第7話

 ティコが十七歳になるころ、ソギが生まれた。ザカとリュオンの長男だ。実りたての屍竜果ネグドルトゥのようにまん丸い顔の、愛らしい赤ん坊だった。

 ティコがロンデを見つけたのは、オセルとともにソギのための獲物を狩りに出たときだった。

 鹿を追って谷間へと滑降し、ここぞと狙って槍を放つ。だが鹿は存外素早く、槍は川べりの岩に当たって落ちた。

 ジャガラ=チセがニタンガの泥河に合流するより少し手前。その少年は、小さな滝のほとりで気絶していた。あちこち怪我をしている。滝を登ろうとして落ちたのだろうか。

 ――これは、人間か?

 それが、ティコがはじめてロンデを見たときの感想だった。髪や肌の色が、自分たちとは全然違う。髪は太陽の光みたいにきらめいて、肌は槍人ゴークの鬼面と同じくらい真っ白だ。でも、姿形はどうみても人間だった。たぶんティコたちよりも若い。まだ子どもだ。

「オセル、あそこに妙な人間がいる」

「あれは外の人間だ。放っておこう」

 オセルは冷淡さから言ったわけではなかった。外の人間を里に連れ帰るのは、ナティウ族の掟に反していた。もし里と屍竜樹ネグドラディの場所を外の人間に知られれば、欲深いやつらに襲われてしまうかもしれない。ピアトの役人に年貢を納めるときも、商人と取引をするときも、槍人ゴークに守られた彫り人ナンクが山を下って近くの村へ出向く。

「でも、このままこの子をここに置き去りにしていたら、ヒディカ族に食われてしまう。ソギの誕生祝いに来ている私たちが別の人間を見殺しにしては、ソギが竜神の恵みを受けられないのでは」

 ティコが反論すると、オセルも「それもそうだな」と腕組みをした。

「なら、うちで介抱して、具合が良くなったら目隠しをさせて、下の村へ連れて行くことにしよう。祭り人トゥークたちには、おれから話をするよ」

「ありがとう、オセル」

 オセルは少年を軽々と背負って歩き出した。ティコは夫の優しさに感謝し、また誇らしく思うと同時に、彼に甘えてしまったような気もする。

 ティコが投げた槍は、鉄の穂先が欠けてしまっていた。鉄はピアトから仕入れた貴重品なのに。

「さっきの鹿、逃がしてしまった。私のせいだ、ごめん」

「気にするなよ。明日は弓人サンクも連れて来よう」

 同じ槍人ゴークとしていくらか気安く話せるようにはなったものの、まだオセルはティコに触れようとしない。仕方のないことだ、とティコは思っている。ティコに宿る「泉」は夜ごとにオセルの「槍」を待ち詫びているけれど、自分がオセルと肩を並べた実感がない以上はまだ堪えるべきなのだ。ただ、ティコの腹にいつまでも子が宿らぬことを不審がって、あれこれと探りを入れてくる母や近所の年増女たちの相手だけは煩わしかった。

 オセルが祭り人トゥークの館へ行っている間、ティコは意識のない少年の世話をしてやった。綿に水を含んで唇を潤し、額や腕の擦り傷には軟膏を塗ってやった。軟膏は、屍竜樹ネグドラディの脂とすりつぶした葉を混ぜて作ったものだ。骨も折れていないし、じきに治るだろう。

 やがて少年が目を覚ました。ティコの顔を見ると驚いて飛び起き、聞いたことのない言葉で喚いた。落ち着け、落ち着けとティコが身振りで示すと、ようやく少年は大人しくなった。

「わたしはティコ。あなたは?」

 自分の胸を叩きながら名乗る。

「……ロンデ」

「ロンデ? 変な名前だな」

 思わず口にしてしてしまったが、ロンデには言葉が通じていない。どうにか名前だけは聞き出すことができたが、それ以外のことは何も分からない。どうしたものかと困っていると、オセルが帰ってきた。ハガティと、なぜかザカも一緒だ。

「よそ者を連れて来るとは。災いの種になるぞ」

 苦々しげに呟く父を、ティコは睨み返した。カヤが死んでから、ティコは一度たりとも父を許したことがない。

 空気がひりつく中、ザカだけは笑顔だった。異国の言葉でロンデに話しかけ、ここはどこなのか、なぜ彼がここにいるのかを説明してやった。

「ザカにはロンデの言葉が分かるのか?」

彫り人ナンクはみんな覚えさせられるんさ。おれたちは外の人に竜燭ムーリを売りに行くからな」

 ザカの柔らかな雰囲気に心を許したのか、ロンデも落ち着いて話し始めた。ティコには何のことやらさっぱりわからないが、ザカはときどき質問を差し挟みながら聞いている。

 ザカが通訳してくれた。ロンデは隊商の子どもらしい。メセオからピアトに移動してる途中で仲間にはぐれて、水と食べ物を探してジャガラ=チセの上流へ歩いていたけど見つからず、ふらついたはずみで滝から落ちてしまった、とのことだ。

