倍希釈のコーヒー

橘 紀里

高校編

倍希釈のコーヒー

一 告白と玉砕

 本日はバレンタインデー。


 ローマ帝国時代、恋人を故郷に残してくると士気が下がるからという無茶苦茶な理由により、皇帝の命で兵士たちの婚姻を禁止された中で、密かに結婚式を行ったために処刑されたという聖ヴァレンティヌスにちなんで恋人の日とされたという(諸説あります)。

 とはいえ日本では長きにわたり、製菓業界の戦略により(個人の感想です)女性が日頃秘めた想いをここぞとばかりに告白する良い機会として定着してきたが故に、女性から男性に想いを伝えるのにこれ以上ない最良の日である。


 さりとて海外を見渡してみれば、男女関わらず恋人や親しい人にカードやプレゼントを贈る日であるという。今や国際化インターナショナル時代。多様性を受け入れるのにやぶさかではない時代であれば、乗るしかないその大きな波ビッグウェーブに! ということで、彼はコツコツ貯めた小遣いとバイト代で購入した真っ赤な薔薇の花束を持って放課後3−B隣のクラスを訪れた。その花束をどうやって放課後まで隠匿したかについてはまた後日語りたい。


 教室の中でいつもと変わらず、その名の通り凛と背筋を伸ばし外を眺めていたその姿を見つけ、かいの心臓がどくんと高鳴る。その相手こそ河内こうちりん、彼が足掛け十五年以上、片想いを続けてきた相手だ。

河内こうち、好きです」

 つかつかと彼女の席に歩み寄り、その場にひざまずいて巨大な薔薇ばらの花束を差し出す。古人も言っている——当たって砕けろ、と。そして、母の友人のフランス人が言っていた。意中の人を射止めるには大きく情熱的な花束が良い、と。さらには告白の立会人は多ければ多いほどいい、と。

「ふざけてるの?」

「至って真剣」

 しんと静まりかえっていた教室内に、誰が吹いたかヒュウという口笛が聞こえた。かと思うと、急にあちこちからざわめきと、ひそひそ声が上がり始める。


 比較的進歩的リベラル多様性ダイバーシティを受け入れることに慣れた家庭に育った櫂は気づかなかったのだ。大和撫子の典型のような、恥じらいと慎ましさを徹底的に叩き込まれて育ったその人にとって、公衆の面前で巨大な花束を贈られ、跪いて告白されるということが、どれほどの羞恥を伴うものかということに。

 周囲の生徒たちもまた、それに対してどちらかといえば好奇と揶揄やゆの眼差しを向けているということに。そして、母の友人は、誰よりも冗談が好きで常に彼をからかうことを人生の楽しみにしていたことにも。


 つまり端的にいえば、彼は——玉砕したのである。


 差し出した花束は、白く美しい手に振り払われた。けれど、彼を打ちのめしたのはその行為ではなく、真っ赤な顔でわなわなと震える河内の姿だった。それは照れだとか恥じらいだとかを通り越して、見せ物にされたことへの怒りに満ちていた。そうして彼はようやく己のあやまちと、それが取り返しのつかないことだと気づいてしまった。

 長い間彼女を見つめてきたのに、その性格と周囲の目を全く気にすることもなく、それでいいと思い込んでいた。それがどれほど彼女を傷つけることになるか、考えもせず。

 気にするな、と友人の一人は言ったけれど、気にしないでいられるわけがない。想いを伝えるのに、彼女を傷つけない方法などいくらでもあったはずで、それに思い至らなかったのは、彼の落ち度だ。若気の至りといえばそれまでだが、だからと言って彼女を傷つけた事実と悔恨がいささかも減るわけではない。


「何やってんの、お前?」

 ずずんと沈み込む思考とともに生物室の準備室の隅で櫂が膝を抱えていると、頭の上から低い声が降ってきた。ちなみに彼がこの教室に忍び込めるのは、以前とある事情で合鍵を手に入れたからである。

「うっさいな馬鹿、空気読めよ」

 なお、声はこの部屋の主の生物教師であり、当該科目の彼の担当教員でもある。返答は明らかにとうを含んでいたため、成績を考慮すれば適切な回答とは言い難い。が、すでに受験は終わってしまっているのでこれ以上悪影響を与えることはあるまい、というのが現時点で弾き出した結論である。

