エピローグ

第49話 セーヌ河の上で


 「ダヴー!」

懐かしい声が呼んだ。


 パリのリール通り、コンティ通りとの角。くすんだ街並みを背景に、その人は、立っていた。


「よく来たな、ダヴー」


 3月22日。春爛漫のパリ。

 ドゼ将軍の宿泊しているホテル近くまで呼び出された。ボナパルト将軍に紹介してくれるという。



 彼が、ライン河畔を離れてから4ヶ月が経っていた。長い時間だった。俺にとっては、焦りと憧れと、苛立ちの日々だった。

 だが、これだけの時間がかかったわけなんて、わかりきってる。アンベール将軍俺の上官への配慮と、それから、ボナパルト将軍への推薦だ。

 アンベール将軍は、西インド諸島へ配属になった。もう、気兼ねは要らない。そして、対イギリス軍は、動き始めた。忙しいボナパルト将軍を捕まえて俺の実績を吹聴し、ようやく、引き会わせる段取りがついた、といわけだ。

 ドゼ将軍は、俺の為に、辛抱強く、気遣いと根回しを続けてくれていた……。



 「風呂に入って来たか?」

唐突に、彼は尋ねた。


「ううう」

低く、俺は唸る。

「ゆうべは、時間を無駄にしました。久しぶりでお湯に浸かったら、疲れ果てちまって、早くから、寝落ちてしまいました」


「うむ、ちゃんと、体を洗ってきたようだな」

 くんくんと鼻を鳴らしながら、俺の周りを一周して、ドゼ将軍が頷いた。

「仕方ないだろ。ボナパルト将軍は、おしゃれで、きれい好きなんだから」

「うーーーー」



 橋に差し掛かった。下を流れるのは、セーヌ河だ。随分ちっちゃな、こちゃこちゃした河だ。橋だって、いくつも架けられている。この川は、ライン河ではない。


 「新設されたイギリス軍は、目くらましだ。ボナパルト将軍が考えているのは、もっと大きく、途方もないことだ」


 ドゼ将軍が語り始めた。

 橋の上の人通りは、途絶えていた。聞き耳を立てている者は誰もいない。

 立ち止まり、川の流れを見つめながら、続けた。


「陸路からの征服ばかりを考えるから、行き詰まるんだ。海路でイタリア、ギリシャ、さらに、トルコまで移動できたら、時間が大幅に短縮できると思わないか? おまけに、人や物資の大量輸送が可能だ」


「海路での輸送? ですか?」

全く初耳だった。俺は面食らった。


「うん。今は和平が続いているが、オーストリアだって、いつまでおとなしくしているか、わからない。再び戦争となった時、バルカン半島に、船で兵士を運ぶことができたら?」


