第3話 花束、バスタブ、アブサン

 社交季節セエゾンの始まるほんの一週間ばかり前のことだった。欲しがった画廊ギャルリを兄にとられ、賭博場カジノを受け継いだあるじは拗ねて、趣味のために残しておいた絵筆をすべて火にくべ、出来のよくない額をみな叩き割ってしまった。それでもいくらかの作品は残しておいて埃臭い空き部屋へ抛り込んでおけというのだから、未練がましいことだとオリーは思う。

 元々凶暴な気質のルイスは、大人になればあの癇癪玉も落ち着くかと思われていたが、その気配は未だなく、オリーは折られた角を鏡で見るたびに未来を考えて暗澹たる気持ちになった。

 中庭のあたりから、呼び声がする。知った声だが、この家のものではない。客人がなにか用事を言いつけたいのだろうか、と空き部屋の並ぶ区画から顔を出せば、恐らくは客間で待たされていたはずの人物が、我が物顔で中庭を囲む回廊のあたりを歩き回っているのが見えた。

 あるじの兄、ロビン・スタンレー・ホーの悪友──ジョシュア・ノートンの肩に、回廊を斜めに横ぎる陽光が掠めて、奔放な毛先が赧く燃えていた。

「……ノートン様、如何なさいました」

 彼は、オリーに気がつくと、巨大な怪物メドウサの頭のような、巨大な緑の花束を持っていないほうの片手を挙げた。

「おう」

 オリーも深々頭を下げて迎えたが、相手は礼儀作法などどこ吹く風でもはや使用人のことなど見ていない。だらしないほどに開けた黒絹のシャツの胸元に、銀が光った。

 カルティエのモレキュール・ダドレナリン…図録でだけ目にしたことがある。奇抜な銀色の分子配列構造──大胆な女の頸を彩るための首飾りをつけ、不躾にもジャケットの隠しから細い煙草シガーを取り出した。オリーが火と灰皿を持ってこようとすると、「あーいいよ、携帯灰皿あるから」とジッポで火をつける様子は不良少年だ。

「失礼いたしました。……本日はどのようなご用件で」

「ああ、うん。……休暇前によォ──放蕩もののクラブでさ、パアティをして、そんでもってロビンに迷惑を掛けたのよ。そりゃあいつも掛けているけど、今回は、あいつの気に入りのスウェータァの毛足をだめに──ああとにかく、お詫びってのをな……」

 煙草を吸う合間に、気もそぞろな風で話していたノートンは、はっと気づいたように目線をあげてオリーの肩越しに遠くを見やった。

「ロビン」

 血のような赤毛が、馬の尻尾のように揺れた。

 回廊の反対側から歩いてきたあるじの兄は、柔和そうな目で「来ると思っていたよ、ジョシュア」と、少年のように駆け寄ってきた友人に声をかけた。ノートンは酒場にたむろする若者のように、馴れ馴れしく肩を組み、そのまま躁状態のように喋りつづける──

「こないだは悪かったな。今度XXXへ行こうぜ、お前のスウェータァを新調して、ついでに靴も買おう。ついでだ、コレクションも観に行くか? どっちみちこの花が萎れる前に、の約束だがな」

「月半ばなら空いているから構わないよ──お前のその、何かやらかしたら花を贈ればいいっていう発想はよくわからないんだけれどもね」

「ウチの伝統なんだよ。いいだろォ? この松の枝振り」

 言われて、オリーも含めたその場の視線が花束に注がれる。棕櫚、アリウム、銀葉樹リューカデンドロン、プロテア……とにかく緑の、たくさんの色調の階層がオクターヴに折り重なり、黄緑のピンポンマムとナツユキカズラ、松がシルエットに変化をつけていた。

 その、人の頭より大きな花束を、戦利品の首のようにぶるりと振り、それを眉尻を下げて受け取ったロビンが次にした行動を見て、急にノートンのおもてから表情が消える。冷めた口調で「ロビン、お前は優しさで余計なことをするわりに鈍いから、するべきことはしないね」と、脈絡のないことを低く呟いた。

 たまたま傍らにいた、という理由だけで微笑みながらオリーに「これを活けておいてくれるかな」と花を渡したロビンは、ただその目を細めて、友人にたいして──オリーにたいしても、何も言わなかった。




 夜半のまばらな水音。

 花の萎れぬうちに、という約束をした翌々日には、もうジョシュア・ノートンはロビンをあちこちへ連れ回して夜更けにやっと己れの屋敷で彼に靴を脱ぐことを許した──北向の"人魚の寝室"の周りは静まり返って、室内に響く水の音が平素よりもずっと大きく聞こえた。

「決して親兄弟と同じ道を選ぶな、っていうのがウチの家訓で、実際、兄貴たちまではずっとそうしてきたんだな。製鉄、食品加工、広告、造船、芸能、IT、服飾──まあまあ、ノートン一族の家系図はその裾が広がるたびに、その枝の数だけ新しいことに手を出してきたわけだ。そりゃもうエピソードには枚挙に暇が無ェ──しかしここで問題が発生した」

 まるで噴水のように、言葉は夜に溢れてくる。ノートンの語り口というのは、ロビンが出会った頃からそうだが、実に独り語りに向いた抑揚と適度な声のなめらかさとざらつきの質感を持っていて、遮るのをつい忘れてしまうのだった。

「その問題の種ってのは、もう子供はできるまいと思っていたらウッカリできちまった末子の俺だ。実のところ、もう何もかも、兄貴や両親や祖父母やら──遡って系譜を伝ってみると、おおよそのことをやり尽くしてるんだよ。俺に残された道ってのは、ヂレッタントくらいしかないわけだな」