「メセオって何だ?」

「ピアトよりもっと遠くにある街の名前だよ」

 またロンデが何か言い始めた。

「隊商がもう一度この近くに来るのは、ピアトでひと仕事終えてからだって。その後またメセオに戻る前に麓の村に寄るはずだから、そのときまでここにいさせてくれないか、って」

「『そのとき』とは、いつなのだ」

 ハガティが厳しい声で問う。

「次の次の満月の夜だって。……てことは、十日を五回と、あと何日か、かなあ」

 ティコとオセルは思わず顔を見合わせた。ほんの数日面倒を見てやるだけのつもりだった。五十日以上も言葉の通じない少年が家にいるのは、さすがに気詰まりだ。

「ここじゃなくて、おれの家にいさせればいい。おれなら話が通じるしな」

 ふたりの困惑を察したように、ザカが言った。

「いいのか? ソギが生まれたばかりなのに」

「もちろん、ロンデにもいろいろ家のことを手伝ってもらうよ」

「でも」と言った後でティコは言葉に迷った。他人が家の中にいるのは夫婦にとっても邪魔だ。仲睦まじいザカとリュオンの家よりも、いまだ槍と泉の交わりをなしていないティコとオセルがロンデを預かるべきではないか。

「大丈夫。おれたち夫婦でうまくやるさ」

 そう言い切るザカは、自分たちよりもはるかに立派な大人に見えた。

 ザカがロンデを連れて帰った後で、ハガティがつぶやいた。

「ティコはザカに、また恩ができたな」

「……どういう意味だ?」

「知らんのか」

 ハガティは意外そうに言った後で、ちらとオセルに目配せをした。何かティコに隠し事があるのか。その意味が分かったのは、寝床に入る前、オセルが正直に打ち明けたからだ。

「ザカから、口止めされてたことがある」

 それは、ティコが槍人ゴークに選ばれるまでの顛末だった。

 ティコが槍試合で全勝したにもかかわらず、ハガティら祭り人トゥークはやはり女を槍人ゴークにはできない、姉と同じく摘み人ジックにでもするべきだと考えていた。ところがザカがハガティのところへ、ティコを槍人ゴークにしてやってくれと頼み込んだ。

「ザカのやつ、『ティコを槍人ゴークに選ばないなら、もうおれは二度と竜燭ムーリを作らない』、『もしティコが槍人ゴークの仕事で命を落とすようなことがあったら、おれも責任を取る』とまで言い切ったそうだ」

 ザカは彫り人ナンクに選ばれたときから天賦の才を発揮し、彼の竜燭ムーリはほかの彫り人ナンクが作るものとは比べものにならないほどの高値で取引されていた。ザカに鑿と槌を捨てられては困ると、ハガティたちも渋々ティコを槍人ゴークにすることに決めた。

 オセルの話はティコを激しく動揺させた。あの争い事の嫌いなザカが、里の最高権力者たる祭り人トゥーク相手に自分の主張を押し通す姿を、どうしても思い描くことができなかった。

「……なぜ、ザカは私のために、そこまで」

「分かるだろ。あの頃のあいつは、何よりもお前のことが大切だったんだ」

 何も気づかなかった。ザカはいつもにこにこしていて、穏やかだったから。ティコの胸はザカに対するすまなさと感謝でいっぱいになる。苦しくて、同時に温かかった。

「……いまのザカは、リュオンとソギを愛している」

「もちろんそうだ。でも、ザカは約束を守る男だ。だからお前は絶対に死んじゃだめだ。それに、おれだって……」

 オセルは最後まで言い切る代わりにティコの目を見つめ、手を伸ばして頬に触れようとした。「泉」がざわめいて存在を主張する。けれどもティコは、身を引いてオセルを拒んでしまった。

「私は、死なない」

 答えた後でティコは布団に潜り込み、オセルに背を向けた。

 ――死なないだけでは、駄目だ。

 固く目を閉じて考える。自分の力だけで槍人ゴークになれたわけではなかったのだ。槍人ゴークとして姉の命とザカの誠意に応えるだけの働きをしなくては、ティコは自分をオセルの妻にふさわしい女だと認められそうもなかった。

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