二 回想と動揺

 さかのぼること約二年前。少し薄い色の髪に同じような瞳、黙っていればつくりものめいた端正な顔立ちのその少年は、和泉いずみにとって隠れ家といおうかたまり場といおうか、つまりは職員室が落ち着かない彼にとっては秘密基地であった生物準備室の床で膝を抱えたまま、くぐもった声で越後えちごかい、と名乗った。

 その名前を聞いた時に真っ先に浮かんだのは、上杉か武田かどっちだよ、というわりと失礼な感想だった。そもそも苗字だけでも越後屋お主も悪よのう的なツッコミは嫌というほど聞いてきたことだろうし、挙句に名前が甲斐国それでは。


「お前の親御さん……」

 和泉がそこまで言っただけで、相手は質問の内容を悟ったらしく、恨めしげな声が上がる。

「冗談でもネタでも何でもないです。あの人たち日本の歴史にこれっぱかしも詳しくないので」

「はあ?」

 聞けば、母親が北欧出身で、本人も生まれたのは日本だが、小学校に上がる前に母親の故国の極光オーロラが輝く国へと引っ越して、そこで育ったらしい。そういえば『雪の女王』で女王にたらし込まれる少年の名前が同じだったか、と和泉は思い出す。つまりはいわゆる帰国子女というやつだ。

 現在は一人暮らし。何でも幼少のみぎりに恋に落ちた少女が忘れられず、この高校まで追って来たという。


「そんなに長いこと会ってないなら、ほぼ他人じゃね?」

「いや、定期的にビデオ通話とかしてたんで」

「現代っ子め……」


 そんなに前から気軽にビデオ通話が可能だったろうかと和泉は首を傾げたが、目の前の相手が小学生以降だと、およそ十年前。確かに複数のソリューションが存在していた気がして、時の流れの早さを改めて思い知る。それでも、やはり遠く離れた相手にそんなにも長いこと想いをかけ続けられるものだろうかと不思議でならなかった。


 まあでも、恋に恋するお年頃なら身体的な接触は不要だったのだろうか。


「寒くないのか」

 とにもかくにも彼の根城の生物準備室の部屋の隅に、しき童子わらしよろしく膝を抱えて丸くなっているその姿にそう声をかけると、大丈夫です、という小さな声が返る。どうやって入り込んだのかは今さら問いただす気にもならなかった。

「床、冷えんだろ」

「マイナスでない気温とか、基本余裕です」

 冬平均マイナス二十度の世界で育つと細かいことは気にならなくなるのだろうか。

「むしろちょっと車で十キロ位走ったら、マイナス四十度までいきます」

「どんだけ北から目線だよ?」


 茶化したが、視線は上がってこない。とりあえず、アルコールランプに火を点けて、鉄製三脚の上にビーカーをのせて湯を沸かす。独特の匂いにようやく顔が上げられて、視線がばっちりと合った。わずかに色素の薄いその目の端に、まだ何やら光るものがあるのは見えないふりをする。


「……実験ですか?」

「俺は生物の教師だぞ? ただ湯を沸かしてるだけだよ」

 怪訝そうな眼差しが向けられたが、それ以上は訊いてこない。何を訊いていいのかわからないのか、あるいは単純に面倒くさいことに首を突っ込まないタイプだろうか。

 しばらくして沸騰したところで、ガーゼで包んで持ち上げて差し出す。

「ほらよ」

「……はい?」

「飲めよ」

「これ、何です?」

「見りゃわかんだろ、白湯さゆだよ。あ、違うか、熱湯だからただのお湯だな」

「これを飲めと?」

「あったまるぞ」

 自分もビーカーに口をつけながらそう言うと、しばらく不審そうにこちらを眺めていたが、ややしてゆっくりと立ち上がり、受け取って口をつける。

っち!」

「そりゃ熱湯だからな」

 こちらを見上げる顔は黙ったままだったが、理解し難いというその思いはありありと表情から伝わって来た。西洋と東洋の要素がほどよく混じったその顔は、端正な彫刻のように見えた。まだ少年らしい、すべらかな頬と印象的な瞳と。

