笑うだけで「ほら、ほら。主人にこんな重たいものを、いつまでも持たせるな」と俺に手渡す。

 本の重さで、ずしりと体がしずんだような気がする……

「アダム様にいい加減に言わないと……俺の頭は詰め込めるようにできてはいないんだって……」

「ほぼ自学でやっているからだろう。だから、俺の優秀な教師を貸す、といっているのに」

 俺はつい、頬をふくらませ「大事な教師は、言葉通りに大事にしてやってくださいよ。下男に貸出なんてしていたら、また振られますよ」

「それは一理あるがなあ、自学というのはある程度の知識を得てからするもので……」「ああ、勉強のはなしはやめましょう。いまは使用人に対する、チャールズ様の意識について、大事な話を」とチャールズ様の言葉にかぶせて俺が言うと、チャールズ様は片眉を上げ「教師から逃げたい、そういうことだな? クリス坊」

「違いますよ、これは本当に大切なことで」と俺がチャールズ様の腕をとっさに取ると、チャールズ様はそんな俺の手を払い「こら、こら。さすがに主人に手を上げては、いかにお前でも、折檻せっかんされるぞ」

「チャールズ様」

 凛とした女性の声に、俺とチャールズ様が同時に勉強部屋の入口を見る。扉を半分開けて、こちらに頭を下げる赤毛は見たことがあった。

 ベティ・エバンズ――うわさの家庭教師だ。腰と二の腕部分が膨らんだ深緑のドレスに身を包んでいるが、飾り気はなく、化粧をしている感じもない。

 びん底の眼鏡の奥の瞳も緑……ああ、だから深緑のドレス……と俺ははじめて彼女をよくよく観察してみたけれど、美しいというより子供っぽさが残る顔立ち、という気がする。なんというのか、厳粛な少女の雰囲気があるのだ。

「ミス・エバンズ。聖書などおすきですか?」と俺がぼそっと呟くと、ミス・エバンズは目を瞬き「どうして突然そんなことを? もちろん、聖書は好きですが」と怪訝な顔をする。

 ほら、厳粛な少女だ。年のころは、はたちを過ぎていそうだから、きっと少女というにはいささか年を取っているけれど、ミス・エバンズは、まさしく聖書をいだく、夢見がちな乙女のよう……

「ベティ。クリスのことは知っているよな? 若様のお気に入りだよ」とチャールズ様が俺を紹介したので「はい。お噂はかねがね」とミス・エバンズは笑ったが、その笑顔にどこかとげを感じてしまう。

 口調もなにかこう、俺への嫌悪感があるような……?

 いや、それもそうか。下男の俺が、アクトン家の人間のように扱われているのだ。家庭教師という、下男より上の立場である使用人の彼女が、それを面白いと思っているわけがない。

「でも、あんただってお気に入りだろう」と俺はつい口に出す。

 俺の突然の悪態に、ミス・エバンズは目を丸くして、それからやや間を置きチャールズ様を見上げて「……なんですか? いま、なんと?」

 いつも鈍感なチャールズ様は、しかし、今、俺が何を言ったのか気が付いたらしく「こら、こら。クリス」と小声で言って、俺の背中を強くたたいた。

「すまない、ベティ。クリス坊のいうことは気にするな」

「チャールズ様、彼はいま何と言ったのです? お気に入り、とは?」

 ミス・エバンズが困惑しているのを見て、俺はわざとらしくにっこり笑う。

「お気に入りじゃないですか。俺がアダム様のいぬころであるように、あんたも」

「クリス!」と、俺の言葉の途中でチャールズ様が俺をはげしく叱責しっせきする。けんまくに驚いたのはミス・エバンズで、そのあと場はしんと静まり返った。

 チャールズ様の激しい声に気付いた使用人だろうか、ぱたぱたと廊下のほうから誰かの足音がする。

「どうした? チャールズ兄さんの声がきこえたが」

 そういって顔を出したのは、まさかのアダム様だった。彼の間の悪さに、俺はつい絶句する。

「なんだ」と俺の青い顔を見て、怪訝そうなアダム様に、俺は「なんでもありませんよ」と言ったが、チャールズ様は「役者がそろってしまったなあ、クリス坊。さ、この本を持っていけ。若様、このいぬころを頼みます」と俺に分厚い本を持ち直させ、俺をいぬころと呼んで、ぐいぐいとアダム様にさしだした。

「兄さんのいうことはよくわからないが……クリス、勉強の時間にするか。俺の部屋に来るように。兄さんたちは、本当になんともないのか? 先ほどの声はなんです?」

「いえ、なにも……なにもありませんわ、アダム様」とミス・エバンズは首を振る。

 チャールズ様が、俺とアダム様にでていくよう身振りをしたので、アダム様はよくわかっていないなりに「ここはでていくべきらしいな」と判断したらしい。

 それで、アダム様は無理やりにも、俺をアダム様自身の勉強部屋に連行したのだった。

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