四 大人の領分

 ベッドに横になったかいの額、それから首にと手を滑らせると、はっきりそれとわかるくらいに熱が伝わる。冷感シートなんてほとんど気休めにすぎないとはわかっているが、それでも心地良さそうに目を細めるその様子に、ほっと息を吐いて手を握ってみる。その手はまだ氷のように冷えていて、これからまだ熱が上がるのは容易に予測がついた。

 今でも四十度近い熱が出ているのに、これより上がるとかなりしんどいだろう。一人にするのは危険だな、と何とはなしに自分に確認して、ついでに本人にも告げると、にへらとその顔が緩んだ。

 ざわりとまた心臓がおかしな音を立てるのを自覚して、大人しく寝てろと告げると、櫂は何やらもにゃもにゃと呟いて、それでもすとんと眠りに落ちた。

 脈はやや早く、上下する胸の動きも通常よりは大きく見えるが、それでも呼吸に大きな乱れはなく、ひとまずは眠れていそうなので、とりあえずはそのまま放っておくことにする。


 受験生のくせに予防接種もしていなかったというから、むしろ試験が終わってから発症したのは運が良かった方だろう。和泉がため息をつきながら改めて部屋の中を見回すと、年頃の男子高校生の一人暮らしにしては随分きちんと片付いている。冷蔵庫の中もある程度の簡単なものなら作れる程度の食材が並んでいたから、自炊もしているのだろう。

 週に一度かその程度の頻度で顔は合わせていたが、ここまで私生活に踏み込むのは初めてだ。櫂にだけでなく、そこそこ長くなってきた高校教師生活を通してずっと。だから、さすがにやりすぎじゃないのかと警告する己の声は、一旦聞こえないふりををすることにした。


 ベッドにもたれて床に腰掛け、携帯スマートフォンを取り出していくつかのニュースサイトを眺めるともなしに眺めていると、ピンポーンと妙に軽くのんきな音が鳴った。家主の方は眠りは深いのか目を覚ます気配はない。一瞬だけためらってから、ひとまず立ち上がってドアスコープのカバーを外して覗くと見知った顔がそこにあった。その来訪の意図を悟って、額を押さえる。このまま出なければ、倒れてでもいるのかと大事おおごとにされてしまうかもしれない。

 一つ深いため息をついてから、覚悟を決めて扉を開く。開けた瞬間、その来訪者が何かを言いかけて、だがそれが想定していた相手ではなかったことに気づいて目を丸くする。

「い、和泉先生? 何で櫂くんの家に……?」

 下の名前で呼ぶ程度には親しいんだなと、内心で呟いた声がやや棘のあるものだったのは気のせいにしておきたい。

河内こうち。お前こそ、どうしたんだ?」

 可能な限り平坦な声で応対したつもりだが、河内の頬がどうしてだかぴくりと震えた。

「私の両親、櫂くんのご両親に頼まれて、日本での後見人をしているので」


 ああ、なるほど、と和泉は頷く。櫂の両親は遥か遠い異国の地だ。何かあった時の連絡先として、河内の家が登録されているらしい。幼馴染、というのは櫂の一方的な思い込みではなかったのだなと今さらのように認識を改める。インフルエンザかんについては学校に連絡済だから、おそらく担任あたりから河内の親に連絡がいったのだろう。

 だからといって、受験を控えた女子生徒が生きのいいインフルエンザウィルスに罹患中の幼馴染を尋ねる正当な理由があるとは思えなかった。それでなくとも——。

 和泉のそこそこ無遠慮な視線の意味に気づいたのか、河内は、日頃は大和撫子の見本のような彼女にしては珍しく早口にまくしたてる。

「か、櫂くんが、インフルエンザって診断されたって聞いて、きっと食事とか大変だろうからって、うちの親がいろいろ買ってきたから届けにきたんです」

「へぇ。親御さんじゃなくて、お前さんがわざわざ?」

「何かおかしいですか?」

 わずかにその声が尖る。過保護な親ならむしろ一人暮らしの男の家になど、娘を近づけない。見舞いの品を持たせて一人で訪問させる程度には親しいか、信頼されているのだろう。


 だが、河内が櫂の告白を公衆クラスメートの面前で断ったのは——櫂が自分で撒いた種とはいえ——周知の事実だ。逆説的に、それを思えばこの来訪の意図は明らかすぎるほどに明らかだ。櫂自身は、自責の念に駆られてまったく気づいていなかったようだけれど。

「先生こそ、担任でもないのに何で櫂くんの家にいるんですか?」

「いちゃ悪いか?」

 そう応えてはみたものの、背筋の伸びた姿勢の綺麗な河内の顔には、どうにも邪魔だとはっきりと書いてある。お邪魔虫じぶんが消えた後、親身な看病の末、それまでのすれ違いや誤解は解けて、手を取り合って照れた表情で向かい合う二人の顔までが脳裏に浮かぶ。


