第10話 怒る、警部
その時、事務所の呼び鈴が鳴った。
「おや? 誰か来たようだね」
静子はゆっくりと席を立ち、部屋を出て事務所の北側にある玄関フロアの方に歩いていった。静子が玄関フロアに着くと、再び呼び鈴が鳴った。
「はいはい、どちらさまですか。」
「おはようございます。私、大淀署の鈴木という者ですが」
「警察の方ですか? 少々お待ち下さい」
そう言って静子がドアを開けると、右手に黒い鞄を持ち、スーツの上にトレンチコートを着た鈴木が立っていた。
「警察の方がお見えになるなんて、一体何の御用でしょうか?」
「こちらの事務所に速見優介さんという方はおりますかな?」
「ええ、速見優介はうちの探偵ですが」
「彼に会わせていただきたいのです」
「そうですか、どうぞお入り下さい。こちらでお待ち願えますか?」
静子は鈴木を招き入れると、玄関フロアのすぐ脇にある応接室に案内した。
「それでは速見を呼んできますので、少々お待ち下さい」
そう言って静子は応接室のドアを閉めると急いで部屋に戻っていった。
「優ちゃん、優ちゃん、警察から鈴木さんという方がお見えになったよ!」
「え? 鈴木?」
「とにかく早く準備して応接室に行ってちょうだい。私はお茶の用意をするから」
そう言われた優介は、部屋の隅にあるロッカーの扉を開けて中から上着を取り出した。
(警察の鈴木って、たぶん鈴木警部だな。あの人がわざわざこんなところにやってくるなんて……やっぱり昨日の件か)
悪い予感を覚えつつ上着を着て、鈴木の居る応接室へ向かった。応接室のドアを開けるとソファーに鈴木警部が座っていた。
「よお! おはようさん!」
鈴木は勢い良く立ち上がって大声であいさつをした。
「お、おはようございます」
速見は少し気圧されたように返事をした。
「突然訪ねてきて、すまねえな」
「いいえ。どうぞお座り下さい」
鈴木と優介がソファに座ると、トントンとドアを叩く音がした。
優介が「はい」と返事をすると、「失礼致します」と言って静子が小さなおぼんにお茶をもって入ってきた。
静子がゆっくり鈴木の方に近づいて「どうぞ」と、鈴木に静かにお茶を差し出した。
「こりゃどうも、おかまいなく」
鈴木はそう言って軽く頭を下げた。
静子は、優介の方に向き直ると、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「それじゃ優ちゃん、私は向こうの部屋で待っているから、もし何か用事があったら知らせて頂戴」
静子は、鈴木に丁寧にお辞儀をして応接室を出て行った。
静子が出て行くのを見届けると、鈴木は上着の内ポケットからタバコを取り出した。
「ここ、大丈夫か?」
「ええ、どうぞ」
速見は席を立つと、部屋の隅の電話台の下に置いてあった灰皿を取ってきて鈴木の前に置いた。
「ありがとよ」
鈴木は、上着の左ポケットからライターを取り出し、煙草に火を付けた。
「ふうー」
吸い込んだ空気を煙と共に一気に吐き出した鈴木は、何気なく応接室を見渡している途中、壁に飾ってある優介の祖父、宗一郎の写真に目を停めた。
「あの写真の男性は?」
「この事務所を立ち上げた私の祖父、速見宗一郎です。三年ほど前に亡くなりましたが」
「ふーん、速見宗一郎ねえ」
鈴木はどこかで聞いたことがあるような名前だと思ったが、そのときはそれ以上詮索しなかった。
鈴木はゆっくりと立ち上がり窓際に移動すると、外の景色を眺めながら愚痴まじりに呟いた。
「この辺りには似たようなビルがいくつもあるな。おかげで見つけるのに苦労したぜ。おまけにエレベータも無いビルの最上階とはな」
あまりよく聞き取れなかった速見が尋ねた。
「何か言いましたか?」
「いや別に」
鈴木は、うつむき加減の低い声で返してきた。そして「ふんっ」と、何かの意を決したように息づくと、速見の方に向き直り、吸っていたタバコを灰皿で押し消しながら、その鋭い視線を速見に向けた。
「昨日はお手柄だったな」
来たなと速見は思った。
「驚いたぜ、まさか本当にあいつを、小倉を見つけてくるとはな。実を言うとな、全国に指名手配したにも関わらず、警察にはなぜか奴に関する情報はほとんど何も入ってこなかった。いわゆるお手上げ状態だったというわけさ。だが、その理由がやっと分かったよ。なるほど、あれだけ人相が変わってりゃ、指名手配をしても意味がないわな」
