階段を下りられない

終電

階段を下りられない

先日、三十二回目の誕生日を迎えて一つ気が付いたことがある。

俺はもう、上司の愚痴を言う立場ではなく、部下に愚痴を言われる立場なのだと。

気が付いたら立場が入れ変わっている、なんてことはよくあることだ。

彼女持ちの友人を羨ましがっていた学生時代、両親を疎ましがっていたあの頃。そんな時期はいつの間にか通り過ぎ、現在の俺は結婚し、既に一児の父である。しかも、妻は現在妊娠中で、半年後には俺は二児の父となるのだ。

自分でも驚くほど順風満帆だ。

しかし、俺は怖いのだ。

何が、なぜ、どのように怖いのかは分からない。

自分を一番理解しているはずの自分ですら分からないのだから始末に負えない。


俺は最近、階段を下りられない。


きっかけは分からない。

しかし、階段を下りていると急に足がすくむ瞬間が、足が地につくことなく落ちていってしまうような感覚がある。

階段を下りるのが怖くなる。

ついにこの前は会社の階段で転んでしまい、誰にも見られなかったとはいえ思わず赤面し、そして項垂れた。

俺は一体、どうしたのだろうか。


「あなた、大丈夫?」

突然耳に入ってきた妻の声に、はっとする。同時に、テレビの音も明瞭に聞こえるようになる。

「あ…あぁ。大丈夫だよ」

妻が心配そうに首を傾げている。

「最近、疲れているんじゃない? ゆっくり休んだほうがいいわよ」

「…ん、そうかもな。でも」

「でも?」

「休んでもいられんだろう。そもそも、今一番大変なのはお前の方なんだから」

妻はついこの間までつわりが酷く、毎日辛そうにしていた。「二度目なんだから大丈夫よ」と力なく笑うのがますます痛々しかった。最近ようやくおさまってきたようだ。

「えー? 大丈夫よ。しかも、私のは幸せなしんどさなんだから」

我が妻ながらあっぱれな強さである。一人目のときは本人も不安要素が多かったようだが、今回はこちらの心配などお構いなしな発言が多く、それはそれで少し困る。

「ママ、もうねる」

目を擦り、甘えた声で妻を呼びながら息子が歩いてくる。

着ているパジャマのボタンがズレたまま、とめられていた。自分でするのはまだ難しいようだ。俺は手招きして、パジャマのボタンをとめ直す。

「ママ、明日はいっしょにお出かけするんだよねぇ?」

「そうねぇ。晴れたらいいね」

「うん…」

息子が本格的に「どこでもいいから寝かせろ」という意思を示してきたので(実際はもっと幼い意思表示だったが)俺は息子を寝室まで運んだ。

「明日、疲れているんだったら無理しなくていいのよ?」

妻が、俺を心配しているのは知っている。

「…いや、せっかく大翔ひろとが楽しみにしているんだ。がっかりさせちゃ、悪いだろう」

「私一人でも、連れていけるわよ?」

「…駄目だ。そんなことさせたら、それこそ俺が倒れる」

妻が小さくため息をつく。そして、しょうがないわね、と困った顔で笑う。

「…分かった。無理しちゃだめよ?」

「分かっている」


「ママー! はやくはやく!」

「ちょっと待ちなさい。今出たら早すぎるでしょう」

「はーやーくー!!」

「はいはい」

朝から何回目だろうか。妻と息子は同じやりとりを繰り返している。

「あなた、そろそろ…」

予定より大幅に早い出発だ。しかし、これ以上息子を待たせるのは無理なようだ。

「そうだな。行くか」

各々が準備を終え、玄関を出た。


平坦な道が続く。

これなら平気なのになあ、とぼんやり考える。

今日の行き先は駅前の商業施設だ。

息子の好きなヒーローのショーがあるという。俺も子供の頃、親に連れて行ってもらった記憶がある。さまざまなものが変化する中で、このようにいつでも少年少女の憧れとなるヒーローはすごいな、としみじみ思う。

