第11話 真相

 小倉が逮捕されてからおよそひと月が経過した頃、一人の女性が大淀署を訪れていた。


 その女性は、元女優の北原祥子だった。北原は、鈴木警部に会いに来ていた。


「鈴木警部、ご無沙汰しております。北原です」


 応接室で待っていた北原は、鈴木が入ってくるなり、腰を上げて丁寧に頭を下げた。


「これはこれは、北原さん、こんな所までわざわざおいで下さるなんて。まあまあ、おかけ下さい」


 鈴木は、ソファーに座るように北原に促した。


「ありがとうございます」


「いやー、それにしてもよかったですね。息子さんがご無事で」


「ええ、何と申し上げたら良いのか。その節は本当にお世話になりました」


「いやいや、私など全くお役に立てなくて、今でも大変申し訳なく思っているところですよ」


 北原は、持っていた小さなハンドバックから白のハンカチを出して口元に当てた。その白さが、和服姿の北原の清楚な趣をさらに際立たせていた。


「そういえば、女優に戻られるそうですね? ネットの芸能ニュースに出ていたと、私の部下が教えてくれました」


「ええ、周りの方からの勧めもありまして。本当にありがたいことです」


「是非、復帰されるべきですよ。素人の私からみても、あなたには素晴らしい才能がおありになる」


「才能、ですか」


 北原の視線が少しだけ下を向いた。わずかに思い沈む様子が鈴木にも見て取れた。


「……お子さんは、お元気ですか?」


「ええ、おかげ様で。子供ってすごいですわね、新しい環境にもどんどん慣れてくるみたいで。ただ、私との関係を築くには、まだまだ時間がかかるようです」


 北原の顔に少しだけ疲労の色が浮かんだ。


 息子の和幸と北原は、現在、雫石市にある北原の自宅で一緒に暮らしている。暮らし始めて一月半ほどになるが、和幸との間に、簡単には埋められない深い溝があることを、北原は何度も思い知らされていた。


 子供にしてみれば、それまで母親と慕ってきた杉浦が突然逮捕され、目の前から居なくなってしまったのである。そのショックの大きさは計り知れない。本当の母親は北原であり、名前は和幸だと、いくらそう言われても、これまで杉浦と過ごしてきた時間はかけがえのないものであり、代替などきかない。


 母親は杉浦であり、自分は隆之なのだという、杉浦の愛情に裏打ちされた確信とも言うべき思いは、子供の中で変わらず有りつづけるしかなく、ママがどこにいるのか、どうしているのか、そうした質問が北原に容赦なくぶつけられることは、仕方のないことだった。


「そうですか……今は、学校ですかな?」


「ええ、一年生ですので、この後迎えに参ります」


「なるほど」


 鈴木は、内ポケットから煙草を取り出そうとしたが、小さな子供をもつ母親を目の前にしていることが、それを躊躇させた。


「7年、ですか」


 改めて思い貯めた鈴木の言葉に、北原は小さく頷いた。7年もの間、北原は決してあきらめることなく、ずっと和幸の行方を追い続けていた。勿論、その歳月の重さと儚さは、当事者にしか分かり得ない。ただ鈴木には、その事件に関わった刑事として、その歳月を遡らざる得ない義理があった。


「あの、もしよろしければ、事件のことをお聞かせ願いませんか?」


「姉のことを、ですか?」


「ええ、時間の許す限りでかまいませんので」


 北原は、思慮深げに視線を落とすと、どこか遠くを見つめるような目をした。そして、記憶をたぐりながら話をする独特の間をもって、言葉を紡ぎ始めた。


「私と姉は、秋岡県の爽海山のふもとにある美畑町という町で生まれ育ちました。自然豊かな場所で、子供の頃はよく二人で近くの森や小川に行って遊んでいました」


「双子の姉妹だけあって、よく似ていらしてましたね」


 鈴木は、八ツ橋署の刑事として捜査をしていたとき、北原の身辺調査のために一度だけ杉浦に会っていた。


「ええ、ですが双子と申しましても、どういうわけか中身は全く違うんですの。姉は頭が良くて勉強もすごくできましたけれど、私は、勉強はもうさっぱりで、体を動かすことの方が得意でした。だけど、学校はずっと一緒でしたのよ。高校では、姉は進学クラスでしたが、私はスポーツ特待生でした」


 話をする北原の顔に、静かな笑顔がこぼれていた。


「姉はどちらかというと内向的で慎重な性格、私は楽天家でおおざっぱですの。そんな感じでしたから、よくケンカもしましたけど、私は姉のことを尊敬していて、いつも頼りにしていました」


「仲が良かったのですな。あなたが女優になるときはどうでしたか?」


「私は、幼い頃からずっと女優になりたと思っていましたの。まさに他愛のない憧れでした。特に容姿が良いとか、何の根拠もないのに。でもどうしても女優になりたくて、高校を卒業したら上京する、そう心に決めていた当時の私は、とにかく実家を出たくて、そのことを真っ先に姉に相談しました。初めのうちは猛反対されましたが、言い出したらきかない私の性格を知っている姉は、最後には分かってくれて、両親に打ち明けるときも味方になってくれました」


