第32話「悔し涙は自分で拭け」

 確かに炎それ自体はベクターフィールドに決定的なダメージを与えていない。例え3000度の超高温であっても。


 しかしベクターフィールドを蝕むものが、炎と共に現れる。ベクターフィールドの声すら掻き消す熱と共に現れるもの。


「――!」


 還元反応によって酸化鉄が変化していく鉄だ。


 そしてあきらから加えられた二度の攻撃が、ここで効果を発揮していく。こらえていたダメージが一斉に襲いかかってきた事、そして腕を斬り飛ばされ、盾で殴られた二度の攻撃に込められていた、悪意や敵意を排除した純粋な殺意が大きい。


 最早、ベクターフィールドも認めるしかない。


 ――見誤ってたぜ!


 旺の力など侮っていたのだ、と。霊に対する攻撃の威力は筋力によらない。旺が手にしているEVA樹脂製の剣と盾など、武器とは呼べない玩具おもちゃであるが、霊に対する攻撃力はマイナスの電荷を帯びるかどうかが問題であり、その点では樹脂製は武器たり得る。


 武器による攻撃を受けた。


 しかも、その武器を振るった者は、ベクターフィールドが認める男が育てた者。


 ――杉本すぎもと時男ときおの孫だったんだよ!


 旺の攻撃は、時男に勝るとも劣らなかった。悪意や敵意が混じっていない純粋な殺意は、最も強いマイナスエネルギーといえる。それがベクターフィールドの身体を形作っている内封ないふうされているエネルギーの密度を超越すれば、振るうだけで事足りてしまう。



 時男が目に入れても痛くない孫なのだから、その薫陶くんとうを受けていて当然ではないか。



 自分の斬撃を避けた旺の姿に、ベクターフィールドはし切れない後悔を抱えさせられてしまう。


 ――片手で振らされたんだよ、あれは!


 剣を片手で振るってしまったのは、旺をあなどったベクターフィールドの失態だ。油断は左右すら決められない、挙げ句、腹も括れていない攻撃になっていた――いや、旺に授けられていた時男の薫陶が、ベクターフィールドを飲み込んだ結果である。


 それでも身を屈めた旺の姿に緊張感を取り戻していたならば、まだベクターフィールドに勝機もあったのだが、それにも対応できなかった。


 ――地に伏し、力を溜める虎だったんじゃねェか!


 ネコの子と虎の子が似ているから見間違えたというのでは、恥以外の何だというのか。


 奇しくも、旺の剣に意匠されているものだ。


 ――虎の牙に、牛の突破か!


 何もかもをあなどり、そして意識の外からやって来た孝代たかよの存在。


 ベクターフィールドは知らない事であるが、孝代の専攻は化学である。炎で足止めし、鉄で蝕む細工を作ってきた。


 遂にベクターフィールドも地に伏す。


 ――でも、いつまでも続かないだろ!


 しかし倒れ込みながらも、ベクターフィールドは歯を食い縛る。孝代がナップサックいっぱいに詰めてきたアルミと酸化鉄も、無制限に反応し続ける訳ではない。消火できない炎だが、酸化還元反応が終わってしまえば炎も尽きる。


 ――痛みなら、苦しみなら耐えられるんだよ!


 苦痛には耐えられるのだ。


 意識を粉々に砕かれ、つぶされる地獄を経験してきたのだから。


 ――鉄が何だよ! 刺さってねェぜ!


 旺に断たれた左腕からありとあらゆるものが拡散していくのを感じ、その上で鉄が身体を蝕んでいく事を自覚させられるも、必死になれば抑えられる。自分の身体を形作るエネルギーが如何ほどで、何分で尽きるのかまでは分からないが、分かろうと分かるまいと耐える以外に道はない。


 ――追撃はねェんだ! 耐えるだけで済むだろ!


 地面に顔を擦りつけ、精一杯、拳を握りながら、ベクターフィールドは耐える。


 追撃されれば絶体絶命だが、この炎は孝代の行動も制限していた。


 ――目が開けられない!