「てめえそれが年長者に対する態度か」

「学校の教室でくわえ煙草してるおっさんに偉そうに説教される筋合いはねえよ」

「火も点けてねえし、実際吸ってるわけじゃないんだからいいじゃねえかよ」

「煙草の表現自体が未成年に悪影響を与えるため、未成年向けの映画等でもほとんど廃止されてんのを知らねえのかおっさん」

政治的に正しい御伽噺ポリティカルコレクトネスはよそでやれ。だいたい和泉いずみだろうが、何回言えばわかるんだこのクソガキ」


 俯いていたほっぺたを両脇から全力で引っ張られる。だが、そうして持ち上げられた彼の顔を見て、和泉は目を見開き、咥えていた煙草が床にぽろりと落ちて転がった。


 にじむ視界の向こうに見えたのは、お世辞にも整えられたとは言い難いやや伸びた黒髪に無精髭の残る顔。ヨレたシャツに輪をかけてヨレヨレの白衣。白衣とは衛生のために着用するもののはずだが、この男の場合、背広を着るのが面倒だからと羽織っている節がある。ネクタイをしている日も五分五分で、今日はヨレて緩いがかろうじて何かが首の周りに巻かれている。

 とはいえ、その雑な身なりの割には——シルバーフレームの眼鏡でインテリ度二割増にしても——顔の造作自体は悪くない上に、成長途上の彼が羨むほどの長身だから、女子生徒からは毎年この時期大量のチョコを贈られているのを知っている。本人が辛党なので概ねそれは密かに希望者に配布されていることも。


「——フラれたって?」

「鬼かてめえ!」

「巨大な薔薇の花束を教室のど真ん中で跪いて渡すとか、頭おかしいクレイジーにもほどがあるだろ?」

「……意見と文化の相違だ」

「事前調査不足を文化の違いで誤魔化すんじゃねえよ」

 痛いところをつかれて心臓がまたズキリと痛む。この無精髭が指摘した通り、問題は彼の傷心などではないのだ。

「そんなにへこむならもうちょっと事前に考えろよ」


 呆れたようにため息をつきながら、アルコールランプを二つ、それぞれ鉄製三脚の下に並べて火をつける。水道からビーカーに水を汲み、その上に乗せて湯を沸かす。それなりの時間がかかって沸々と泡が立つ頃には、ぐちゃぐちゃに乱れていた櫂の思考と感情もぼんやりとしてきていた。

 沸いたビーカーに、明らかに安物のインスタントコーヒーの粉がごく適当な分量で注ぎ込まれる。実のところ、それはもう随分と見慣れた光景ではあったのだけれど、それとは別に何だか既視感を感じて、首を傾げる。ややしてそれが獣に食い荒らされたぴっちぴちの腐乱死体が鮮やかに脳裏に浮かぶあの小説のワンシーンだと思い出した。


「俺、なんかこの後すげえ災難に巻き込まれそう」

「なんだ今さら? 生徒たちが屋上から身投げするとか、最後に大津波で大量に人が死ぬとか?」

「全力のネタバレやめろ」

 ガーゼでビーカーを包んで差し出してくる顔を睨みつけながら言ったが、和泉は堪えた風もない。意外と読書家だというのは知っていたけれど、断片的な言葉で物語のラストを引用できるくらいには、状況に自覚もあったのだろう。

 ことあるごとにこの準備室に逃げ込んで、こうして過ごしてきたが、それももう後一月ほどしかないのかと思うと何やら感慨深い。

「俺が卒業したら、あんたまた他の誰かにこのコーヒーれてやんの?」

「あ? しねえだろ、多分」

 器用にビーカーを二本指で持ちながら、色の薄いコーヒーに口につけて事もなげに言う。何度もコーヒーの薄さについて言及しようと思わないではなかったが、結局のところ無料で出されているモノに文句は言いづらかったし、それなら来るなと言われるのも不本意だったので、ずっと黙って飲む羽目になっている。