「ほーう、杉浦の方はどうしたんですか?」


「姉は、地元の国立大学に進学した後、実家の近くにある私立高校の英語教師になりました」


「なるほど、高校を卒業した後は、それぞれ別の道に進んだわけですな」


「ええ、私は、上京すると、アルバイトをしながらオーディションを幾つも受けました。ですが、現実は非常に厳しくて……何度か諦めかけたのですが、そのたびに姉に励まされて、なんとかつづけているうちに、西方芸能プロダクションのスカウトの方に声をかけて頂きましたの」


「そして、小津信一郎監督の映画〈幼き群像〉で見事に銀幕デビューを果たされたという訳ですな」


「あら、警部さん、ご存知でしたの?」


「実は私、小津監督のファンなんですよ。彼の作品は全て観ています。あの映画では確か、主人公である男子高校生の担任である新米教師の役をされていましたよね? 思春期にある子供の恣意など全く寄せ付けない、見た目は若いが圧倒的な大人の雰囲気をもつ女性の姿が印象的でしたよ」


「そうでしたか、今となってはお恥ずかしい限りですわ」


「いえいえ、とんでもありませんよ」


「今思えば、あの頃が一番良かったかもしれません。デビューをしたときは姉もすごく喜んでくれました」


「杉浦は、あなたのことを相当心配していたようですな」


「ええ。ですからデビュー当時の私は、女優としてなんとか売れたくてもう必死でした。姉に恩返しをしたい、ずっとそう思っていましたから」


「なるほど」


「でも、何事も度が過ぎると良くないですわね。女優のお仕事をたくさん頂けるようになったことはありがたいことなのですが、忙しくなるにつれて、姉や両親ともどんどん疎遠になってしまって……私、姉の結婚式にすら出席しておりませんの。本当に不義理をしましたわ」


 北原は昔の自分を後悔していた。駆け出しの頃の彼女は、女優としての地位を確固たるものにしようとやっきになっていて、いつの間にか周りが見えなくなっていたのである。


「女優のピークを迎えたときにお金持ちと結婚をして、本当に絵に描いたようなサクセスストーリーですわね。その頃の私は、姉が大変な思いをしていることも知らずに、自分に酔いしれていました」


「杉浦が?」


「ええ、姉は、仕事のことで悩んでいて鬱のような状態になっていたんです。元々人見知りで内向的な姉には、教師の仕事は向いていなかったのかもしれません」


 そうした状況にあった杉浦は、両親の勧めもあって、当時付き合っていた男性との結婚を機に教師を辞めていた。そして、結婚して一年ほどすると子供の隆之を授かり、三人での新しい生活が始まろうとした矢先、夫を交通事故で亡くしてしまった。


「義兄の葬儀には、迷惑だからと言われて、出させてもらえませんでした」


 そっとこぼすようなその言葉に、北原の寂しさが募った。有名女優が来るというだけで、お葬式の雰囲気が何か別のものに変わってしまうかもしれない。それは北原にも分かっていたが、姉の口調には、決してそれだけではない、突き飛ばすような嫌悪の含みがあった。


「そして、その後、まさか隆之をも亡くしていたなんて!」


 北原の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。感情を露わにした北原は、すぐさまそのことに気付くと、横を向いて、持っていたハンカチで瞳を隠すようにすっと瞼を拭いた。


「隆之が亡くなったとき、自分は全てを失った。姉はそう思ったようです。その一方で私は、富、名声、そして愛する家族、全てを手に入れていると。同じ星の下に生まれながら、なぜこれほどまでに違うのか? 姉は、自分と、そして私の運命を呪い、気が付くと、あの犯行に及んでいたそうです」


「そうだったのですか」

 鈴木は、頭を掻きむしりながら、苦みばしった顔を下に向けた。


「警部さん、姉の服役期間は、どれくらいになりそうですの?」


「抒情酌量の余地があるとしても、おそらく一年はかかるでしょう」


 鈴木のその言葉を聞いた北原は、きっとして顔を上げると、わずかに口角を上げた。


「一年なら、丁度良いリハビリ期間になりますわ」


「リハビリ? どういうことです?」


「勿論、女優業を再開するためのリハビリですわ。私は、私らしく私の人生を生き抜くために、そして何より、私の家族たちを守るために女優に戻る決心をしたのです」


「家族たち?」


「ええ、姉の服役が終わったら、私と和幸、そして姉の三人で一緒に暮らしていこうと思っています」


「ほう!」


「私は、姉のことを恨んでなどいません。むしろ、自分が姉にしてきたことを償わなければと思っているのです。勿論、そうしたことをすれば世間の好奇の目に晒されることになるでしょう。でもそれは覚悟の上です。私は闘ってゆきたい。そのために力が必要なのです、和幸と姉を守っていくための力が」


