第3話「歪な師弟誕生」
奨学金の条件になっている仕事のために訪れたホテルのスタッフルームで、
妙に浮世離れして見える女は、言葉も不躾である。
「しかし誰でも受けられる、という事はないハズなんだヨ」
決して美人とはいえない風貌で、背中の中程まである髪の手入れなどした事がなさそうな雰囲気であるにの関わらず――、
「あ……」
思わず声をあげさせられたという風な孝代に、女は眉根を寄せる。
「?」
席から立ち上がった女の顔にかかった髪は、それを両手で無造作に背へと送ったにも関わらず、自然と元の通りに落ち着いたのだ。変なクセもなく
しかし女は自分の髪など知った事ではないらしく、孝代の顔を覗き込むように腰を曲げた。髪は精々、シャンプーをしている程度。それもリンスインシャンプーを使い、トリートメントだ、コンディショナーだのは使っていない。
「ところで……?」
話を前に進めたいという女に、孝代は慌てて鞄から書類を出す。
「あ、推薦です。ホテルの仕事も知っています」
孝代も括弧書きで「仕事」というべきものだと理解して、ここへ来た。
「了解したヨ」
「医師をしている。
彩子は軽口なのか本気なのか分からない口調で告げた。
「やっぱり、皆生大学の卒業生なんですか?」
医学部医学科もあったと思い出す孝代に対し、彩子は「ソウ」と頷いく。
「まぁ、好きだった科目は物理だったけどネ。気にするな」
医師免許を持っているのだから、勉強はどれも抜群にできると想像がつくのだが、物理といわれると孝代は首を傾げさせられる。
「物理?」
首を傾げた孝代に対し、彩子はふっと笑いながら冗談めかす。
「得意なのはベクトル場だったヨ。名前は
彩子が口にしたのは冗談だったのだろうが、冗談とは口にする者の技量が問われる。
「……はあ?」
出来がいいとはいい難い冗談に、孝代は首を傾げるしかなかった。ベクトル場を英語でVectorFieldという事と、矢野を英語にすればベクターフィールドになるという事が頭の中で繋がってくれなかった。
「ヤレヤレ」
彩子としては会心の出来だと思っていたようだがから、孝代はまた小首を傾げてみせる。
「本日の――」
「はん?」
幾分、
「本日の議題。宝の持ち腐れを本当に目にしてしまった時、どう反応すべきか」
一言、二言しか言葉を交わしていないというのに、そんな事をいってしまうのが孝代の性格だ。そして、自分の何をいわれたのか、彩子も分かる。
「スルーだヨ」
髪の事だ。
「貧相で無愛想な女に、不釣り合いな髪質だと思っているんダロ?」
「……えェ、まァ」
「そこは否定しろヨ!」
ペースを乱されると頭を掻く彩子であるが、普段、他人のペースを乱しているのは自分なのだから取り戻すのも早い。
「君こそ彼氏は?」
「それは……いるような、いないような……風のような、雲のような」
「作ればいいだろうに」
「そういう、ないならコンビニで買ってこいみたいな感じでいわれても、困るものもがあると思いませんか?」
肩を落として返答した孝代に、彩子は笑いながら足音が近づいてくる部屋の出入り口に顔を向けた。
「杉本サン。見ての通り、すぐに打ち解けられるタイプみたいですヨ?」
ドアが開けられるタイミングを見計らったようにいう彩子に対し、扉を開けた男が見せた最初の顔は苦笑い。
「……いや、矢野さんと打ち解けられるという事は、なかなか変人の部類に入るのではないかね?」
彩子が変人の部類であるのは、この短い遣り取りで十分、分かろうというものだ。そんな相手と打ち解け合えるとなれば、彩子と波長が合う――即ち変人という事になる。
しかし苦笑いを浮かべていた男は、室内にいた孝代の顔を見ると苦笑いが引っ込み、代わって驚きが浮かぶ。
「おや、先日の……」
男は先日、ショッピングモールで孫を連れてゲーム機を探していた
「あれェ?」
孝代も驚きを隠せず、彩子はそんな双方に視線を往復させるも、顔見知りである事は「丁度いい」くらいにしか思わない。
「もう顔を合わせたことがあるというのなら話が早いネ」
どこで知り合ったのかなど、彩子にとってはどうでもいい。
「
名前くらい知っているのだろうが、彩子がそれぞれにそれぞれを紹介する。
「杉本サン、こちらが奨学生の
彩子は時男へ、孝代が持ってきた推薦状と一緒に履歴書などを綴じたファイルを渡した。それ以上の事は書類にでも目を通してくれ、とばかりに。
そんな彩子の隣で、孝代は彩子と打ち解けられた適応力を発揮する。
「お孫さん、ゲームしてますか?」
人生で初めてだというくらいの全力疾走で伝えに行ったゲーム機であるから、当然、気になっていた。
「夢中になってやってるよ。よく母親から怒られるようになってしまったけど」
「あははは。面白いゲーム、いっぱいありますよね」
ここで交わせる雑談は一言二言に過ぎないが、仕事の話をする前に気楽な雰囲気を作るには十分な効果がある。
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