この家のルール

日向さんと出会った日のことを考えながら僕は硬質な塾の扉を押して外へ出た。蒸し暑い風が頬をら撫でた。冷房で冷え過ぎた体にはちょうどいい温度だった。


燦々と照りつけていた太陽はいつのまにか傾いて

夕焼けの中にひぐらしの声だけが響いていた。


深呼吸をした。数時間ぶりに吸う外界の空気が肺を駆け巡り、生き返ったような思いだった。




日向さんとはあれからほとんど毎日と言っていいほど顔を合わせた。


平日の昼間から毎日のように海に来る彼女を不審に思って

「仕事とか行かなくて大丈夫なんですか。」

と尋ねたこともあった。


しかし日向さんは笑って

「私はモラトリアム中のニートだからさ。」

とはぐらかすばかりで、毎日悠々と海に足を運ぶ彼女がどうやって生計を立てているのか教えてはくれなかった。


日向さんが言いたくないのなら別にそれでもいい。

僕達は知人であって友人ではないのだから。


静かな夕暮れの中に彼女のカラリとした笑顔を思い出した。燦々とした太陽のような彼女に夕暮れは似ても似つかないのに。





友人と帰る同期の塾生を横目に、僕は綺麗に茜に染まった空を見上げて歩いていた。


歩道橋の階段を一段一段登るたびに錆びた鉄がギシリと音を立てる。


夕暮れ時の歩道橋を歩いていると、広い空と美しい景色に魅せられてどこまでも歩いて行けるような妄想に囚われる。




だけど、家に帰れば僕はまた鳥かごの中へと戻って行くんだ。






参考書の詰まったカバンから鍵を取り出して玄関の戸を開けようとしたが、僕が鍵を開けるよりも先に扉が勢い良く開いた。


僕を待ち構えていた母さんだった。玄関に仁王立ちする母さんは迫力満点でさながらゲームのラスボスのようだった。


「おかえり。ご飯できてるわよ。

今日の模試はどうだった?」

母さんはにこりとして聞いた。


精一杯取り繕っているようだっだけれど、目が笑っていなかった。


きっと最悪のできだろうけどそれをここで言うと角が立つので

「まぁまぁかな。」と嘘をついた。


母さんの目つきが鋭く光った。

それを僕は見逃さなかった。


「先に風呂に入るよ。」

僕はそう言って逃げるように廊下を駆けて風呂場へ向かった。





潮でベタつく体を洗い流してからキッチンの戸を開けると色とりどりの夕食が並んでいた。ピカピカに磨かれたフローリングが蛍光灯に反射していた。


「ご飯できてるわよ。」


そう言ってシンクに立つ母さんの手はざらざらと荒れていた。母さんは僕が席に着くと自分も向かいに腰掛けた。


「いただきます。」


そう口を開いて早々に母さんは

「進路なんだけどね。」と言い始めた。


赤いトマトをフォークで刺しながら

母さんはきっぱりと言った。

「昨日塾の先生とお話ししてきたんだけど、やっぱり葵は医学部がいいと思うのよ。」


顔はニコニコとしていたが、それ以外に道はないという声だった。


何を勝手に。

そう思ったが、言葉にはならなかった。


ピクルスを一口かじった。

独特のすっぱさが口に広がった。


母さんの顔を見た。

逆らうことは許さないという笑顔。


「そうだね…。」

僕はまた嘘をついた。


僕の不満はかじったピクルスと一緒に飲み込むことにした。


母さんの言うことは絶対。

それがこの家のルールだった。












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夏に住む君と青いサイダー 椿 @hinata_tt

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