 そのときの北原の瞳に凛とした輝きが灯った。それは、まぎれもなく明日を見据える強い光だった。


「守るだなんて、こんな偉そうなことを言っていると姉に怒られそうですけどね。拘置所に面会に行って、姉にこの話をしたとき、すごく驚いて、初めは首を横にしか振らなかったのですが、それでも和幸と一緒に根気強く説得しましたら、静かにうなずいてくれましたの」


「そうですか、よくぞ決断されましたね、それはお子さんにとってもすごく良いことだと思いますよ」


「ええ、和幸もとても喜んでおります」


「なるほど、真に強く、そして優しいあなたの人間性が、事件を解決に導いたのですね。杉浦は杉浦で、あなたの子供をさらってから、おそらくずっと良心の呵責に苛まされてきたに違いない。諦めずに子供を探しつづける、あなたのひたむきな姿に、きっと耐えきれなくなったんでしょう」


「?」

 北原は、ちょっとだけ首を傾げた。


「警部さん、私の人間性が事件を解決したとは、どういう意味でしょうか?」


「は? いや、ですから杉浦が自ら、あなたに子供のことを打ち明けたのでしょう?」


「いいえ、違います。和幸は、ある探偵の方に見つけてもらったのです」


「えっ!? 本当ですか?」


「ええ。事件が解決したのは、その探偵さんのおかげです」


「そうですか、探偵が……」


 鈴木は、少なからずショックを受けていた。当時の警察の中では、杉浦を調査対象から外すことに何の異論もなく、鈴木もそうすべきと判断していた。そして、今現在こうして北原の話を聞く限りにおいても、事件を解決するには、杉浦の自白が不可欠だと思われた。


 しかし、一介の探偵が、鈴木のそうした判断をすべて覆し、事件を解決していたのである。


「でも、その探偵さん、少し変わった方で、和幸の居場所しか教えてくれませんの。報告書には、姉の住所だけが記載されていて……ああ、それと、髪の毛が入れられたプラスチックケースもその報告書と一緒に送られてきておりましたわ」


「居場所だけ?」


 それを聞いた瞬間、鈴木の頭に速見の顔が浮かんだ。


「北原さん、話の途中で申し訳ないですが、その探偵、もしかして速見という名ではありませんか?」


「ええ、そうです。速見さんですわ。ご存知なんですか?」


「ええ、まあ、以前に一度だけ仕事を頼んだことがありまして」


「そうでしたか。奇遇ですわね。あの方凄いんですのよ、依頼してから一週間も経たないうちに子供を見つけてくださったのです」


「たったそれだけの期間で!?」


「ええ、ただ、先ほども言ったとおり、報告書には姉の住所しか記載がなくて、どういうことなのか電話を聞いてみたんです。でも、その場所に居ますとしか答えてくれなくて、ですから私言ったんですの、それは和幸ではなく、甥の隆之だと。そうしたら、隆之はすでに亡くなっていて、姉と一緒に暮らしているのが、和幸だと言うんです」


「なんですって?」


「速見さん、確かにはっきりそうおっしゃいましたよ。そして、プラスチックケースの中にある髪の毛は、姉と一緒に暮らしている和幸のもので、DNA鑑定で確認してもらえば分かりますと。そこで、女優時代に知り合いになった、分子生物学の権威である東都大の羽柴教授に鑑定をお願いしたところ、99.99%の確率で、その髪の毛の人物は、私と元夫との間に出来た子供であるということが分かったのです」


 鈴木は、あまりにもあっけない、肩透かしをくらったような感覚に陥った。その感覚は、速見が小倉を見つけてきたときの状況、すなわち、ほとんどなんの手がかりもない状況から、神がかり的な精度をもって対象者に辿り着くという、あのときに抱いた感覚によく似ていた。


「あ、いけない。もうこんな時間ですわ。警部さん、申し訳ございませんが、和幸を迎えにいかなければなりませんので、これで失礼致します」


 そう言うと北原は、ソファから腰を上げ、身なりを素早く整えると、鈴木に向かって丁寧にお辞儀をしてから、部屋を出て行った。


 鈴木は、なかば呆然としながら北原を見送っていた。鈴木は速見のことをずっと考えていた。


(隆之君はすでに亡くなっている。速見はそう断言したという……ありえない、遺体が発見されていない状況下でそう断言できるのは、当事者である杉浦か、もしくはその現場を目撃した人間だけだ)


 事件当時、夫のいない家には、杉浦と子供の二人だけだった。目撃者がいることはまず考えられない。


(つまり速見は、杉浦しか知り得ない情報を、決して明かされることのない絶対の秘密を、苦も無く手に入れたのだ。だが、どうやって? くそっ、分からん。奴は、奴は一体何者なんだ?)


 鈴木の両手に汗が滲んだ。速見優介に対する鈴木の疑念は、その背後にある何か得体の知れない力の存在のために、ますます深まるばかりだった。

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