さよなら風たちの日々 第11章ー9 (連載40)
狩野晃翔《かのうこうしょう》
第40話
【17】
ぼくは鳥の『刷り込み』あるいは『プリンティング』と呼ばれる習性を考えていた。鳥はヒナで生まれてくるとき、初めて目にした動くものを母親だと思い込むらしい。それはヒナが生きていくための、けなげな本能といわれている。
「ヒロミ。おれは今、生まれたばかりのヒナの、刷り込みっていう習性を連想したよ。だって高校に入ったとき、一番最初に出会ったビートルズに似た男を好きになって、今度は一番最初にプロポーズした男と結婚するなんて、哀しいよ。哀しすぎるよ。だってそこに、ヒロミの主体性なんて、どこにもないじゃないか」
ぼくの口調は哀願調になった。それを言葉にしてぼくは、初めてヒロミにこんな話し方をしている自分に気づいた。
「いつ、結婚するんだ」
そう問い詰めようとする言葉にヒロミは、ぼくを見つめたまま首を左右に振り続ける。
どういうことなんだろう。ぼくはヒロミのその仕草の意味が分からず、困惑した。見ているとヒロミは今度は、両手で顔を隠した。そしてうつむいたヒロミは、目だけを出したもの、鼻と口は両手で隠し続けた。ヒロミはしばらくそうしたあと、ようやく決心したかのようにぼくに視線を戻し、それからの出来事を話し始めるのだった。
「去年の十月、結婚を前提にアパートを借りて、あの人一緒に暮らし始めました」「でも結婚式と入籍は、わたしが二十歳になるまで待つ、といことになっていました」
ヒロミは言葉を探していた。どう言えば理解してもらえるか、どう言えば分かってもらえるか、その言葉を模索していた。
そしてヒロミは寂しそうに、ぼくに問いかけた。
「ねえ、ポール。運命って、ほんとうに残酷ですよね。そう思いませんか」
ポツンと言ったその言葉の意味を、ぼくはまた理解できずにいた。そしてぼくは彼女の次の言葉を待った。
「ポールがこの店に来た日のこと、覚えてますか」
ぼくがうなずくと、ヒロミが言った。
「その人と結納を交わしたのは、ポールがここに来た、その前の日だったんです」
【18】
この運命の皮肉は何だ。偶然の残酷さは何だ。ぼくは目の前のテーブルを叩き壊したい衝動に駆られ、手が震えていた。
また沈黙があった。とてつのなく長く感じられる沈黙があった。ぼくの思考はその間、停止したままだった。どんな考えも、どんな言葉も、そのときのぼくの頭の中には何ひとつ浮かんでは来なかった。
ヒロミは再び顔を両手で覆い、身動きしようともしない。ぼくも言葉を失ったまま、黙り込んでいた。すべての思考回路がフリーズしてしまったのだ。
神は人を救うだろうか。導くだろうか。手を差し伸べるだろうか。
いや、違う。神はときには人に試練を与えたり、天罰を下したり、ときには命さえ奪うことだってあるのだ。そう。これは試練。天罰。残酷な刑罰。そしてそれはヒロミを泣かし続けたぼくに対する、当然の報い。
もしもこのポールという名の喫茶店に、ぼくがもう少し早く気づいていれば。あるいは一生、気づいていなければ。そんな思いを浮かべながら、ぼくは震える声でヒロミに訊ねた。
「ヒロミはいつ、二十歳になるんだっけ」
ヒロミは悲しそうな目をしてつぶやく。
「わたしは四月生まれなので、もう二十歳になりました」
そしてうつむきながら、
「来月、式を挙げることになっています」。
衝撃だった。その言葉にぼくは絶叫した。
「やめろよ。それだけはやめてくれよ。頼むから、あいつと結婚するのだけは、やめてくれよ」
ぼくの大きな声と、テーブルを叩く音だけが店内に空しく響いた。
結婚とは、ただひと組の男女が結ばれる、それだけではない。その男女の家族、親族、友人、知人 仕事関係、その他もろもろの人々があらゆる側面で関与する、一大儀式なのだ。
ヒロミを乗せた列車は今、そのレールの上を結婚という駅に向かって走っている。ヒロミを乗せた列車は途中、ぼくという名前の駅があった。今思えばその駅はヒロミの列車が通過する、ただの各駅停車駅に過ぎなかったのだ。
ヒロミは悲しい目をぼくに向けている。憐れんでいるのだろうか。やりきれない思いで、うちひしがれているのだろうか。
ぼくの悲痛な声に、それでもヒロミは静かに首を振り続けた。
そして「無理です。それって、絶対無理なんです」とだけ短く答えた。
何が無理なんだろう。そう詰め寄るぼくにヒロミは、珍しく声を荒げた。
「だって、わたしのお腹の中に、あの人の赤ちゃんがいるんですよ」
「赤ちゃん」
ぼくはオウム返しにその繰り返したあと、絶句した。そして脳裏に、ヒロミとあの男の姿が浮かんだ。ふたりがベッドの中で、愛し合っている姿だ。
赤ちゃんだと。あいつの赤ちゃんだと。
ヒロミはその身体に、あいつの赤ちゃんを宿しているというのか。
絡み合うヒロミとあの男の腕。重なり合うヒロミとあの男の身体。
それを考えたら、胸くそが悪くなった。嫉妬の炎で、胸が張り裂けそうになった。はらわたが、煮えくりかえりそうになった。そうして歯ぎしりしながら、ぼくは悔やんだ。握りこぶしに力を込めて、ぼくは心の中で叫んだ。
ちくしょう。おれはヒロミと、キスさえしたことがないっていうのに。
《この物語 続きます》
さよなら風たちの日々 第11章ー9 (連載40) 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7
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