はて、そして考える。

はたして俺は変わっているのか、それとも変わっていないのか。

おそらく両方だろう。変わっているし、変わっていない。でも、そのようなことは自分ではあまり判断できることではない。

「パパー!はーやーくー!!」

ふと気がついたら息子と妻は少し遠くから俺を振り返り、見ている。

「今行くぞー!」

ヒーローに一刻も早く会いたい息子の気持ちに水を差すわけにはいかない。

俺は小走りで二人に駆け寄る。

「悪いな」

「いいわよ、ゆっくり行きましょ」

「えー、はやく行こうよー!」

「そんなこと言わないの。パパも疲れているのよ」

「…大丈夫だ」

「そう? ならいいけど」

妻にはあまり余計な心配をかけたくない。その理由から、最近階段を下りられないことも言っていない。

すたすたと歩いていく。俺は二人の後ろ姿に近づいては少し離れることを繰り返す。

この歩道橋を渡れば、ヒーローの待つ、商業施設に着く。

息子に急かされながら階段を上っていく。

途中、少しひやりと感じる瞬間はあったものの、基本的に上るのは平気なんだよなぁ、とぼんやり思った。

歩道橋の中腹あたりで大翔が急に走り出した。商業施設の入り口で風船を配っているのを見つけたのだ。妻は、減ったりしないよー、と声をかけながら大翔を追いかける。

やれやれ、そう思いながら歩道橋を渡っていく。

問題の下る階段が目の前に現れた。

「…ふぅ」

少し息を吐き、なるべく緊張しないように一段ずつ足を下ろす。

なんだ、大丈夫じゃないか。

そう思った瞬間、気が緩んでしまったのだろう。俺の足は階段を踏み外した。

鬱、という言葉が頭をよぎる。

そういえば、同じ職場の奴で鬱が原因で退職した奴がいたはずだ。

目の前の景色がぐにゃりと歪む。

派手には転げなかったものの、少しだけ脛を擦った。

「パパ?!」

「えっ、大丈夫?!」

二人の声が下から聞こえる。

「大丈夫」

そう言ったつもりが、口をぱくぱく動かすだけで声が出なかった。

体が動かない。

俺は一体何をしているのだ。

家族で出かけているときに勝手に転げ、すぐに立て直すこともできず、周囲の目は少ないもののなんとなく痛い。

年甲斐もなく泣きそうになる。

「あなた」

顔を上げると妻がいた。

「大丈夫?」

声はまだ出なかったので、こくこくと頷く。俺は子どもか。

「そう。脛を打ったのかしら。痛くない? 折れては…いないわね。立てる?」

妻に言われるがままに手すりを掴み、立ち上がる。

砂で汚れた服をいつのまにか息子が払って落としている。妻は俺の肩や腰をなんとなくさすっている。

「あの…」

あぁ、ようやく声が出た。

「大丈夫、なんだが」

二人がぽかんとする。こいつらよく似ているなぁ。

「…それなら、いいけど」

「パパ大丈夫?」

妻が微笑み、大翔はまだ少し不安そうに俺を見つめる。

大翔の頭を撫でて「大丈夫だ」と言うつもりが、その前に妻に手を握られた。

少し手を挙げ、「心配だから」と照れ臭そうに言い訳のように言う。

「…あぁ」

俺たちは再び階段を下り始める。

まだ少し怖いけれど、足はちゃんと地についている。

「大翔ー! 危ないから走らないでねー!」

妻が大翔に向かって大きな声をかける。妊婦なのに元気なものだ。

気が付いたら立場が入れ変わっている、なんてことはよくあることだ。

妻や息子を心配し、自分なりに大切にしてきたつもりだが、それはそろそろ正解とも言えなくなってきているようだ。自分より弱く、守るべきだと思っていた女に俺は今手を引かれている。

これからもそうなのだろうか。

どんどん変わっていくものに俺だけがついていけていない気がする。

しかし、だ。

「パパー! 見てみて! 風船もらったよー!」

今度こそ、と大翔の頭をそっと撫でる。大翔はへへっ、と笑った。

愛する妻が俺の手を握り、愛する息子が俺の手の中で笑っている。

その度にぐんっ、と流れが進み、今という空間に連れて行ってもらえる気がする。

「自分が自分を一番理解している、なんてもう思えないな」

「何? 急に。そりゃそうよ。私だってそうだし」

そうか。そんなものなのか。

「あなたはねえ、一人で抱えきれない荷物を勝手に背負おうとしすぎよ。ちょっとバカだと思うわ」

バカは酷くないか。そう思って少し拗ねてみる。そんな俺に構わず妻は話し続ける。

「…大丈夫なのよ、大抵のことはね。どうにかなるわ。だってほら、大翔もちゃんと大きくなってる」

確かにそうだ。俺は色々気負いすぎていたのかもしれない。しかし、それを認めると、もう二人(もう少しで三人)を守ろうとすることができなくなりそうなので黙っておく。

「…なあに? 急に」

妻が、休日の昼間にしては甘ったるい声を出す。

「まぁ、なんだ。ちょっと癪だったもんでな」

俺は妻の手を握りなおす。やはり、可能な限りは俺が引っ張りたい。

それを見た大翔が、俺のもう一方の手に小さな手のひらを重ねる。

荷物が重すぎても怖いし、荷物がないとバランスが取れない。


多分、今なら階段を下りられるはずだ。

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