第9話 優介の憂鬱

 テーブルの上に焼きたてのトーストと目玉焼きが並べられると、静子は優介と向かい合ってテーブルの席についた。


「それじゃあ、いただきましょう」


 静子がそう言うと、優介は静かに手を合わせてからトーストを食べ始めた。


「それにしてもたった一日で見つけちゃうなんてすごいじゃない」


 静子が嬉しそうに言うと、優介は少しだけ憮然としながら首を横に振った。


「能力を使ったのを知っているくせに。しらじらしいこと言わないでくれよ」


「私は別にそんなつもりで言ったんじゃないよ。相変わらずだねえ、優ちゃんには困ったもんだよ」


「おばあちゃんには分からないよ。僕の気持ちなんて」

 コーヒーを飲む優介の目が、少しだけうつろになった。


 実は優介は、自分と会話をする人間が持つ情報を自由に引き出せるというその能力に対し、かなり根深い嫌悪感を抱いていた。


 優介にとって、つまり、人の秘密を探り出すことを仕事とする探偵にとって、この能力がこの上ない強力な武器になることは間違いない。


 だがその一方で、その能力を使用することによって他人のものを勝手に盗んでいるという点においては、泥棒がしていることと何ら変わるところはない。


 もちろん優介は、その能力を悪用しようなどとは全く考えていない。しかしそれでも、罪を犯しているという意識だけは、どう折り合いをつけようとしても完全に払拭することはできなかった。


 今回の調査は、能力を使用せずにやり遂げられるものではないことは明らかだったが、それでも優介には迷いが生じる場面があった。


 それは、鈴木警部に小倉のことを本当に報告してもいいのかということであった。


 何を今更と、普通ならそう割り切ってしまえばいいのかもしれない。小倉が強盗殺人を犯したことは事実であり、そうした犯罪を見過ごす理由など無いのだから。


 だが、鈴木に報告してしまえば、小倉の顔が以前とは全く違っていたとしても、鈴木にはきっと分かるだろう。そうなれば、小倉と和田の今の生活はほぼ間違い無く全てぶち壊されることになる。これまで互いに支え合って築き上げてきた彼らのささやかな生活が、幸せが、一瞬で消えて無くなるのである。


 こういう場面で優介は必ず自問する。いくら仕事とはいえ、こんな得体の知れない力を使って他人の人生に勝手に介入し、その未来を変えて良いのか? そんな権利が自分にあるのかと。

 しかし、そうして思い惑った後に辿り着く答えは、いつも同じだった。


(そんな権利などない……あって良いはずがない。とどのつまり、俺はただ罪を重ねているだけ。決して罰が下されることのない、だから決して償うことのできない、そういうタチの悪い罪を重ねているだけだ)


 能力を使って仕事をする度に、優介はこうした自責と後悔を繰り返してきたのである。


 朝食を終えた優介と静子は、探偵事務所の始業の準備に取りかかった。


 優介たちが構える事務所は、六階建の小さな雑居ビルの最上階にあって、住居も兼ねていた。玄関ドアの近くの二つの部屋を探偵事務所として使用し、奥の方にある部屋を住居としていた。


 優介は、静子と二人で暮らしており、他に家族はいない。優介の両親は、優介がまだ幼いときに、優介を父方の祖父母である真一郎と静子のもとに残したまま忽然と姿を消し、そのまま行方不明となっていた。


 その探偵事務所は元々、祖父の真一郎が刑事を退職した後に静子と二人で始めたものであった。


 大学を卒業した優介は、真一郎のもとでアシスタントとして働きながら探偵のノウハウを学んだ。しかし三年前に真一郎が突然の病で倒れたため、優介がその後を継いだのである。


 優介と静子はそれぞれの服を着替えて事務所の方に移動した。


 二人は、事務所の入り口のドアの鍵をあけて中に入ると、まず初めに事務所内の掃除を行う。掃除を終えると、静子が自分の机の引き出しからスケジュール帳を出してきて、その日の仕事について優介と打ち合わせを行う。


「えーっと、優ちゃん、今日はね……三日前に依頼のあった田中さんの調査のつづきをお願いね」


「おばあちゃん、その前に昨日の件の調査内容の整理をしておきたいんだけど」


「どれくらいかかりそうだい?」


「うーん、だいたい二時間ぐらいかな」


「そうかい。じゃ、田中さんの件はそれが終わってからでいいよ」


「ありがとう」


 優介は、能力を使って入手した情報を記録して残すようにしていた。全ての情報をできる限り正確に記録するため、それなりの時間と手間とを要する作業となるが、それでも優介は、それを当然の義務としていて、必ず行うようにしていた。


