第8話「出現」

 時計を気にする孝代たかよには、一つ、悪癖がある。


 ――伝承では、ブラッディー・メアリーは深夜0時に現れるのね……。



 孝代は待ち合わせ時間よりも、かなり早く待ち合わせ場所に来てしまう事だ。


 ――まだ大分、ある。


 ある意味に於いては美徳なのだが、この場合は少々、違う。


 春とはいえ肌寒い時期だ。


 そうやって両手で自分の肩を抱く孝代は、天を仰がされて・・・・・いるではないか。昼間、来た時はそうでもなかったのだが、日が暮れ、深夜帯に入れば、依頼人のアパート周辺は本当に寂しい風景だった。


 落ち着いて星空を見ている場合なのだろうかと疑問も浮かぶが、星空は幾分、孝代の心を軽くしてくれる。


 ――オリオン座……冬の大三角……。


 見上げれば、まだ冬から春へ移りゆく途中である事を示すかのように、オリオン座が見えていた。


 ――オリオン座のベテルギウスと、シリウスはどこの星座だったっけ? あと一つは……名前も知らないや。


 見つけられるが詳しく知らないというのは、孝代の事をよく知っている者なら「珍しいね」というかも知れない。


 ――細かな事が気になるのがあの警部、どーでもいい事が気になるのが私。


 自分でも自覚しているように、知らないままでも構わないような事が常々、気になるたちだ。


 そんな孝代も焦っている。ブラッディー・メアリーは既に現れる兆候を見せている、と彩子にいわれてしまった事が呼んだ、不思議な焦りだ。


 アパートを盗み見ると、灯りが点っているのは依頼人の部屋だけ。


 しかもカーテン越しにシルエットが見えているのだから、孝代は思わず苦笑いしてしまう。


 ――女の一人暮らしなのに、遮光のカーテンはいるでしょうに。


 ただ遮光ではない布のカーテンが今は有り難い。はっきりと映っていて、異変があればすぐに分かる。



 そう――すぐに。



「!?」


 カーテン越しに、依頼人が立ち上がり、何かを叫んでいる姿が映る。


 両手を挙げ、震えるように痙攣けいれんし――、孝代はそれ以上、見ていられない。


「ヤバイ!」


 孝代は皆生かいきホテルへ電話しながら走った。


 ――繋がらない!


 歯噛はがみさせられたまま、孝代は依頼人の部屋の前に立つ。しかしノックしようと拳を振り上げてしまうが、それは踏み留まった。


「ッ!」


 時計は深夜23時を回っているのだから、下手に騒ぎ立てるのは悪手だ。ここへブラッディー・メアリーが来るとすれば、部外者を入れる訳にはいかない。


 ――開いてて!


 祈るようにドアノブを回す。施錠されてガチッと途中で止められるかと思ったが――、


「開いた!」


 孝代は小さくガッツポーズした。


 しかし喜んでいる場合ではない。



 鍵が開いていたのは、閉め忘れたのではなく、非常事態を告げている可能性の方が高い。そう考えて行動しなければ皆生ホテルのスタッフは務まらない。



 警戒しながら入った部屋の中は、昼間よりも荒れていた。


 ――荒らされてる!


 警戒心を増させる孝代であったが、慎重に慎重を重ねて入った室内に、襲いかかってくるような相手はいなかった。



 ただ部屋の中で、泡を吹いて倒れている依頼人がいるのみ。



「しっかり!」


 孝代が声をかけた時、まさしく地獄に仏と感謝したくなる声が携帯電話から聞こえてきた。


「もしもし」


 彩子あやこの声はいつも通り。


「悪いネ。ポップコーンを作ってたんだヨ」


 しかし内容までいつも通りな事に対しては、文句のひとつもいってやりたくなるのだが、孝代は思ったように声が出ない。


「あの……あのッ」


 彩子は分かっているのかいないのか、マイペースだ。


「こんな時間まで起きていたら、お腹が減ってしまってネ」


 言葉の端々に、ポップコーンを食べるポリポリという音が混じり、その音が孝代に気を取り直させる。


「そんな事より、依頼人が泡吹いて倒れてます!」


 彩子がいつも通りなら、いつも通りの対処をしてもらえるはずだ。


「過剰摂取のようだネ」


 事実、彩子は直に見ずとも判断できる。


「コカイン、あるかネ?」


「あるわけないでしょう!? その麻薬の過剰摂取で、これ、心臓が止まりかけですよ!」


 近所の目など構っていられないと怒鳴る孝代だが、彩子は「残念」と普通の声でいった。


「心臓にショックを与えるしかないんだヨ」


 彩子の言葉は冷静そのもので、それによって孝代へ、冷淡は兎も角、必要な事を伝えてくれる。


 彩子は冷淡で、冷静で、何よりも冷徹に事態へ向かう。


「ところで救命措置も必要だが、温度計とか周囲の様子は見ているだろうネ?」


 彩子の言葉が、孝代に慌ててファブレットを取り出させた。アプリを立ち上げ……、


「室温は正常です!」


 極端な変化はないから、霊の出現はないといい返す孝代だが、彩子が「待ちたまえ」と言葉をさえぎる。霊の存在を示す滋養法は室温の低下だけでない。


「臭いと、振動は?」


 振動や発火、放電、異臭、その全てが必要である。


 そういわれ、孝代が気付いた。


「ッ」


 ツンと鼻を指す刺激臭は硫黄か。


 そして悪臭のせいで立ちくらみを起こしたと感じたが、その立ちくらみは部屋の中が微妙に振動しているからだ。


 そしてファブレットの画面は、振動計と硫黄濃度に異常値を示している。


「異臭と振動があります」


 温度の低下、騒音、物体の移動、異臭、発火、帯電――その内、二つが重なって起こった。



 それはブラッディー・メアリーが現れる合図ではないか!



 孝代が動く。


 ――現れるとしたら、鏡!


 幸いな事に、この部屋は鏡を思わせるようなものは、ステンレス配管にいたるまで全てビニールテープで覆われている。


 孝代が注意したのは、揺れるカーテンの隙間から覗く窓ガラスだ。


 部屋の中と外のコントラストの違いから、窓は鏡のように室内を映している。



 そこには赤いドレスを着た、女の姿!



「出ました……」


 孝代は身構えたが、時男がいない不安は脂汗となって額に浮かび上がった。

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