第6話

 いきなり眼前の木に矢が突き立った。楓が揺れて、頭上から赤く色づいた葉を散らす。腰を抜かした《築き人ノック》をその場に置いて、ティコは槍を掲げて駆け出す。腰に下げた竜燭ムーリが激しく揺れた。

 ヒュン、ヒュンと続けて矢が放たれたがティコには当たらない。木蔭からこそこそと襲ってくるのは、臆病なワベ族と決まっている。ナティウ族の《弓人サンク》なら絶対にしない。そもそも木を切り倒しに来ただけの築き人ノックを襲うなんて、誇り高き戦士にあるまじき行為だ。

「あそこにいるぞ! 私に続け!」

 ティコの叫びに応えて、ほかの槍人ゴークたちもついてきた。見通しの悪い森に身を潜めたワベ族を目ざとく見つけ、卑怯者が受けるべき報復の槍を浴びせる。ワベ族の戦士など、はるか昔から屍竜樹ネグドラディを守ってきたナティウの槍人ゴークには遠く及ばない。ティコが自分よりずっと背の高い戦士に向かって槍を振り上げたとき、その頬に返り血がぱっと散った。

 仲間が殺されたというのに、ワベ族の男たちは奮い立つどころか慌てふためいて逃げ出した。亡骸は置き去りだ。ティコは敵ながら哀れに思った。

「ティコ、大丈夫か?」

 槍人ゴークたちが勝利の歌を高らかに歌い出す中、オセルだけは気遣わしげな視線を送ってきた。

「君はひとりで先走りすぎだ。無茶はいけない」

 ティコは不快さを隠さず、槍の石突きでどすんと地面を鳴らした。

「私はあなたと同じ槍人ゴークだ。心配してもらう必要はない」

 悲しげに眉を曇らせるオセルに背を向けて屈んだ。空を見つめたまま事切れているワベ戦士の瞼を閉じてやる。

「こいつを弔ってやろう。オセル、手を貸せ」

 ティコはオセルとともにジャガラ=チセの流れまで亡骸を運び、小刀で竜燭ムーリの中身をり出してその腹の上に乗せた。屍竜樹ネグドラディの脂をたっぷり含んでいるから、燧石ひうちいしで軽く擦るだけで簡単に燃え上がる。そうしていくつかの竜燭ムーリとともに、火がついたままの亡骸を川へ放った。完全に灰にはならないが、竜燭ムーリの火は水では消えない。火が消えるのは、燃え尽きるときだけだ。

「……なあ、ティコ」流れていく炎を見送りながら、オセルが口を開いた。「おれは、君をこんな風に死なせたくない」

「分かっている、私は死なない。……もう戻ろう。《婚礼の儀式コミ・ノーキ》に私たちが遅れては話にならない」

 ティコはオセルを振り返りもせずに歩き出す。

 カヤが死んでから二年が経ち、ティコは十五歳になった。

 ティコは亡き姉同様、同い年の男たち全員を倒し、ナティウの永い歴史上初めての女槍人ゴークに選ばれた。カヤは選ばれなかったのに、なぜ祭り人トゥークたちが考えを改めたのかは知らない。

 十七歳になったオセルとは、今夜婚礼の儀式コミ・ノーキを執り行うことになっている。同じ槍人ゴークとしての彼は、本当に見事な戦士だった。誰よりも強く勇敢で、敵がいれば真っ先に駆けて行く。今日のティコもそれを見習っただけなのに、彼は相変わらずティコをお守りの必要な妹としか見ていない。

 それでも、今夜からは夫婦なのだ。

 儀式は宵の口からオセルの家の前で始まった。ティコには赤染めの綿に金糸で花と炎の意匠を刺繍した、立派な花嫁衣装が用意されていた。家族や友人が焚き火を囲んで竜燭ムーリを飾り、陽気な歌と踊りと、とびきりのご馳走で新しい夫婦の誕生を祝う。でも、隣のオセルとは一言二言会話しただけだった。

 母が料理を運んできた。自分たちで狩ってきた鹿や猪の肉が、こんがりと焼かれて香ばしい匂いを立てている。その表面にはきらきらと光る粒がまぶされており、一口囓るとティコの知らない風味と辛味が口中に広がった。

「すごくおいしい。これは何の味?」

「黒胡椒です。あなたたちのために、ザカが行商人から買い付けてくれたの。とても高価なものだそうだけど、ザカの竜燭ムーリはものすごく高く売れますからね」

 母が教えてくれた。ザカは夏に摘み人ジックになったリュオンと結婚した。心優しいザカと、もとよりザカを慕っていたリュオンの夫婦は見るからに幸せそうだった。仕事のうえでも、ふたりは協力し合っていた。リュオンが摘んだ屍竜果ネグドルトゥを、ザカが見事な竜燭ムーリに仕上げるのだ。