 自分で起こしたものであるが、孝代も目を開けていられない。3000度の火柱が起こす閃光なのだから。ここで追撃されていればベクターフィールドも滅ぼされるしかないが、手を出せる者がいない。


「たおせた? たおせた?」


 孝代に庇われている旺も同じ。稲妻を操るでんならば目も開くのだが、でんはベクターフィールドの一撃を食らっている。


 ――ここで攻撃できたら勝てるのに!


 でんは旺の傍らへやってくるのが限界だ。でんもベクターフィールドから渾身こんしんの一撃を受けていなければ、また周囲に誰もいないのであれば巻き添えなど無視して稲妻を撒き散らせば良いのだが、それもできない。


 ベクターフィールドは耐える事が勝利に繋がると、あらゆるものを総動員していく。


 ――こらえろ! 我慢しろ! 簡単だろうが!


 もうベクターフィールド自身、歯を食い縛ろうとしても、できているのかいないのかすら分からなくなっていた。


 意地と矜恃きょうじで意識をつなぎ合わせ――だが見えてくる光景、聞こえてくる声は、ベクターフィールドに取って吉か凶か。


 ――そろそろ諦めろ。


 地獄でベクターフィールドを粉々にし、磨り潰していた悪魔だ。


 ――ここに落ちてきた時点で、もう遅い。


 砕かれ、磨り潰された意識も、翌日になれば元通りになり、また振り出しに戻される毎日で、悪魔は時にささやき、時に怒鳴りつけた。


 ――自殺した人間は、がねェんだよ。


 魂とは次に人間に生まれてくる権利・・・・・・・・・・・・・である。


 ――抜け出して冥府に逃げ込んだって、もうお前、次は人間にはなれねェんだぞ?


 自殺した人間は、誰からも救ってもらえない。


 ベクターフィールドが耐えられなかったのは、この一度だけなのだから。


「――!」


 ベクターフィールドの喉からほとばしったそれ・・は、果たして断末魔か、それとも渇望する勝利か。


 閃光が小さくなっていく光景に、孝代が呟く。


「……勝った?」


 孝代が勝利を口にしつつも疑問符を付けてしまったのは、確信には至らなかったからだ。確信には至らない――即ち、必殺の手段たり得ていない。



 ベクターフィールドは起き上がってくるではないか!



「今度は、こっちの番って事って事でいいか?」


 その声は地獄の底から響いてくるかのような重さがあった。


 咄嗟とっさに旺を突き飛ばす孝代。


「!?」


 その肩を、ベクターフィールドの右手が掴む。


 筆舌に尽くしがたい姿だが、ベクターフィールドは全ての攻撃に耐えきったのだ。


「ちょっと焦げ臭いのは我慢してもらうぜ。何、誰が悪いとかいわねェから。全部、俺が悪いぜ」


 万力の如き力で肩を掴むベクターフィールド。


 最早、剣もなく、締め上げるしか孝代を仕留める手段も持たないが、それでも今まで散々、見せつけてきた凄みに、絶対的な何かを加えて追い詰めていく。


「さぁ――」


 だがその蛮力ばんりょくが振るわれる事はなかった。


 孝代に訪れたのは死ではなく、ただ少し悲鳴をあげさせられる程度の事。


「痛ッ!」


 どう聞いても致命傷をもらったものではない。


 ただ突き飛ばされただけだ。


 誰に? ――当のベクターフィールドに。


「……」


 顔を上げた孝代が見たのは、背後から刺し貫かれたベクターフィールドの姿と、剣を握るリトルウッドだった。


「おい、コラ!」


 ベクターフィールドごと孝代を貫こうとしたリトルウッドが怒鳴るが、ベクターフィールドは力のない笑みを、背後へ向ける。


「こんな結末、認められねェぜ……」


 189センチと長身のベクターフィールドが斜め下へ向けなければならないのは、リトルウッドが影に隠れて孝代を狙ったからだ。ベクターフィールドを貫いた剣も、背から腹へ斜めに突き刺さっているのは、影から狙ったのは孝代の胸だったからか。