「せめて、コーヒーとか紅茶とかないんですか?」

 ない、と答えかけて、和泉はそういえば職員室でもらった前時代の遺物のごときお歳暮の残りのインスタントコーヒーがあったことを思い出した。


 思えばあの時、その一瓶が手元にあったことが運の尽きだったような気がする——お互いに。


 適当に流し込んで、ガラス棒でかき混ぜる。薄い色のその液体は、コーヒーというよりはコーヒー風味フレーバーのお湯といった感じで、ある意味冒涜的ぼうとくてきな飲み物だったが、受け取った方は何も言わなかった。表情と同様、味覚もぼんやりしているのかもしれない。

「おい……かい

 何となく、姓は時代劇のイメージでふき出さずに呼べる自信がなかったので、下の名前を呼ぶと、少し驚いたように目を見開く。

「はい?」

「それ飲んだら帰れよ」

「……何があったかとか聞かないんですか?」

「別に。俺はスクールカウンセラーでも何でもないし」

 話したいなら聞いてやらんでもないが、とは一応付け足しておく。これでも教師ではあるので。


りんちゃん……河内こうちが何考えてるのかわかんなくて」


 その名の通り、凛と背筋の伸びた姿が脳裏に浮かんでふむ、と首を傾げる。どうやら櫂の想い人は学年でも有名な美人らしい。

「幼馴染なんじゃねえの?」

「俺は……そう思ってたんですけど」

 先ほどまでの自信ありげな様子はどこへやら、ビーカーに口をつけながらぼそぼそと呟く様子は完全に迷子のそれに見えた。

「まあ、いくら仮想空間オンラインで話してたって言っても、長い間離れてたんだし、少しずつ距離を詰めていくしかないんじゃねえの?」

 我ながら陳腐な助言アドバイスだと恥ずかしくなったが、櫂はぽかんとしばらく彼の方を見つめ、それからふわりと、ひどく無防備に笑った。

「そうですね」

「……何だよ?」

 あまりに素直なその反応に思わず顔を顰めると、櫂はすぐに元の無表情に戻って、それから小さく呟いた。

「また、コーヒー飲みに来てもいいですか」

「二度と来んな」

 実は伊達のシルバーフレームの眼鏡を押し上げながら、なるべく冷たく言い放ったつもりだったが、もう一度こちらを見上げた櫂が、やっぱり綺麗に笑ったので、おそらく失敗していたのだろうとはわかっていた。


 あれからおよそ二年。当初の繊細で素直な紅顔こうがんの美少年の面影はどこへやら、気がつけば櫂は罵倒とボケとツッコミを巧みに使いこなす立派な日本の男子高校生になっていた。

 とはいえくだんの幼馴染との初々しい恋に関しては一言では語れない紆余曲折があり、櫂はしばしばこの準備室を訪れていた。最初の頃は、こっそり忍び込んで部屋の膝を抱えていたのに、いつの間にか平然と丸椅子に座って頬杖をついて外を眺めてはひらひらと手を振って彼を迎えるようになるくらいになっていた。成長と呼んでいいのかなんなのか。

 ともあれ櫂にとっては高校最後のバレンタインデー。何やらごそごそとしているのは見逃してやった——というのに、一大決心決意して実行した告白は、華々しく玉砕したらしいというのが校内中の噂になって和泉の元にも届いていた。


 やれやれとため息をついてから、生物準備室に足を踏み入れると、あの時と同じ位置に、もう少し背の伸びた、それでも丸まった背中が見えた。

 こうやって、こいつのアホな行動を見守るのも後何回あるだろうか、と和泉は妙な感慨に襲われる。この高校は私立だから転勤は基本的にないし、希望するか馘首クビになるような事件でも起こさない限りは居続けることができる。