 ザカとリュオンは、ふたり揃ってティコとオセルにお祝いを言いに来てくれた。

「ありがとう。黒胡椒、とてもおいしかった」

「いやあ、なんもなんも」ザカは屈託ない笑顔を見せた。「ふたりともおめでとう。末永く仲良くな」

 ザカはリュオンの手を引いて、踊りの輪に飛び込んだ。羨ましいな、とティコは素直に思った。あんな風に、自分もオセルと仲良くなれるだろうか。横目で盗み見たオセルは、炎の周りを巡る踊り手たちをどこか遠い目で眺めていた。いま彼が何を思っているのか、ティコには分かるような気がして、悲しくなった。

 宴が終わると、新婚の夫婦はふたりのために築き人ノックが作ってくれた新居へ移った。とはいっても、ティコの生家とオセルの生家の間だから、さほど新鮮な感じはしない。

 ふたりの寝床には、赤と紫でむら染めした布団が敷いてある。それを目にしたときティコの心臓は跳ね上がったが、オセルに悟られたくなくて顔を背けた。

「オセル、少し寒くないか。火を起こそうか」

「あ、ああ……」

 生返事だった。オセルもこれからやるべきことに、戸惑っているのかもしれない。

 部屋の中央に炎が灯り、秋深い山里の夜にほのかな温もりを生み出した。ティコは黙ったまま、オセルが寝床に誘ってくれるのを待った。最初の夜はそうしなさいと、前もって母から言いつけられている。妻は夫に誘われるまで待つものだと。

 けれどもいつまで経っても、オセルは膝を抱えて焚き火を見つめるだけだ。しびれを切らしてティコが声を上げかけたとき、オセルが突然口を開いた。

「……おれは、あの夜、カヤとまぐわった」

 どの夜を指しているのか、ティコには伝わった。二年前、カヤが槍試合に勝った日、ハガティに槍人ゴークにはなれないと告げられた夜のことだ。

 薄々勘づいてはいたものの、オセルの告白はティコの心を揺さぶった。それでも平静を装って、「それがどうした」と答えを返した。

「あのときは姉さんがあなたの許婚だった。許婚同士が婚礼の儀式コミ・ノーキより早くまぐわうのは、大して珍しい話でもない」

「違うんだ」

 オセルは激しく首を振った。

「カヤは『女は槍人ゴークになれない』と言って泣いてたのに、おれは少しもカヤの気持ちを考えなかった。『おれと結婚するんだから、槍人ゴークになれなくたって平気だろ』って、カヤに触れたんだ。あのときは慰めているつもりでいたけど、たぶんただ触りたかっただけなんだ。カヤは黙って俺を受け入れてくれたけど、本当は絶望してたと思う。おれがカヤを女にしてしまった。槍人ゴークにはなれない人間にしてしまったんだ。カヤを殺したのはおれだよ。カヤを救うどころか、追い詰めたんだから……」

 言葉を切るより早く、オセルは涙を流して膝に顔を埋めた。

 そのときティコが感じたものは、まず夫への怒りだった。新婚初夜に罪の告白をし、ひとりでめそめそと泣いている。この人は自分のことしか考えていない。初めて男とどうきんする新妻の不安など、少しも思いやってはくれないのだ。

 ――いや、オセルを責めてはいけない。

 ティコは深呼吸をして考え直した。この二年、オセルはずっと苦しんできたのだ。むしろ喜んでティコの乳房に吸いついてくるような男でなかったことに安心するべきだ。深い失望に駆られながらも、ティコは寛大さを保とうと努めた。

「それで、私とまぐわうのが嫌なのか?」

「嫌というより……ティコは俺にとってずっと妹みたいなものだったし、どうしたってカヤのことを考えてしまう。ティコが相手では、おれの『槍』が使いものにならない」

「無理だということか」

 嫌よりなお悪いな、とティコは心の中だけで呟く。

「それなら無理にやらなくていい。私だって、あなたに渋々抱かれたくはない。いつかその気になったら、あなたの『槍』を私の『泉』に沈めればいい」

 オセルが顔を上げて、ふたりはわずかな間だけ見つめ合った。

「怒らないのか、ティコ?」

「私は、あなただけが悪いとは思わない。……もしかしたら姉さんは、私を槍人ゴークにするために死んだのかもしれないと思うから」

 あなたは、きっと槍人ゴークになれる――あの晩のカヤの声が、ティコの頭の中に響いた。

 カヤは命を懸けて、父を含む祭り人トゥークたちに抗議したのではないか。自分と同じ悲しみを、妹にも味わわせぬようにと脅したのではないか。だとすればティコもカヤの死に責めを負うべきだ。オセルの妻になれたことを、喜ぶべきではない。

 ティコはひとりで広い布団に入り、隅に寄って固く目を閉じた。堪えようと思うのに、後から後から涙が溢れてくる。私も苦しかったのだ、と初めて分かった。

 やがて大きくて温かい手がティコの髪に触れた。結局いまのティコは、オセルに慰められる立場なのだ。まだオセルと対等ではないのだから、やはり彼の「槍」を受けるべきではない。

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