第6話
いきなり眼前の木に矢が突き立った。楓が揺れて、頭上から赤く色づいた葉を散らす。腰を抜かした《
ヒュン、ヒュンと続けて矢が放たれたがティコには当たらない。木蔭からこそこそと襲ってくるのは、臆病なワベ族と決まっている。ナティウ族の《
「あそこにいるぞ! 私に続け!」
ティコの叫びに応えて、ほかの
仲間が殺されたというのに、ワベ族の男たちは奮い立つどころか慌てふためいて逃げ出した。亡骸は置き去りだ。ティコは敵ながら哀れに思った。
「ティコ、大丈夫か?」
「君はひとりで先走りすぎだ。無茶はいけない」
ティコは不快さを隠さず、槍の石突きでどすんと地面を鳴らした。
「私はあなたと同じ
悲しげに眉を曇らせるオセルに背を向けて屈んだ。空を見つめたまま事切れているワベ戦士の瞼を閉じてやる。
「こいつを弔ってやろう。オセル、手を貸せ」
ティコはオセルとともにジャガラ=チセの流れまで亡骸を運び、小刀で
「……なあ、ティコ」流れていく炎を見送りながら、オセルが口を開いた。「おれは、君をこんな風に死なせたくない」
「分かっている、私は死なない。……もう戻ろう。《
ティコはオセルを振り返りもせずに歩き出す。
カヤが死んでから二年が経ち、ティコは十五歳になった。
ティコは亡き姉同様、同い年の男たち全員を倒し、ナティウの永い歴史上初めての女
十七歳になったオセルとは、今夜
それでも、今夜からは夫婦なのだ。
儀式は宵の口からオセルの家の前で始まった。ティコには赤染めの綿に金糸で花と炎の意匠を刺繍した、立派な花嫁衣装が用意されていた。家族や友人が焚き火を囲んで
母が料理を運んできた。自分たちで狩ってきた鹿や猪の肉が、こんがりと焼かれて香ばしい匂いを立てている。その表面にはきらきらと光る粒がまぶされており、一口囓るとティコの知らない風味と辛味が口中に広がった。
「すごくおいしい。これは何の味?」
「黒胡椒です。あなたたちのために、ザカが行商人から買い付けてくれたの。とても高価なものだそうだけど、ザカの
母が教えてくれた。ザカは夏に
ザカとリュオンは、ふたり揃ってティコとオセルにお祝いを言いに来てくれた。
「ありがとう。黒胡椒、とてもおいしかった」
「いやあ、なんもなんも」ザカは屈託ない笑顔を見せた。「ふたりともおめでとう。末永く仲良くな」
ザカはリュオンの手を引いて、踊りの輪に飛び込んだ。羨ましいな、とティコは素直に思った。あんな風に、自分もオセルと仲良くなれるだろうか。横目で盗み見たオセルは、炎の周りを巡る踊り手たちをどこか遠い目で眺めていた。いま彼が何を思っているのか、ティコには分かるような気がして、悲しくなった。
宴が終わると、新婚の夫婦はふたりのために
ふたりの寝床には、赤と紫でむら染めした布団が敷いてある。それを目にしたときティコの心臓は跳ね上がったが、オセルに悟られたくなくて顔を背けた。
「オセル、少し寒くないか。火を起こそうか」
「あ、ああ……」
生返事だった。オセルもこれからやるべきことに、戸惑っているのかもしれない。
部屋の中央に炎が灯り、秋深い山里の夜にほのかな温もりを生み出した。ティコは黙ったまま、オセルが寝床に誘ってくれるのを待った。最初の夜はそうしなさいと、前もって母から言いつけられている。妻は夫に誘われるまで待つものだと。
けれどもいつまで経っても、オセルは膝を抱えて焚き火を見つめるだけだ。しびれを切らしてティコが声を上げかけたとき、オセルが突然口を開いた。
「……おれは、あの夜、カヤとまぐわった」
どの夜を指しているのか、ティコには伝わった。二年前、カヤが槍試合に勝った日、ハガティに
薄々勘づいてはいたものの、オセルの告白はティコの心を揺さぶった。それでも平静を装って、「それがどうした」と答えを返した。
「あのときは姉さんがあなたの許婚だった。許婚同士が
「違うんだ」
オセルは激しく首を振った。
「カヤは『女は
言葉を切るより早く、オセルは涙を流して膝に顔を埋めた。
そのときティコが感じたものは、まず夫への怒りだった。新婚初夜に罪の告白をし、ひとりでめそめそと泣いている。この人は自分のことしか考えていない。初めて男と
――いや、オセルを責めてはいけない。
ティコは深呼吸をして考え直した。この二年、オセルはずっと苦しんできたのだ。むしろ喜んでティコの乳房に吸いついてくるような男でなかったことに安心するべきだ。深い失望に駆られながらも、ティコは寛大さを保とうと努めた。
「それで、私とまぐわうのが嫌なのか?」
「嫌というより……ティコは俺にとってずっと妹みたいなものだったし、どうしたってカヤのことを考えてしまう。ティコが相手では、おれの『槍』が使いものにならない」
「無理だということか」
嫌よりなお悪いな、とティコは心の中だけで呟く。
「それなら無理にやらなくていい。私だって、あなたに渋々抱かれたくはない。いつかその気になったら、あなたの『槍』を私の『泉』に沈めればいい」
オセルが顔を上げて、ふたりはわずかな間だけ見つめ合った。
「怒らないのか、ティコ?」
「私は、あなただけが悪いとは思わない。……もしかしたら姉さんは、私を
あなたは、きっと
カヤは命を懸けて、父を含む
ティコはひとりで広い布団に入り、隅に寄って固く目を閉じた。堪えようと思うのに、後から後から涙が溢れてくる。私も苦しかったのだ、と初めて分かった。
やがて大きくて温かい手がティコの髪に触れた。結局いまのティコは、オセルに慰められる立場なのだ。まだオセルと対等ではないのだから、やはり彼の「槍」を受けるべきではない。
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