「………それが、お前のこの放蕩の理由かい?」

「いや、単なる言い訳さね。別に本当にやりたけりゃ製鉄だろうが芸術だろうがやればいい。家訓なんて今どきそう命懸けて守るもんでもないわな……」

 吐息混じりの声の響きに呼応するように、燃える銅のような緑の酒に、一滴ずつ溶けた角砂糖が混ざり、靄のように白濁していく。四月の霧エイプリル・ミストという色の名前があった気がする、と思いながら、ロビンは体を起こして、猫脚のバスタブから上半身を出した。ノートンの酔狂で、この屋敷の"人魚の寝室"にはベッドがない。あるのは真珠の泡と珊瑚の猫脚に飾り立てられた大きなバスタブと、波を模した幾重ものシーツ、貝殻の形のクッション。テーブルはなく、大理石のタイルが太陽の形に敷かれ、その上に置かれたアブサンの瓶が汗をかいていた。

「……俺はおまえに、なにかをやらせてみたいと思うがな。おまえの兄さんのように、経済の世界で」

 掠れた語尾に、ノートンは片方の眉をあげて、足元の香水瓶の形の水差しから檸檬水を注いだ。渡されたぬるい果実の香で、ロビンが喉を湿らせるのを黙って見ていたノートンは、「厭だね」とロビンが洋杯コップを床に置くのを待って返した。

「俺のほうが優れているから」

「……おまえの兄より?」

「誰よりさ」

 ノートンは、長く続いた熱が下がった翌朝のような、気だるいながら清々しい様子で、首筋や背に張りついていた赤毛をかきあげる。ローブを羽織ると、煙草を咥えてバスタブの縁に腰かけた。

「俺は千里眼だ。とはいっても本当に千里先が見えるわけでも、未来が視えるわけでもない。でも解るのさ、いろんなことがね──信じないやつのほうが多いから、大抵は黙っているが」

 ロビンは表情ひとつ変えずに聴いていた。もともとノートンのそういう性質は知っていて、時おり悪戯ふざけた風で、知人の近く露になる醜聞や、世間の風向きを言い当てることを、不思議とも思ってはいなかった。

「誰がこの組織を牛耳っているのか、なにかを企んでいる奴がいるとしたら誰なのか、この相手への投資がうまくいくのか、いったい黒幕が誰なのか……とにかく、どんな相手のどんな秘密でも、会えば解るのさ。事実を伴った本性とも呼べるものが、何とはなしにね。神さまが眠っているあいだに舌にでも書いてくれているのかもしれないが」

「はは、天才の言い分だね。数学者になったらどうだい」

「あいにく数学そいつの秘密は範疇外らしいんだな。惜しいぜ」

 肩を竦め、立ち上がったノートンはローブの腰紐を軽く結んだ。タイルの上に広がっている濡れた服を足でどけて、壁に掛けられた新しいバスローブを、まだバスタブのなかで天井を見ているロビンのほうへ投げる。

「何もかも見透す奴がそこにいるっていうのは、どうしたって具合が悪い。もし表舞台でそんなことをしたら、すぐに俺は撃たれるか刺されるかするだろう」

「……それはそうだね」

 ロビンが受け取ったローブに袖を通す仕草を、ノートンは目を眇めて見ていたが、やがて頃合いになっているだろうアブサンのファウンテンの傍らに屈み込んだ。

 カクテルのような瞳に煙草の火が映り、その火が照らすアブサンの揺蕩う濁りが映る。万華鏡になったノートンの瞳に、霧がかったような奇妙な色合いが射し込んでくる。光の加減だろうか、と体を起こしたロビンを制するように、ノートンは彼の肩に手を置き、今まさにすべてが溶け落ちる角砂糖の膜越しに緑の酒を睨んだ。白濁したアブサンの水面が、小さく渦を巻いている。

 彼は食い入るように、悪魔の酒を覗きこみ、古い吟遊詩人が低く謡うように囁いた。

「ロビン。俺の親愛なる友人。

 聖なる夜には気をつけることだ──おまえの周りには常に殺人者がいる。そしてそれは近いうちに引き金を引こうとしている。それをさせないことだ。悲劇は、ひとたび蝶が羽ばたけば雪崩のように連鎖する──黒い手袋をした手に気をつけろ。それは殺人者の手だ」

 瞳孔の開いた目、横顔からは首筋まで血の気が失せていた。

「……手袋なら俺もする。さて、いったい誰を疑えばいいのか」

「おまえ、俺が市中の占い師みたいな曖昧な物言いで誤魔化そうとしてるとでも思うのか。黒い手袋が視えた・・・んだ。つまり、俺が見た手袋をしている奴は皆──未来のうちどこかで、殺人者になるかもしれない」

 ロビンは黙り、自分の掌に視線を落とした。窪みに水が溜まり、それは肌の温度にぬるんでいる。冷水を抱いていればいつかはぬるむように、ロビンは人の心の変化を信じたがる性質たちだった。自分を射るような眼で睨む弟のことを、その弟に虐げられる使用人のことを、いつかは善いほうへ向かわせることができるのではないかと考えていた。本当は知っている、人の心はそれほど愛だけでは満ちていないことに。そんなロビンのロマンチックな葛藤を知っているノートンが、この晩飲み込んでしまった最後の一言が、結局は綻びとなって彼らの運命の決壊を招くのだったが──

 千里眼のジョシュア・ノートンが視た、手袋のあるじ・・・について、このときロビン・スタンレー・ホーに警告するとしたら、彼はこう言うべきであった。

「おまえが、最も信じたい人間を疑うことだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

GAMBLE しおり @bookmark0710

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る