速見は黙ったまま鈴木の話を聞いていた。
「ふん、まあいい、今日はそんなことを言いに来たんじゃない」
鈴木はもってきた鞄の中から何かの書類をとりだして机の上に置いた。その書類の一番上に乗っている用紙には〈丸井部品工場内強盗殺人事件報告書〉と記されていた。
「お前さんに聞きたいことがあってよ」
「聞きたいこと? 何ですか?」
「昨日俺に持ってきた報告書には小倉の居場所しか書いてなかったよな?」
「そうです、それが何か?」
「小倉に関する調書を書かなきゃならんのだが、筆が進まんのだ」
「どういうことです?」
「要するに、経緯が分からねえんだ。お前さんがどうやって奴を見つけたのかがな。だから今日はそれを聴きに来た」
(やっぱり)
優介は黙ったまま下を向いた。
「さあどうした? 黙ってないで話してくれ」
「……言えません」
「はあ?」
「ですから、昨日契約を交わすときに言ったじゃありませんか。報告内容はその人物の居場所だけで、経過については一切報告しないと」
「確かにそう言っていたな。だがそれは単に面倒な手間を省きたいだけだろ?」
「違います」
「違う? どういうことだ? もちろん説明してくれたらその分の金は上乗せするさ」
「お金なんて要りません。とにかく言えないものは言えないのです」
「なぜだ? なぜ言えない?」
速見はまた黙って下を向いた。
「おいおい、俺は警察の人間だぞ、守秘義務は当然守るし、第一、依頼人である俺に対して隠す理由なんかないだろ?」
それでも速見は何も答えず、ただじっと下を見ているだけだった。
「答えてくれなきゃ報告書が出来ねえし、報告書が出来なきゃ稟議が降りねえから報酬も払えない」
この言葉を聞いた速見は頭を上げて鈴木の方を向いた。
「報酬を払えない?」
「そうだ、報告書が出来ないうちは無理だ」
「よくもそんな勝手なことが言えますね。それはあなた方の事情であって私には関係のないことじゃないですか」
「まあな、だが規則は規則なんでな協力してくれ」
「お断りします」
「この野郎、人が下手に出てりゃいい気になりやがって、いいかげんにしろよ!」
「いい気になんかなっていません。昨日契約するとき、あなたは確かにそれでいいと言った。だから私はあの仕事を引き受けた。おかしなことを言っているのはあなたの方です」
「おかしなことだと?」
「とにかく私はあなたの依頼どおりに小倉を見つけてきた。もうこれで満足でしょう?」
「満足だと? こっちは不満だらけで頭がおかしくなりそうなんだよ!」
鈴木は速見に詰め寄ってきて言った。
「この事務所の所員は全部で何人いる?」
「私と、祖母の二人だけです」
「二人だけ? それじゃあのご婦人も調査したりするのか?」
「いいえ、祖母は電話番と経理をしています」
「それじゃ、実際に調査するのはあんた一人かい?」
「そうです、それが何か?」
「それが何かだと? 涼しい顔しやがって! 俺たち大淀署の刑事はな、奴が事件を起こしてから5年、いいか5年だぞ! 血眼になって奴を探し回ってきた。捜査を担当した刑事は延べ100人を超える。それなのにお前ときたら、ほとんど何の情報も持たずにたった一人で、しかも半日だと? ふざけるな!」
鈴木は上着のポケットから写真を取り出し、速見の前に突き出すようにして見せた。その写真には和田が写っていた。
「おまえ、この女性を知らないか?」
速見は勿論知らないふりをした。
「……いいえ、誰ですかこの女性は?」
「この写真の女性は、和田かすみといって、小倉の幼なじみにあたる人物だ」
「その女性が何か?」
「昨日、小倉を逮捕して尋問したときに奴が言ったんだ。自分の正体と居場所を知る人間はこの和田だけだと」
「私がその女性から聞き出したとでも言うのですか?」
「最初、お前が奴を見つけたと聞いたときはそう思った。昨日お前に貸した俺の手帳には、彼女の名前と彼女が現在働いている喫茶店の名前をメモしてあったからな。だが違う」
「は?」
「この手帳にはそれ以外のことは何も書いていない。つまり、この手帳からは、彼女が小倉とどういう関係にあるかは分からない。だから、たとえお前がこの手帳をみて彼女のことを知ったからといって、彼女に会いに行くとは思えない」