 ドゼ将軍は言葉を切った。

 うきうきとした口調で続けた。


「ライン方面と、それから、トルコ方面から、オーストリアを挟み撃ちできる」


「トゥーロンやマルセイユ(共に南フランス)から出航して、地中海を移動するわけですね」

俺は唸った。

「しかし、イギリスが……」


 地中海の西の入り口、スペインの突端、ジブラルタルは、イギリスの支配下だ。そして、フランスの南海岸は、常に、彼らの監視下にある。


 ドゼ将軍が、立ち止まった。

「だが、もし、エジプトと友好を結べたら? エジプトからなら、バルカン半島、いや、オリエントだって、すぐそこだ」


「エジプト!」

唐突に、俺は、読めた。

「ボナパルト将軍の狙いは、エジプトですか!」


「しっ!」

ドゼ将軍は、唇に指を宛てた。その瞳は、きらきらと輝いていた。

「これはまだ、絶対秘密だ。イギリスのやつらには、彼の狙いは、英国本土、あるいは、イタリア半島にあると思わせなければならない。君だから、教えた。他言は無用だ」


「しかし、エジプトとは……」


「そんなに突飛なことか?」

ドゼ将軍は笑った。鮮やかな笑顔だ。

「古代の英雄、アレクサンダー大王も、エジプトを征服したじゃないか」


「……」

 俺は、しげしげと、ドゼ将軍を眺めた。

 長年の憧れの上官を。


 暫く会わなかった彼は、少し、ふっくらしたようだ。戦場にあった時とは違い、なんだか、幸せそうなオーラに包まれていた。


「俺の夢は、海軍将校だったんだ。海軍へ入るには、学校の成績がちょっと、足りなかったけど。今、その夢が叶おうとしているんだよ!」

「はあ」


「君を、巻き込んでしまったかな?」

俄かに、不安そうになった。俺の煮え切らない態度に気がついたのだ。


「今からでも間に合う。ボナパルト将軍の遠征に参加することを、君は、断ることだってできる。実のところ、エジプト遠征軍の装備には、不安がある。それは、確かだ」


「何言ってんですか!」

俺は憤った。

「あなたが行くなら、俺も行くに決まってます。ずっとそう言ってるでしょう!」


「うん。君ならそう言ってくれると思った」

 嬉しそうな、楽しそうな、その笑顔。


 彼が、旅好きなのは、知っていた。戦争の合間に、あちこち、見て回っている。この人は本当に、未知の土地を探検することが、好きなのだ。



 「ダヴー。君には、決まった女性はいるのか?」

唐突に、ドゼ将軍が尋ねた。

「はい?」


「エジプト遠征は長引く。妻や愛人を同行する者もいるそうだ。ただし、こっそりとだが」

「けっ! 女なんか!」


 思わず俺は吐き捨てた。ドゼ将軍が、慈愛深げな眼差しになった。


「君が、離婚したことは知っている。奥さんとは、1週間ほど一緒にいただけだったと聞いた。気の毒だったな、ダヴー」

「ううう、あなたにだけは、同情されたくない……」



「ひとつ、聞きたいのだが」

俄かに真剣な口調になった。顔を近づけ、尋ねた。

「君、結婚式には、いくらかけた?」


「はい?」

「だから、結婚というものに、いくらかかったのか、知りたいんだ」


 ひょっとして、ドゼ将軍、結婚を考えているとか? 彼は、今年、30歳になる大台だ。結婚。諦めてたわけじゃないのね。


「知りませんよ。母と妹が、全て手配してくれましたから。おおはしゃぎで」

 不幸に終わった、俺の結婚。母と妹には、悪いことをした……。


「ルイ金貨32枚くらいか?」

「え?」

「だから、結婚式の費用」

「知りません、ったら!」


 だが、ドゼ将軍は、しつこかった。

「仕方ないな。それじゃ、ルイ金貨32枚と仮定して、だな」

 いやに、32ルイにこだわる。


「一週間は、7晩あるから、合計14回で計算する」

「何の話です?」

「いや、一回、いくらかかったのかと思ってな」

「は?」

「君は、結婚から1週間でベルギー方面へ召喚された。戦地から帰ってきて即、離婚したわけだから、以降はノーカウントだ。従って32ルイを14で割ると……」


「63です! 割るのは63だ!」

 強く、俺は申告した。ドゼ将軍が、眉を上げる。呆れ顔だった。

「嘘つくな! 一晩9回じゃないか」

「嘘じゃありません! これでも謙遜したんですよ! 本当は、70回と言いたいところを、あえて、63と!」


 俺は喚いた。ドゼ将軍は平然として、顎を撫でまわした。

「いずれにしろ、俺の方が断然、多い筈だ。君と違って、一週間ってわけじゃないからな。2年は続いたと思うぞ、確か。ルイ金貨32枚は、妥当な金額だと言える」


 俺はピンときた。

 さては、愛人と別れたのだな。あの、ルイーゼ・モンフォールという。

 ボナパルトの下とはいえ、今や、ドゼ将軍は、上昇気流にある。その彼を、女性の方から手放すとは考えられない。

 ドゼ将軍から、別れを切り出したのだ。


 だが、なぜ?

 考えられるのは、ひとつしかない。

 彼女の浮気が発覚したのだ! 彼が、ドイツへ遠征に行っている時、あるいは、ケール、ディアースハイムと、命がけで戦っていた時、とにかく彼が、長期で留守をしている間に、裏切られたのだ。

 軍人の宿命であろう。全く、忌むべきことだ。だが、俺の経験からして、これはもう、絶対、間違いない!

 

 32ルイは、手切れ金だ。

 そう考えると、パリ行きの費用さえ、ままならなかったのも、納得できる。イタリアでの任務で使い果たした、というのは、嘘だ。気の毒に、ドゼ将軍、有り金の殆どを、去っていく愛人に、むしり取られたに違いない。



 





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