第37話「10日後」

 続木つづき律子のりこの足取りを辿る捜査は難航した。


 当然である。


 律子が黄泉の門をくぐったかどうか、その可能性を高める事はできても、確定させるには事件の発生を待つしかないのだ。


 事態は進展を見せないまま週が変わり、彩子あやこの元へ通える程度に回復した孝代たかよが診察室の方へやってくる。


「サイ子さん、話、いいですか?」


 孝代は常に午前中の最後に来るので、彩子にも話をする時間はあった。


「何かネ?」


 ただ午後の診察が再開されるのは14時からとはいえ、医師の仕事に余裕はなく、彩子が向けるのは声と意識だけ。


 少々、冷たい印象を持ってしまうものの、今の孝代には、そんな指摘をしている暇はない。


生霊いきりょうって、何です?」


 そんな孝代の質問は、机周りの片付けをする彩子の手を止めさせる。意識だけでなく、目も向けた彩子へ孝代は続けた。


「生霊って、何かの拍子に生きている人から抜けてしまった霊の事だと思ってたんですけど、何か違うっぽい話を聞いてしまったんです」


「……」


 彩子は振り向いて、真っ直ぐ孝代を見つつ、


「どこで、誰から聞いたんだイ?」


 大体、想像が付いているが、それでも彩子は聞かざるを得ない。


 ――杉本サンだろうネ。


 彩子の想像通り、孝代は頷く。


「杉本さんから」


 孝代の顔にはいい辛いという表情があり、だからこそ彩子は溜息ためいきく。


「……」


 その溜息は深くなりそうだったが、彩子は半ば無理矢理、飲み込んで、


「杉本サンがいった生霊というのは、皆生かいきホテルで使われている用語だヨ。とはいっても、霊の研究機関だの何だのなんて存在しないから、こんな事に関する単語は全部、それぞれの組織が作った用語なんだろうけどネ。他にも――」


 どうでもいい事が気になるのは、彩子と孝代で共通する特徴なのだが、今は孝代が拒否する。


「できれば、横道に逸れないでくれると助かります」


 半ば態と横道に剃らせている彩子は、気まずそうな顔をするしかなかった。


「……」


 続く沈黙も、彩子の話したくないという意識が見え隠れしている。


 ――杉本サンも、詳しく説明はしてないんだろうネ。


 隠しておきたい気持ちが時男にもあったのだと分かるだけに、彩子も有耶無耶うやむやにしてしまいたい。だが孝代が横道に逸らすなというのだから難しい話だ。


 半ば仕方がないという風に、彩子は口を開いていく。


「生霊というのは、人間が生きたまま冥界の門を潜った場合、出現する霊の事だヨ」


 時男と彩子が「まずい」といった理由は、これなのだ。


「つまり、続木律子はリトルウッドが開いた門を潜って向こう側へ行ってしまったかも知れない、という事だネ」


 彩子の説明が孝代にもたらしたのは、軽い混乱。


「それは……自殺?」


 黄泉の門から解き放たれたのは地獄にいた霊や悪魔だったのだから、門を潜って向こうへ行くという事は、孝代の感覚では死ぬ事と同義だと感じてしまう。


 しかし彩子は眉間に皺を寄せて、首を横に振った。


「それは少々、違った事になるんだヨ」


 彩子の表情に、珍しくシリアスなものが走る。


「門を潜っても、死んでいる訳ではないから冥府には入れないんだヨ。でも、この世に戻ってこないと、この世でもあの世でもない世界に存在するという状態にナル。そうなった者を生霊といって、死んでいる訳でもないけれど生きているともいえない存在になってしまう」


 つまりね、と彩子が告げた。



訳サ」



 孝代を戦慄させるには十分だった。


「それは、とても拙いんじゃ……?」


 今の説明で十分に分かる。


 生霊となった続木律子は、魔王の称号を持っていたリトルウッドや、新たに魔王の称号を得たベクターフィールドよりも格段に危険な存在だ、と。


「可能性の話だヨ。くまでも可能性の、ネ」


 彩子がどうこういおうとも、その可能性が低くない事は明白である。


 事実、孝代にとっても気休め程度にしか聞こえていない。


 ――あきらくんを連れて逃げろっていうけど、逃げられる?


 孝代の背筋に冷たいものが走った。霊が距離や時間を――ある程度に過ぎないにしても――超越した存在である事は、今までの経験で知っている。


 ――今までの経緯を見てみると、続木律子の目標は復讐。となると?


