第42話「宴の用意」

「確かに、オフィスとうへ呼ぶ事ができれば、対処のしようもあるやも知れん」


 時男ときおも絶対の自信こそないが、本拠地という地の利を得られれば、まるで勝機のない戦いではなくなると頷いた。


「運任せの部分が多いデスけどネ。それでも――」


 彩子あやこが視線を時男から孝代へと移す。


「おーくんを連れて逃げる時間は稼げるヨ」


 孝代たかよが時男から言付ことづかった役割を彩子は忘れていない。


「逃げ場までは、提供してあげられないけれどネ……」


 生霊から逃れるすべは、彩子にも不明だ。そもそも文献上ですら情報の少ない生霊であるから、どんな行動ができるのか把握のしようもない。


「時間や空間を無視して行動できるのは、裏サイトで確認できた動画の通りだヨ。瞬間移動か、それに近い事ができるんだから、どこへ逃げても安全とはいえないケド」


 彩子にしては珍しく言い淀む。それだけ不確かな情報で行動していた。


「早めに行動を起こせば、を完全に私に移せるだろう。なら、後は大人達の仕事だヨ」


 それでも彩子は、皆生かいきホテルのスタッフは百戦錬磨だと信じている。安全も不確か、必勝も期せない敵との戦いだが、切り抜け、積み重ねてきたものが皆生ホテルにはある。


「差し当たり、実家でも目指すんだネ。その間に決着がついているヨ」


 他の者がいえば気休めになってしまうのだろうが、彩子がいつもの調子でいうと不思議と反論できない雰囲気を出す。


「はい」


 孝代も、「大丈夫ですか?」という言葉が浮かびはしたが、口にはしなかった。彩子と時男が揃っている中で、自分が心配を口にするのは烏滸おこがましいと感じている。


「うむ、頼むよ」


 時男も笑みを見せ、退出する孝代を見送る。


わしもオフィス棟を空けておくようにいってくる」


「ハイ。用意ができたら、一気にいきましょうネ」


 室内に一人、残された彩子は、ふぅと一度、深呼吸して本棚に目をった。本業が医師であるから蔵書は必然的に医療関係になるのだが、その一角に異様な印象を受ける一群がある。


 彩子が手を伸ばした一角にあるのは、本ですらなくノートなのだ。


 ノートに書かれている名前は、戦前、旅順りょじゅん工科学堂こうかがくどうで学んでいたという彩子の曾祖父のもの。


 電気工学を専攻した曾祖父だが、その名前が知られているのは電気工学よりも境界科学、非主流化学の分野であった。医師であるのに物理が得意だという彩子は、曾祖父に似たのかも知れない。


 ――さて……と。


 あまりよく読んだ事はないが、死神博士と異名を取った曾祖父が、ここに書き残した数々の研究結果に、今、彩子が必要とし、現状を打破できる可能性を秘めたものがあるとだけ記憶していた。


 ――並列世界概要・・・・・・。コレだネ。


 曾祖父は、この世界と重なりあった別の世界について仮説を展開させていた。


 ――並列世界は、この世とは異なる周波数を持っていると仮定する。


 その一文に、彩子はフッと笑った。


 ――おじいちゃんは、パラレルワールドの和訳にこだわっていたネ。


 平行世界ではなく並列・・世界とする事は、曾祖父の拘りだった。電気回路のパラレル接続にしても、平行接続ではなく並列接続なのだから。


 ――その太陽の電波に似ている波を三角関数で表すと、そのズレが異界からの電波だという証明になる。太陽の電波に似ているという事は、波と粒子の両方の特性を持ち、そしてズレがあるという事は、軌道を逸れた光の量子が存在する。


 この辺りは図解を入れて説明してくれているが、彩子もよく理解できない。曾祖父も変人さが有名であったというが、同時に世界へ出ていれば天才の一人に数えられる程だったというから、レポートというのならば兎も角、こんな自分だけが分かればいい程度の文章で書かれたメモ書きは、素人では読めなくとも当然。


 ――それを捉え、二つの世界の間にあるを引き延ばせば、異界を覗ける窓が作れる。


 ここからが本題だ。



 ――その窓を二枚、使って、カシミール効果を利用した場合、窓を開けられる。



 彩子の切り札だ。


「戦前じゃ用意するのも一苦労したんだろうネ。でも今は、何とかなるヨ、おじいちゃん」


 彩子は曾祖父のノートを閉じ、感謝するように掲げ、頭を下げた。


 その儀式めいた動作が終わると、時男からIMクライアントを通して連絡が来た。


 ――矢野さんよ。話は付けられたぞ。


 ――では、そろそろ始めます。


 返事をした後、彩子はPCの前に座る。


 画面には松嶋小学校の裏サイト。律子の蛮行に憤り、炎上している真っ最中だ。


「冷や水をぶっかけるヨ」


 キーボードに指を滑らす彩子が書くコメントは……、



 ――許してやれよ。続木つづきだって、マブダチがヤク中でトチ狂ってショックなんだから。



 律子と、その標的が友達だとでっち上げた。


 ――だって、ヤクの回し合いしてたんだろ? むっちゃ仲いいに決まってる。二人でつるんでたのに、邪魔されてぶち切れたのかも?


 突飛もない事を書き込んだのだから、裏掲示板の動きは止まる。


「さて? 燃料を足さないと、誰も注目しなくなるヨ?」


 コーヒーを淹れてきた彩子は、小首を傾げるしぐさと共にPCの画面を見つめたのだった。

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