三 草津の湯でも治らない?
受験生は忙しい。とはいえ、やることをきっちりやって、人事を尽くしてしまえばあとは天命を待つばかりだ。クラスメートの中には推薦入学で既に進路が確定してのんびりと過ごしているものもいれば、二次募集に人生をかける連中もいるから、悲喜こもごも、それぞれ情緒が忙しい。
当の
そんなとりとめのない思考に自分でも首を傾げながら朝ごはんの準備に取り掛かる。食パンをトースターに放り込んでスイッチを入れる。縦型のそれは見た目はおしゃれだしこんがりと焼き上がるところは素晴らしいが、それ以外に用途がないことを思えば普通のオーブントースターを買うべきだった。そう後悔したが、買い替えるのももったいない気がして結局三年間使い続けてしまった。
ともあれ焼き上がったトーストに、彼の唯一の嗜好品である白く透き通るようなバターを薄く切ってのせる。相変わらず完璧な焼き具合のトーストと淡い味わいのとろけるようなバターはベストマッチで、幸せのひととき——のはずなのだが、どうにも食欲が湧かない。これはもしかしてあれだろうか。草津の湯でも治せないとか何とかいう。
シルバーフレームの眼鏡が脳裏に浮かび、ついでに煙草の匂いがふわりとただよったような気がして、いやいやそんな馬鹿なと頭を振ると、ますますぐらりと目眩がした。これは重症かもしれない。とりあえず食べきれなかった朝ごはんに心の中で詫びながらゴミ箱に流し込み、櫂はふらつきながらブレザーを着込んで外に出た。
この時期はもう登校は必須ではなかったが、家で悶々としているよりは外の空気を吸った方が良さそうだし、当該人物に遭遇する確率は、あの場所にさえ行かなければそう高くはないと思えたので。
——なのに。
「お前、その顔どうした?」
受験生の嗜みとして、マスクを着用の上そろりそろりと昇降口を過ぎたところで当該人物といきなり
初めて会った時よりは背もだいぶ伸びたというのに、いまだに肩口にしか目線が届かない。その差が何やら悔しい気がした。ぼんやりそんなことを考えていると、大きな手が不意に額に伸びてきて、漂った強い煙草の匂いでどうしてこんなところで遭遇したのかを察する。
「あんたまた校庭の隅で煙草吸ってたのか」
不良高校生でもあるまいに(なお当校は数年前から全面禁煙である)、と呟いたが相手の顔は珍しく険しいままだ。
「いつからだ?」
「何が?」
「熱出てんじゃねえか。いつからだ?」
「は? 熱? アナタにお熱とかそういう意味で?」
「アタマ沸いてんのか? ああ沸いてんだな」
言いながら腕を掴まれて保健室まで引っ張ってこられる。幸か不幸か保健医は不在だったが、
「えーと」
「いいから計れ」
何かネタっぽいことで誤魔化そうとしたのだが、いつにも増して頭が回らない上に、シルバーフレームの眼鏡の奥の眼が明らかに険しい光を浮かべていたので、素直に検温モードに入る。沈黙に耐えかねること数十秒、ピピッという電子音の後に表示されたその数値は「39.5」。記憶にある限り
「アホかお前は。こんなんで学校来て、拡散して周りの連中にまで広めたらどうするんだ」
「わあ、俺完全に病原菌扱い!?」
本人の心配より先に拡散状況を口にされたことで若干傷ついたが、まあそれもやむを得ない。受験が終わっている彼はともかく、これからまだ控えている連中が、
和泉は彼の声など聞こえないように、どこかに電話をかけている。それから電話口を押さえてこちらを向く。
「おい、お前保険証持ってるか?」
「はい」
何しろ一人暮らしなので、いつ何時何があってもいいように保険証及びその他身分証明書は常に携帯している。そう答えると、和泉はOkayと妙にネイティブな発音で頷いて、電話に戻る。しばらく何かを話した後、そこで寝てろと上から指示して保健室を出ていった。
横になって目を閉じると、いつもより明らかに速度を上げてぐるぐると地球が回る。保健医は戻ってくる気配はなく、扉が開く音とともに戻ってきたのは白衣の代わりに珍しくヨレていないジャケットを羽織った和泉だった。おまけにマスクまで着用している。
「あんたの風邪はどこから?」
「アタマ沸いてる奴は黙って大人しくしとけ」
腕を掴まれて、タクシーに放り込まれる。あれよあれよというまに発熱外来とやらに連れ込まれ、厳重警戒体制の皆さまに取り囲まれながら、事情聴取もとい状況確認をされ、とりあえずインフル検査しておきましょうかと言われてぐりぐりと細いナニかをねじ込まれて待つこと数十分。
「インフルAですね」
無情な宣告にがっくりと肩を落としてぼんやりしているうちに、気がつけば自宅のベッドの上に寝かされていた。
「……ついに俺、転移能力身につけちゃった?」
「その場合、その前にトラックに跳ねられてんだろ」
「その前に食パンくわえた美少女と衝突したい」
「寝てろ。あ、待て、寝る前にこれ吸っとけ」
吸引タイプの抗ウィルス薬を渡されて、二回に分けて吸い込む。むせ返りそうになって、ぎりぎりでこらえていると、背中を撫でられた。いつの間にかマスクも外している近くで見たその顔は、まばらな無精髭を考慮しても、見上げている時よりはっきりと端正に見えて、熱に浮かされた頭はさらに余計な混乱を引き起こしそうな気がした。
「あーなんだっけ、吊橋効果?」
「高熱が出てりゃ、心拍数上がるのは正常反応だ。大人しく寝とけ」
言いながら和泉が立ち上がる。この家の中に誰かがいるのは実のところ、これが初めてだったから、違和感が凄まじい。
「和泉先生」
「何だよ?」
「なんでここにいんの?」
「今さらかよ?」
呆れたような顔で、冷蔵庫に何かをしまい、それからベッドの脇に座り込む。ビニール袋から何かを取り出すと、ぺりぺりという微かな音がして、それから額に冷ややかな何かがぺたりと貼り付けられた。急激な温度変化でぞくりと背筋が震えたが、すぐにそれは心地よさに変化する。
「だいぶ熱高えな」
それから手を掴まれる。その手はひどく温かく感じられた。
「手は冷たいな。まだまだ熱が上がりそうだが……まあ薬飲んだから、意外とすぐに下がるかもな」
「そんなに劇的?」
「最近の抗ウィルス薬はすげーらしいぞ」
「窓から飛び出しちゃうやつ?」
「それは高熱による
由々しきことを言われたような気がしたが、背筋を這い上がる悪寒と、全身のだるさにそれ以上思考がまとまらない。
「ボケもツッコミも後で聞いてやるから、今は大人しく寝てろアホ」
火のついていない煙草を手持ち無沙汰に咥えた顔は、呆れたような表情を隠そうともしなかったけれど、それでも額に触れた手つきは優しくて、言葉よりも行動の方が素直じゃねえの、と思ったが、口からでたのかどうかはもう定かではなかった。
アホは余計だ、とそれだけは何とか言ってやった気はしたけれど。
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