 だが生徒たちはきっちり——ごく稀に例外はあるが——三年で去っていく。ほとんどの連中は二度と会うこともない。櫂も、恐らくそうなるのだろう。

 窓際に何となく並べていた空き瓶に、櫂が視線を向けたのに気づいてふと心臓がおかしな音を立てた。もう来るな、と言い続け、ついでに毎回規定量の半分しか粉を入れていない不味いコーヒーを、それでも櫂は文句も言わずに飲み続けた。自分の分だけ量を増やせば不自然だから、彼自身もその薄くて不味いコーヒーを飲むことおよそ百回。


 それに気づいた櫂の、その薄い色の瞳に浮かんだ感情を何と呼べばいいのだろうか。


「失恋して悲しいので美味しいコーヒーで慰めてください、和泉先生」

 わざとらしく付け加えられた敬称に何となく動揺して、口から落ちそうになった煙草を慌てて指でつかんで、空になったビーカーを持ち上げる。

「調子のんな馬鹿。お前なんて二倍希釈のコーヒーで十分だ」

 もう一度、アルコールランプに火を点けながら、可能な限り平坦な声で言ったつもりだったが、頬に突き刺さる櫂の視線が何だかいつもと違う色を浮かべているような気がしてならない。それでも意識を火にかけられたビーカーに集中する。


 しばらくして、ようやく沸点を超えて大きな泡を立てるビーカーに、例の如くガーゼを巻きつけながら持ち上げて、ふと、ずり落ちた眼鏡の向こう側に見えたその端正な顔が、じっと何か不思議なものでも見るような目でこちらを見つめているのに気づいて、思わず手が滑った。あ、やべぇ、と内心で思うと同時に櫂の腕を引き寄せて、大きく一歩後ろに下がる。


 がしゃん、という派手な音と、飛び散る熱湯が机に広がって、それでも一歩引いたおかげで二人とも何とか事なきを得た。腕の中の櫂は、まだ成長途上なのかぎりぎり彼の肩に目線が届くくらいだ。何となく、そのまま背中に腕を回して頭を肩に引き寄せる。


「何してんの、おっさん」

「その何してんの、はどこにかかってんだ?」


 自分でもわけがわからずに脊髄反射でそう答えると、一瞬考え込むような間があって、それからほんの少しいつもより温度の高い声が返る。


「あんたの動揺は、どっから?」


 風邪薬のCMみたいな質問をしながら、色の薄い瞳が伊達のガラスの向こうからじっとこちらを見つめてくる。その眼差しの強さに、何かを言いかけて、口の端に咥えていた煙草が今度こそすべり落ちた。なぜだか櫂はそのまま彼の口元をじっと見つめる。


「そういえば、抱擁ハグとか超久しぶり」


 日本人からすれば親愛の表現が過剰な地域の育ちだったか、とふと思い出す。自分のこれと、櫂のこれは温度差があるのか、と。例えば頬を寄せるのも一般的な挨拶の範疇に入るのだろうか、とか。

 思っていたよりやわらかい髪に手をすべらせて、くしゃくしゃと撫で、それから腕を解放する。少し意外そうに目を見開いたその顔に、落ちた煙草を拾ってもう一度咥え直してから、口の端だけで笑って見せる。

「気をつけて帰れよ」

「後片付けは?」

「そいつは俺の仕事」

「不良教師はそういうの生徒に押し付けるもんじゃね?」

「生憎、俺は至って真面目な教師なんで」


 早く出ていけ、という言外の言葉は伝わっただろうか。それが拒絶ではなく、実のところ、懇願なのも。

 櫂は一瞬だけ迷う様子を見せて、だがすぐにくるりと踵を返した。その背が部屋から出ていくのを見送って、ガチャリと外から鍵がかかるのを聞いてから、ひとつため息をつく。


 それから、粉々に砕けたビーカーと、びしょびしょに濡れた机を眺めて、前髪をぐしゃぐしゃとかき回してから、終わったら煙草吸うか、と独りちた。

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