 それでも孝代は考えを纏まていく。切り替えて考えられるのも、長所の一つだ。


 ブラッディ・メアリーに狙われた女子大生は生存しているのだから、まず狙うとすれば彼女という事になるはず。


「あのサ」


 そこに行き着いた事を察したかのように、彩子が口を挟む。


「見捨てるという選択肢もあるヨ」



 見捨てるとはいうまでもなく、依頼人の事だ。



「この依頼人に同情できる点は、極端に少ないダロ? 小学生時代、続木律子にクラスで起きる全ての原因を押し付け、責任を負わせたんダ。クラスマッチで負けるのも、合唱コンクールで最下位になるのも、それこそ郵便ポストが赤いのまで全て一人に押し付けた。その上、麻薬中毒患者」


 命を賭けて助ける価値があるとは思えない、と彩子は言外にいっている。


「サイ子さん」


 それに対し、孝代は苦笑いのような表情を、この変人としかいい様のない師匠へと向けた。


「本気でいってませんよね、それ」


 長いとはいえない孝代と彩子の付き合いだが、これが本音でない事くらいは察せられる。



 医師、弁護士に始まり、掃除人まで自社教育、自社雇用している皆生ホテルのスタッフが、職務、義務の放棄を本気で口にするはずがない。



 彩子は苦笑いし、


「選択肢の一つだヨ。おーくんを連れて逃げる、ネ」


 自分は選択できないが、孝代は選択してもいいといいたいから、敢えて口にした言葉だった。


 だが孝代も、彩子や時男が選べない選択肢は選べない。


「私も、杉本さんとサイ子さんの弟子ですよ」


 孝代には責任感がある。バイトであっても、だ。孝代の命は一度、時男が自らを犠牲にして救ったもの。奨学金や手当とは別の問題だと認識している。


「……」


 彩子は黙って肩を竦めたが、そのジェスチャーの中で、こうなるだろうと予想していた節はある。


 そして律子の思考も、予想できる点はある。


 ――復讐が動機なら、いずれこっちにも来るだろうからネ。


 孝代と旺が逃亡を選んでも、難しいだろうという事だ。リトルウッドを討ち、律子に不愉快な思いをさせた四人を、律子が見逃すはずがない。いずれ、律子は孝代と旺の前にも現れる。間違いなく。


 ――性格だネ。


 彩子はそう断じる。


 ――依頼人も見下げ果てた性格なら、続木律子も目くそ鼻くそって奴だヨ。


 律子が小学校時代に陥った境遇には同情するが、そこから先は全て律子の責任だ。


 ――人を傷つけても平気になるのは仕方がない。


 彩子もイジメの悪影響はあると思う。


 刃を向けてしまうのも同様だが、その刃を魔王リトルウッドに頼った事だけは違うと切り捨てる。


「霊を使って人を殺せば、証明しようのない完全犯罪になってしまう。正当な裁きじゃないヨ」


 皆生ホテルのスタッフだからこそ、彩子は続木律子を否定しかできない。


「やるヨ」


 彩子が決意を口にすると、孝代は「はい?」と首を傾げた。


 彩子はすいと眼鏡を押し上げながら、


「この世に怪力乱神かいりょくらんしんは相応しくない。人の世で起こった事は、人の手で解決しなければならないんだヨ」


 彩子がいったのは皆生ホテルの理念である。


「霊や悪魔は人に手出ししてはならないし、人は霊や悪魔の力を借りてはならない」


 だからこそ存在するのが、皆生ホテルの霊を排除する仕事だ。


「まぁ、杉本サンの調査結果を待とう。さっきもいったけど、飽くまでも可能性の話なんだヨ。本当にネ」


 これだけは彩子も本気でいっている。


 本気でいっているからこそ、この会話は事態が動くタイミングで交わされたのかも知れない。


 彩子のスマートフォンが鳴動する。


「ん、連絡だネ。杉本サンかな?」


 彩子が立ち上げたメッセンジャーアプリには、案の定、時男からの連絡がある。


 ――足取りを掴んだ。これを確認してくれ。


 メッセージと共に送られた来たURLは市立松嶋小学校の裏サイトだった。


 タップした彩子の目に、今日のタイムスタンプが入る。


「……新しい記事だネ」

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