「その女性に確認したのですか?」
「もちろんだ。彼女は昨日ずっと喫茶店で仕事をしていて小倉に会っていないし、自分を訪ねてきた人間もいなかった。ましてや小倉のことを聞かれたり話したことなど全くないと言っていた」
鈴木は頭をかきむしりながら続けて言った。
「彼女の言うことはおそらく本当だろう。それに小倉も言っていた。彼女は自分の正体を知っているし、これまでに何度も自首を薦められた。だけど、決して自分を警察に売るような真似はしないと。俺もそう思う。和田は小倉のことを愛している。小倉を裏切るようなことは絶対にしない。となるとだ、お前が小倉を見つけることができる可能性はただひとつ。それはお前自身が、小倉が整形をしたこととその居場所をすでに知っていたということだ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿だと? 違うと言うのなら説明してみろよ」
「それはできません」
「なあ速見よ、もういいだろう。頼むから素直に話してくれ。お前だって、これまで必死に捜査してきた俺たち刑事の気持ちも分からんわけではないだろう」
(だから、言いたくても言えないんだよ)
速見はきゅっと下唇を噛んだ。
「私が彼を見つけられたのはたまたま運がよかっただけで……」
「運がよかっただけ? じゃあ何か? 警察署をでて歩いていたら運良く奴に出くわしたとでもいうのか? ははは、こいつは傑作だ!」
そう言うと鈴木は速見の正面に立ち、その両手でいきなり速見の襟首を掴んだ。
「おい、お前、ほんとはあいつの顔を手術した整形外科医かなんかだろ!」
「ち、違います」
「じゃあ、実はお前とあいつは兄弟で密かにあいつのことを追っていたとか?」
「まさか、そんなことあるわけないです」
「とにかく、あいつが知らないだけで、お前と奴とはなんらかの関係があるんだろ!」
「違います!」
速見は鈴木警部の手首をつかんで胸ぐらを掴むのを止めさせながら、大声で言った。すると鈴木は「そうだ、違うよな……」と、力のない声で言った。
「そうさお前の言う通りさ。お前は小倉だけじゃなく、和田とだって、なんの関係もない全くの赤の他人なんだ。そんなことは俺たち警察が一番良く知っている。この五年間、奴のことを徹底的に調べ上げたがお前の名前なんぞどこにも出てきやしない。だが小倉を見つけたのは、そんなお前なんだよ」
二人の間に、埋めようのない沈黙が生じた。
「……そうですか。分かりました」
「やっと話してくれるのか。手間かけさせやがって、さあ、早く話してくれ」
「今回の件は無かったことにしてください。報酬も一切請求しません」
「何!? 無かっことにだと? 貴様、一体どこまで俺たち警察をコケにするつもりだ!」
「もうお話することはありません。お帰り下さい」
「待て! 今日ここに来たのはこれだけじゃない」
鈴木は持ってきたカバンの中から何か書類のようなものを取り出そうとした。
「ほら見ろ、このとおり、今日は別の仕事を依頼しにきたんだ。ただし次からは俺も同行する」
「申し訳ありませんが、もう今後一切、警察の仕事は受けないことにしたんです」
「なんだと?」
速見は鈴木を無理矢理玄関のドアまで押しやった。
「おい! こら速見! まだ話は終わっちゃいない!」
「報酬はいらないと言ったでしょう。もうあなたと話すことなど何もありません」
バタン!
速見は鈴木を無理やり外に押し出してドアを閉めた。ドアを背にしてよりかかったまま速見は大きなため息を一つついた。
「ふう、警察の仕事なんかもう二度とごめんだ」
その様子を見ていた静子が、どこか冷めたような目をして言った。
「報酬はいらない? ふーん、優ちゃんあんた、お金にならないことに能力を使わないんじゃなかったの?」
「あっ、今それを言う? もう、勘弁してよ。頼むから」
鈴木警部とのさっきまでのやり取りと、静子に軽い嫌みを言われたことも重なり、優介の肩に、疲れがどっとのし掛かったような気がした。
(あーあ、一生懸命にやったのに。今回は結局タダ働きか)
しかし、その日から一週間ほどすると、指定した口座には報酬の金額がきちんと振り込まれていた。
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