第14話「ブラックが二つ」
この時、運命が分かれる。
ベクターフィールドは加速して振り切ろうとしたが、それをリトルウッドが止めたのだ。
「バカか、お前!」
リトルウッドが飛ばした罵声混じりの指示は、幹線道路へ出ての加速ではなく……、
「
有無を言わさない強い言葉で無理矢理、ベクターフィールドを従わせる。
それは孝代の予想通りの道だ。
「足で勝てんのだからな!」
車で時男と勝負するなというのは、当然、ベクターフィールドには屈辱でしかない。
確かに
対するベクターフィールドのクーペは、パワーこそ280馬力と勝るが、総合的な性能では劣っているといわざるを得ない。
しかし土地勘などベクターフィールドも薄いのだから、住宅地へ行けというのは悪手だ。団地内から路地へ入れば煙に撒ける時刻ではあるのだろうが、それには地図が頭に入っていなければならない。
車内に響くリトルウッドの怒声など、車の性能以前に無意味ですらある。
「道くらい憶えてるだろ! 憶えてないんなら、ノートにでも何にでも書いて憶えろ!」
リトルウッドの怒声、怒声、怒声。
しかし、いくら車内に響かせても、追撃態勢に入った時男と競争しているのはベクターフィールドだ。
――クソッ!
ベクターフィールドは怒鳴り返したい衝動を抑える方にばかり気を取られる。しかし苛立ちや恐怖を抑え、爆発しないように努めなければ、何もかもが破綻してしまうのだ。
――あのセダンはヤバイ!
それだけベクターフィールドは、背後から迫ってくるスポーツセダンを危険な存在と思っている。
「
ベクターフィールドが絞り出すような声を漏らすのは、リトルウッドの怒鳴り声で逃避したい気持ちを刺激されているからかも知れないが。
ベクターフィールドの焦りは、より強くリトルウッドを
「とっとと撒け!」
またリトルウッドが革張りのシートを蹴るものだから、女も背後を気にし始めた。
「何なのよ? 後ろから来てる車がどうしたって?」
住宅地に入ってからセダンの姿は見えないが、幹線道路を走っていた時、視界の隅に入ってきたのは古い車としか分からなかった。
その古い車を、リトルウッドは毛嫌いしている。正確には、運転席にいる男を。
「
リトルウッドの口調は、今までにないくらい苦々しい。
それだけ杉本時男の名前は特別だった。
ベクターフィールドにとっても特別な名前で、ハンドルを握る手に自然と力が入る事と、じんわりと滲んでくる汗を感じる。
恐るべき男・時男の事を考えると、ベクターフィールドも声を震えさせられてしまう。
「奴の持つ剣は、クソ面倒臭い剣だぜ。1607年、ハレー彗星が来た時に打たれたなんて
曰くのある剣を、時男は絶技をもって振るうのだ。リトルウッドの脅しも白熱する。
「逃げ切れるんだろうな? これで逃げ切れなかったら
リトルウッドの言葉は、まるで合図にでもなったかのように、サイドミラーが曲がってくる車体を映す。
「チッ」
舌打ちは、果たして誰のものだっただろうか。三人は一様に舌打ちしていた。
姿が見えてしまえば、スピードの出せない住宅街で振り切るのは不可能である。
リトルウッドの
――かわれ?
主語が省略されているから分からなかったのではない。そもそも日本語は主語を省略できる言語だ。主語も目的語も省略でき、それでも通じる希有な言語であるが、ベクターフィールドには分からなかった。
リトルウッドは後部座席から身を乗り出し、
「止めろ! 運転を代われっていってんだ!」
リトルウッドが手を伸ばしてサイドブレーキを引くものだから、クーペは不自然な動きで停まる。
これには時男も泡を食った。
「!」
ブレーキランプが点灯しないまま停止したのだから。追跡体勢だと車間距離を詰めていたら、追突していたかも知れない。
急制動をかけ、愛車を止める時男は、念のためにとギアをバックに入れる。
「……」
クーペが追突してくる事も、時男は選択肢の中に入れた。しかし追突された場合、セダンが潰されるのはエンジンのあるフロント側だ。
――エンジンを潰されたら万事休すじゃ。
時男でも緊張するのだから、車内の緊張感は異様なものになる。
意外かも知れないが、まず動いたのは
「おーくん、貸してね」
――あのクーペに乗っているの、ブラッディー・メアリーと関係している。
様子を伺うように、孝代は道路の隅を行く。
――
孝代は相手に選択肢を与える事で、出方を見るつもりである。
結果、クーペから怒声を起こした。
「降りろ!」
孝代からは運転手を追い出したかのように見えた。
――あれか!
警告音を発し始めたファブレットは、車外に降りてきた男――ベクターフィールドが人ではない事を明確に示す。
「!」
対応できたのは、孝代の対応力が優れている証か。
だがベクターフィールドに闘う気があったのかは、
ベクターフィールドがしようとしたのは、戦う事ではなく、リトルウッドからいわれたとおり、運転を代わる事だ。
しかし後部座席から下りてきたリトルウッドは、運転席に入る前にベクターフィールドを孝代の方へ突き飛ばす。
それから運転席に入ったリトルウッドは、そのままエンジンを吹かして走り去った。
これには孝代も鼻白んでしまう。
「は……?」
後部座席に女性も座っていたのだから、まるで痴話げんかの後、男が一人、置き去りにされたかのようにも見えたからだ。おまけに運転席に乗り込むリトルウッドは、ベクターフィールドに何かを投げつけたのも、その印象に拍車をかける。
そしてリトルウッドの
「相棒もつけてやる。ちゃんとやり直せ!」
乱暴な吹かし方をしたエンジン音でも掻き消せない声は、人に投げつける言葉としては相当、強かった。
そしてベクターフィールドには、愛車を奪い去られた事や怒声にショックを受けている暇はない。
振り向き、戦闘態勢に入る。自分に言い聞かせるように、ある言葉を心中で繰り返しながら。
――ツイてる!
闘おうとしている孝代は呆け、恐るべき遣い手である杉本時男は車内だ。
ベクターフィールドは宙に手を
時男は思わず声をあげる。
「
眼前で行われた魔法に対してではない。
EMF探知機能が警報を鳴らし、魔法が使える相手となれば、霊ではなく
時男が目を細め、注意を払う剣の意匠は……?
――
その意匠は
次の瞬間、時男は自分の剣を掴んで車から飛びだした。
「
ベクターフィールドは、孝代の手に余る。
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