(忘れちゃいけないんだ。絶対に……)


 引き出した情報の全てを、決して忘却することなく死ぬまで守り続けること。それが自分に課せられているせめてもの責任なのだと、優介は思っていた。


(いつか俺にも、何らかの裁きが下される日がきっと来る。これらの記録はそのときのための証拠だ。逃げずに全てを受け入れなくてはならない、そういう状況に自分を追い込むための)

 優介は机の上のノートパソコンの電源を入れた。


「ああ、そうだ優ちゃん、今日の二時ごろにまた新しいお客さんがお見えになるからね」

「二時にお客さんね。了解!」


 優介は、小倉と和田から引き出した情報をパソコンに打ち込み始めた。全てを打ち終えたときは午前十時を少しまわっていた。


「これでよしっと、おばあちゃん、これから田中さんの調査に出かけてきます」


「そうかい。気をつけて行っておいで。さっきも言ったけど、二時にお客さんがお見えになるから、それまでに一旦戻ってきてちょうだい」


「はい、じゃあ行ってきます」


 そのとき、静子の机の電話が鳴った。その着信音から、その電話は事務所に来たものではなく、自宅の電話にかかってきたものが事務所に転送されてきたものだった。


 静子が受話器を取り「もしもし、速見でございますが」と言うと、電話の主は「おばあちゃん? オレだけど」と返してきた。


 静子はすぐさま左手を振って優介に合図を送った。


(またか、まったく……)


 その合図は、その電話がいわゆる〈振り込め詐欺〉の電話であることを示していた。


 優介は少しふてくされながら静子から受話器を受け取り、ボイスチェンジャーのボタンを押して、声色を静子の声に似たものに変えて話かけた。


 優介が会話する相手から引き出すことのできる情報には、その相手の記憶の他に、会話をしている相手がその時に見たり、聞いたり、考えたりしている情報も含まれている。この類の情報は検索する必要がないので知ろうと思えばすぐに入手することができる。