 苛立ちがリトルウッドの喉から零れ出る。


反吐ヘドが出る!」


 リトルウッドはベクターフィールドの背に足を掛けて蹴り、剣を抜いた。


「……」


 倒れたベクターフィールドに、もう声はない。急所である胸を貫かれなかったのは幸いだが、魔王の剣でつけられた傷は地獄までの転落を感じさせられる。


 ――終わりかよ……、これ……。


 誰へ向けた言葉でもなく、明確な言葉をくれる存在はいないが、悪魔という存在に関わる全てがベクターフィールドにもうお終いだと告げる。


「クソ……クソ……」


 没個性的で、こんな状態になれば誰もが口にしそうな呪いの声を呟きながら、自分という存在、意識が失われていく事に顔を歪めるベクターフィールド。


 ――諦めろ。


 記憶の中にある、最も暗く、重たい声が耳に蘇ってくる。


 ――いい加減に諦めろ。こちら側に回れば、もう痛い目を見ずに済む。寧ろ9割の者が来る。残り1割は、そこで発狂して、訳の分からない存在になるだけだ。


 甘く聞こえる言葉だったかも知れない。


 ――その1割のカスか? それを選ぶのか?


 だが、その1割がカスでも9割はクズなのだ。



 自分がクズになる事を選べるベクターフィールドではない。



 ――選ばないなら、仕方がない。お前のちょっと前に来た女に聞いてくる。まだ何もしてないが、どうせあいつも、もう人間にはなれないんだからな。


 痛みと苦しみだけならば、この地獄も谷先生の4年白組も同じだが、その一言に秘められた響きは、刃が丸くなったナイフで抉られたような苦痛をベクターフィールドに与えた。


 ――ひかる姉ちゃん……。


 ――ああ、そうだ。自殺者は魂を失い、次からは人間に生まれられない。


 悪魔は笑う。


 ――もし、お前が悪魔になれたなら、人の魂を集める事もできるかも知れないなァ。


 悪魔のささやきだ。


 ――いや、できるなぁ。


 甘く、ベクターフィールドの急所をえぐり突けてくる。


 ――僕は……。


 自分の震える声を、ベクターフィールドは憶えている。


 ――なる。


 そうしてなった悪魔の身体が、今、終わりを迎えようとしている。輝姉ちゃん・・・・・の魂を探せないまま。


「クソ……」


 リトルウッドの裏切りにより全てが断たれてしまうのに、もう声すら出ない。


 声すら掠れ、出なくなる時、ベクターフィールドの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。


 コン……と地面を鳴らした音を聞いた者はいないだろう。


 孝代もベクターフィールドよりリトルウッドだ。


「……この……」


 孝代は半歩、退きながら、時男がくれた剣の柄に手をる。だがベクターフィールドに掴まれていた肩から激痛が駆け巡り、抜く事ができない。


 リトルウッドにとって、それはただの悪あがき。


「まぁ、いい。どうせ同じだ」


 リトルウッドはベクターフィールドを貫いた剣をブンッと振り回し、今、この場に立っていられる孝代、旺、でんへ視線を一巡させる。


 最早、敵ではないと笑うリトルウッドに対し、孝代が口にできるのは強がり程度か。


「油断大敵」


 そんな言葉では、リトルウッドの嘲笑に変化などない。


「油断じゃないだろ。余裕っていうもんだ!」


 まずは旺の脳天から割ってやろうと剣を振り上げるリトルウッド。


 旺はもう一度、ベクターフィールドと戦った時を再現してやろうと低く構える。しかし打ち下ろしならば防御も可能だろうが、突き下ろされれば不可能だが。


 それでも祖父からもらった武器、教えは必殺の一撃となるのだと、旺は剣を握る手に力を込めた。


「いくぜぃ」


 リトルウッドには、ただ嘲りだけがある。


「死ね――」


 踏み込み、魔王の剣を旺へ――、


「何……!?」


 その時、リトルウッドは見る事になった。



 赤い光の筋。



 その光が、リトルウッドの身体全体にまとわり付いてくる。まるでリトルウッドを羽交はがめにでもしているかのように。


「グッ……クソッ」


 リトルウッドが呪いの言葉を吐きながら、背後から羽交い締めにしてくるの顔を睨み付けた。



「杉本……時男……」

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