「そもそも他の奴らはここに入れねえし、こんなおっさんとコーヒー飲みたいなんて奇特な野郎はお前くらいなもんだろ」

「女子は?」

「お前、俺を淫行教師はんざいしゃにしたいのか?」

「おや意外と野獣さん?」

「その前に暴力沙汰で訴えられるかな?」

 拳を握って凄む様子はわりと冗談でなく強面コワモテだ。自分でもうんざりするくらい面倒な思春期を通り抜けたこの三年間の一部は、間違いなくこの準備室に嫌と言うほど紐づいている。


 ふと、窓際に並んだインスタントコーヒーの空き瓶が目に入った。同じメーカーの百二十グラム入りのその瓶は三本並んでいる。その視線に気づいたのか、和泉が口の端を上げてなぜだか少し苦く笑う。

「高校生の授業日数はおよそ一年で二百日。このコーヒーの一杯が約二グラム。俺とお前で毎回飲んで、一回四グラムだ。ここで俺がこの不味まずいコーヒー飲むのはお前がいる時だけ。そのココロは?」

「一本でおよそ三十回。三本空いてるってことは、九十回。俺がこの準備室に初めて来たのが一年の冬だから……ペース早くね?」

「やーい泣き虫」

 子供のようにからかう声に、とりあえず足を踏んづけようとしたがあっさりとかわされた。すでに行動を読まれている。大体不味いと言うからには自覚があったのか。眼を見開いてまじまじとその顔を見つめると、肩をすくめて小馬鹿にしたように笑う。

「当たり前だろ、普通に飲むならコーヒーマシンで淹れるに限る。What else?」

「まさかどっかに隠してあんのかそんな贅沢品⁉︎」

「てめえみたいな味馬鹿に淹れてやるもんか」

「ああ……⁉︎ 俺だってうっすいと思ってたわ! 大体一杯二グラムってそれ水が百四十ミリリットルに対してだろうが。これ完全に三百入ってるじゃねえか」

「何だよ気づいてたのかよ?」

 心底驚いたように眼を丸くするその顔に、呆れやら不満やらを通り越して、笑いが漏れてきた。百回近くもお互い不味いと思いながらこの薄いコーヒーを飲んでいたなんて。

「……タダで淹れてくれるモノにいちゃもんつけるようないい性格してないもんで」

 それにしたって、と続ける。

「あんたも不味いと思ってたなら、最初からちゃんとした量で淹れればよくね?」

「美味いコーヒーなんて出したら、お前、ますます入り浸るだろうが」

 机にビーカーを置いて、ぼさぼさの前髪をかき上げながら、ニッと笑って煙草を咥え直したその顔を、まじまじと見つめる。


 不味いコーヒーは、ここに居つかせないため。

 それでも、切らしたことのないその並んだ空き瓶は、来訪を拒まなかった証。


 それほど深刻ではないけれど、それでもどことなく教室クラスに馴染めなかった彼にとって、この場所がどれほど重要だったか、この男はわかっていたのだろう。後ろポケットに入ったままの合鍵の感触が何だかこそばゆい気がした。

「……もしかして、俺、愛されちゃってる?」

「寝言は寝てから言えこの馬鹿」

「じゃあ、ちょっと寝るわ」

「帰れ」

「えー」

 足元に落ちている煙草を拾い上げ、鼻先を寄せるともう慣れてしまった匂いがする。目の前では吸わないが、その体に染みついているその匂いも、卒業してしまえばもう触れる事もなくなるだろう。学校というのはそういう場所で、教師と生徒というのはそういう関係だ。それでなくとも、現状は改めて思い返せばかなり特別待遇あまやかされている。


 そう自覚して、不意におかしな鼓動を打った心臓に、彼は首を傾げながらもどうしてだかここを立ち去り難くて、思わず自分でも予想しない言葉が口から溢れていた。

「失恋して悲しいので美味しいコーヒーで慰めてください、和泉

「調子のんな馬鹿。お前なんて二倍希釈のコーヒーで十分だ」

 即座にそう応えながらも、空になった彼のビーカーを持ち上げてもう一度水を注ぎ、アルコールランプに火を点ける。その無精髭だらけの横顔を眺めていると、見慣れているはずなのに、何だか初めて見る不思議な生き物のように見えた。


 その想いを何というのかについて考えるのは、まだ早い気がした。

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