 優介が目を閉じると、ビジネスホテルのような部屋の中に数人の男たちが机を囲むように座っており、机の上にたくさんの携帯電話が置いてある映像が見えた。


 4人の男の姿が見えたので、その部屋にいる詐欺師たちの人数は、その電話の相手を含めると全部で五人、年齢は二十代から三十代前半といったところだった。


「もしもし、ちょっと風邪気味で、喉の調子が悪くて聞きづらくてすまないね。それでどちらさんでしたかね?」


「俺だよ、ほら孫の……」


「孫? もしかしてユウタロウかい?」


「そうそう! 孫のユウタロウだよ!」


「おやまあ久しぶりだねえ。この前あったのはいつだったかねえ、みんな元気かね?」


「みんな元気だよ。それよりさ、大変なんだ、助けて欲しいんだよ」


「そんなに慌ててどうしたんだい?」


「あのさ、俺、仕事でミスして会社に損させちゃったんだよ。それで今日中にその損失の埋め合わせをしないと会社をクビになっちゃうんだ。」


「クビ? それは大変だ」


「そうでしょ? だから助けて欲しいんだ」


「そうは言っても、どうすればいいんかね?」


「どうしても今日中に二百万用意しないとだめなんだ」


「二百万円だって?」


「後で必ず返すから、頼む、ばあちゃん、200万円貸してくれ!」


「そんなこと言われても、そんな大金、すぐには用意できないんだよ」


「一生のお願いだ、おばあちゃん!」


「うーん、なんとか会社に許してもらうわけにはいかんのかね?」


「そんなことできるくらいなら相談したりしないよ」


「それなら私から話してあげるよ。山田さん居るだろ? あの人を出しておくれよ」


「え? 何? 誰だって?」


「誰って山田係長だよ、あんたの上司の!」


「じょうし? ああ上司の山田係長ね。係長は今日出張でいないんだ」


「じゃあ田中さんは?」


「田中さん?」


「田中課長だよ。お前が今の会社入るときにすごくお世話になって、家にも一度お見えになって私も挨拶したじゃないか」


「ああ、田中課長ね、田中課長は……ちょっと待ってね」


 その電話の男は少し困っていたようだが、しばらくするとまた別の男がでてきた。


「お電話代わりました。田中ですが」


「課長さんですか? 入社の際は孫の優介が大変お世話になりました」


「いえいえ、とんでもない。それよりユウタロウ君のことなんですがね」


「この度はユウタロウがとんだご迷惑をかけてしまったようで」


「そのことですが、我々としてもできるだけ穏便に済ませたいのです。もしユウタロウ君が使い込んだお金を今日中に返してもらえれば今回は大目にみましょう」


「許してもらえるということですか?」


「ええ」


「そうですか。ところで部長さんはお元気ですか?」


「は?」


「越野部長ですよ。優介の話では確か先月の人事異動で新しく配属された方だと伺っておりますが」


「ああ越野ですか、越野が何か?」


「ここはやはりきちんと部長さんにもお詫びを言っておかなければと思いましてね。お金を払えばそれで済む問題ではないと思いますので」


「そうですか、それでは少しお待ちください」


 またしばらくすると別の男が電話に出た。


「お待たせしました。越野です」


 優介はこんな具合に、架空の人物と適当な理由をつけて、詐欺グループのメンバーと次々会話を交わしていった。そして、勿論あの能力を使って各人の名前、生年月日、住所、電話番号、犯行歴、グループの事、犯行計画などを引き出してメモした。


 電話の相手の孫や息子等になりすますために、詐欺師たちは基本的に孫や息子等に関する情報を欲しがっている。そのため、情報を提供すればするほど会話に乗ってきて、うまくすればその場にいるメンバー全員と会話をして、より多くの情報を入手することができる。


 今回は、最後に会社の顧問弁護士と名乗る男がでて、何のことかよく分からない法律のことをごちゃごちゃと話していたが、情報を引き出した後、適当に相づちを打って受話器を置いた。


「終わったよ、おばあちゃん」

 速見はそう言って静子にメモを手渡した。


「お疲れ、これを打ち直してまた警察に送っておくからね」


 これまでも静子は、自分にかかってきた振り込み詐欺の電話を優介に代わってもらい、優介が彼らから引き出した情報を愛用のタイプライターで打ち直し、それを匿名の手紙にして警察に送っていた。


 実は、大淀署の刑事が昨日逮捕した振り込み詐欺グループに関する情報もまた、優介が引き出してくれた情報を、静子がタイプして送ったものであった。


「おばあちゃん、これさ、結構疲れるんだよね。しかも一円にもならないし。もうこれで最後にしてくれないかな?」


「何言ってるの! あなた、自分の力をお金儲けのために使うつもり?」


「別にそういうわけじゃないけどさ」


「じゃあ、いいじゃない」


「だけどこんなしんどい思いをしても、何の得にもならないじゃないか」


「そうね。でも、詐欺師たちが捕まれば、詐欺の被害に会うお年寄りを少しでも減らすことができるわ」


「それはそうだけど……」


「せっかく神様があなたに与えてくれた力じゃない。それを世の中のために使わないでどうするの?」


「あーもう、分かった、分かりました」


「いいえ、優ちゃん、あんた全然分かってないわ。いいかい、人にはそれぞれ天職といって神様から与えられた仕事があるのよ」


「また始まった」


「またとはなんですか、またとは!」


「もういいよ、とにかくきちんと天職を見つけて、それを真摯に行うことが大事だって言いたいんだろ?」


「そのとおり」


「じゃあ聞くけどさ、人の頭の中を盗み見ることが僕の天職だっていうのかい?」


「そういうことを言ってるんじゃないわよ。そうじゃなくて、その力の正しい使い方を自分でもっと積極的に見つけていきなさいって言ってるのよ!」


「なぜさ?」


「それがあなたの責任、いいえ、使命だからよ」


 優介はときどきこんなふうに静子にたしなめられることがあり、優介にとってはそれがたまらなく嫌だった。


 使命だの責任だの優介にとってははっきり言ってどうでもいいことだった。そんなものを背負わずに済むのなら、こんな能力などどこかに捨ててもいいとさえ思っていた。


「でもやっぱり、この力を積極的に使っていこうなんて、僕は絶対に思わないから!」


「まったく強情だねえ、困ったもんだよ」

 呆れ顔の静子を他所に、優介は調査に向かう準備を始めた。

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