 まごう方なきハッピーエンド。めでたしめでたし、だ。


 真っ当な人生経験を積んだ大人なら、多少の羽目を外すことには目をつむって、若者たちが青春を謳歌するのを応援してやるべきだ。櫂が指摘する通り、どちらかといえば不良教師である和泉の選択肢としては、そちらの方が圧倒的に正しい。自身でさえそう思う——のに。


「そいつは預かっとくから、気をつけて帰れよ」

 淡々と、大人の顔で平然と言ってのけた彼に、河内はわずかに、それでもはっきりとわかる程度には不満げな顔をする。

「でも、お母さんからも櫂くんの様子を見てくるように言われてますし」

「今は寝てる。それに河内はまだ二次試験が残ってるだろう。万が一にも感染したらどうするつもりだ?」

「……それは」

「それとも、それでもあえて二人きりになりたい、とか?」

 口の端を上げてニヤリと笑ってそう言ってやると、河内は頬を染めて、慌てたように首を横に振る。

「そ、そんなわけないじゃないですか。ただ、こないだちょっと——」

「こないだ?」

 それが、何を指し示しているか、誰よりもよく知っていたけれど、腕を組んだまま、あえて首を傾げて見せる。河内はしばらく逡巡して、それから何かを諦めたかのように、深いため息を吐いた。

「……何でもないです」


 どこまで本人が噂話の広がりを把握しているのかはわからなかったが、それでも学校の教師相手に自分の恋バナをするほど悪趣味ではなかったらしい。開いたドアにもたれたまま右手を差し出すと、ややして河内は割と重みのある可愛らしい花柄のエコバックを差し出してくる。

「エコバッグは、また今度学校で返してくれればいいので」

「わかった、伝えとく」

 なおも部屋の中が気になる様子だったが、彼が動かないことを見てとると、河内はじっと此方に視線を向けてくる。

「先生って」

「何だ?」

「……何でもないです」

 とてもそうは思えない口調だったが、河内はもう一度だけじっと彼を見つめて、それから失礼しますと綺麗な一礼をして踵を返した。その後ろ姿を見送って、扉を閉める。

 その瞬間、和泉は玄関先にくずおれるように片膝を抱えて座り込んだ——自己嫌悪の嵐に包まれて。


「あーもう、何やってんだ、俺は……」

 前髪をがしがしとかきながら、自分に呆れてそう呟く。横に置かれた可愛らしいピンクの花柄のエコバックは主張が強い。櫂はすぐに気づくだろう。説明せずに逃れることはまず無理だろうし、誤魔化したところで後日、河内ほんにんの口から事実が伝われば、より事態をややこしくするだけだ。

 実際のところ、彼の応対は教師としてはまあまあ模範的なもので、それほどおかしなものではない。だが、櫂は彼がどんな性格か意外とよく知っている。高校生同士の恋だの愛だのにも寛容というよりは無関心で、基本的には不干渉を貫くであろうことも。


 だからこそ、河内を追い返したその行動の不自然さに、櫂は気づくだろうか。


 気づかれたところで、どういうこともない、と思う自分がいる反面、どうにも取り返しのつかないことになりそうな不吉な予感がした。


 半ば無意識に懐から煙草を取り出して火を点けかけて、ぎりぎりで我に返って思い止まる。外に出て一服することも考えたが、ベランダも玄関先も、見知らぬ男が煙草を吸っていればご近所からの不審を買いかねない。そう気づいて、もう一つ深いため息をついた。

 エコバックの中にはスポーツドリンク三本と、おにぎりにヨーグルト、さらにはプリンが二つ。櫂の好物なのだろうか。いずれにしても、意外と重かっただろうに、ねぎらいもせずに追い返したことに、もう一度、後悔の嵐が襲ってきたが、今さら遅い。


 差し入れのその品を冷蔵庫にしまいこみ、そのエコバックを綺麗に畳んで部屋に戻ったが、櫂は変わらずぐっすりと眠っているようだった。今は閉じられた瞳を覆う睫毛は意外に長く、熱でわずかに上気した頬はこの年頃の男子にしてはすべらかで、乾いた唇は薄い。

 日頃はボケとツッコミと憎まれ口が標準装備だが、眠っている顔はの面影を残している。そうして、ひどく綺麗に笑った当時の顔を、今の寝顔に重ねてしまって思わず見惚れた自分に呆れて頭を抱える。


 それから、もう一度火のついていない煙草を噛み締めて、櫂が目を覚ました後の面倒事に思いを馳せてしまってから、和泉はもう一度、深い深いため息をついたのだった。

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