第44話 野心



 だが、ドゼ将軍が、ドイツ軍右翼旧ライン軍の指揮官でいたのは、わずかな期間だった。


 ドゼ将軍がライン軍に合流した、6日後。

 イギリス軍(対英軍)が創設された。


 イギリス……。

 オーストリアがフランスと講和を結び、戦線を離脱した今、ただ一国、海の向こうからこちらを睨んでいる、無法者だ。


 イギリス軍の総司令官は、ボナパルト将軍。イタリアの勝者だ。

 そして、暫定第二指揮官として、ドゼ将軍が指名された。







 「行くのかよ、ドゼ」

訪ねてきたサン=シルは、露骨に不機嫌だった。

右翼旧ライン軍の指揮権は、君に譲った。あとは頼むぞ、サン=シル」


「後は頼む、じゃねえよ」

どすんと椅子に腰を下ろした。

「お前、ライン軍を見捨てるのか?」


「何を言う。この河の畔で、俺が、どれだけ、血を流してきたと思ってるんだ?」


「だって、お前は、ボナパルトを選んだんだろ? 彼が、お前を指名したんだ。それは、お前が、イタリアへ、彼に会いに行ったからだ」


 深いため息を、ドゼはついた。

「言ったろう。ボナパルトは、輝くようにできている、って。その輝きは、彼の部下まで、栄光の光で、明るく照らし出す」


「意外だったよ。お前が、栄光を求めるなんて」

サン=シルの声は、苦々し気だった。

「清廉で高潔なお前が。お前は、栄光なんて、そんなものには、まるで興味がないと思っていた」


「サン=シル」

 古くからの友人の名を、ドゼは呼んだ。

「俺を駆り立てるのは、野心、最大限の危険に身をさらす野心だ。新しい栄光を手に入れる為に、すでにある栄光を危険にさらすのも、野心ゆえだ」※


「野心? 金か? 充分な富が欲しいのか。兄弟が亡命して、お前の家は、財産を失ったものな」

冷たい声だった。サン=シルは、ロレーヌ地方の、皮なめし職人の息子だった。


「違う」

静かにドゼは、首を横に振った。

「今ある以上の財産は、欲しくない。財を求めないことこそが、俺の名誉だと思ってる。もちろん、今あるものを失うわけにはいかんが」※

一息に言ってから、ドゼは続けた。

「人は、充分な富を持つことはできる。だが、充分な名声というものは、決して、手に入れることは、できないものだ」※


「悪かった」

古くからの戦友は、項垂れた。

「お前の野心が、富や財産とは結び付いていないなんてことは、最初からわかってる。ただ、見ていて、危なっかしくてな」

「危なっかしい?」


 思ってもみない言葉を聞いたとでも言う風に、ドゼが首を傾げる。

 サン=シルは頷いた。


「俺は思うんだ。お前が求める、栄光や名声というものは……、なんというか……、うまく言えないけど……」

言い澱み、続けた。

「俺はな。お前が、自分の命で、栄光を贖おうとしているような気がしてならない。なあ。お前は、死んだっていいと思ってるだろ。お前の言う、『栄光』とやらを、手に入れる為なら」


「それほどのことじゃないよ」

弾かれたように、ドゼは笑い出した。

「そんな大層なことでは、全くない。ただ、俺は、ボナパルト将軍と、友情を結んだ。だから、彼は俺を呼んだ。新しくできた、自分の軍イギリス軍に」


「友情!」

サン=シルは目を剥いた。

「自分を表に出さず、用心深く、なかなか人を信じようとしないお前が? たった数回、会っただけの人間に、友情? お前、俺と親しくなるまでに、いったいどんだけかかったか、覚えているか?」



 元貴族の中には、士官学校から続く縁を大切にしている者が多い。しかし、ドゼには、そうした「友人」は、殆どいなかった。もちろん、戦友はたくさんいる。熱烈に彼を信奉している将校だっている。


 けれど。

 彼が本当に心を赦しているのは、自分と、レイニエくらいのものではないかと、サン=シルは疑っていた。


 それは、サン=シル自身も同じだったからだ。彼にとって、ドゼは、大切な戦友だった。ドゼがいるからこそ、彼は、負けを意識せずに、戦うことができた。



 朗らかに、ドゼは笑い出した。

「見限ってくれるなよ。俺だって、やろうと思えば、できる。気さくな人間にだって、

 真顔になった。

「ボナパルトは、偉大なことをなす人間だ。俺は、彼の元で、栄光を手に入れる」


 サン=シルは絶句した。

「そんなにしてまで、お前は……」




 「ボナパルトはダメだ」

ガラガラ声が割り込んだ。


「オージュロー司令官」

慌てて起立しようとする二人を、オージュローは手で制した。


「お前は俺を、冷たい人間だと思ったようだがな、ドゼ」

 執念深く、カルノー総裁へ宛てたクラーク派遣議員の報告書を蒸し返す。

「ボナパルトは、俺なんかメじゃないほど、冷酷だぞ。やつの勝利は、部下の血で贖われている」


「部下の、血?」

ドゼが鸚鵡返す。オージュローは頷いた。

「奴についていった、兵士どもの血だ。ドゼ。それに、サン=シル。お前らライン軍指揮官は、配下の兵士を死なせないように、戦いを導いてきたと聞かされた。他でもない、ライン軍の兵卒どもにな」



 さようならアデュー(Adieu)

 じゃなくて、

 またなオーヴォワール(Au revoir)。

 兵士たちは、死を覚悟せずに、戦場へ赴くことができる……。



 無言で、ドゼとサン=シルは頷いた。作戦の遂行はもちろん大切だ。だが、一人でも多くの兵士を温存し、その血を流させないことを、ライン軍将校は、常に心掛けてきた。



「ボナパルトは違う。あいつは、自分の作戦を成功させる為なら、なんだってやる。兵士たちがどれだけ死んだって、構やしない。なぜって、やつは、兵士を、取り換え可能な部品だと考えているから」


「……」

「……」


 ドゼとサン=シルは絶句した。あり得ないことだからだ。

 だって、兵士は、共に戦う仲間ではないか。それ以前に、平等なフランスの市民だ。自分が指揮を執る以上、彼らの命を最大限守ろうとすることは、当たり前の責務といえた。



「アルプス越えで疲弊している歩兵どもを、電光石火のごとく戦闘に巻き込むことなど、普通は、考えない」


 イタリア軍の成功は、素早いその移動、立ち回りに起因していた。

 しかし、兵士たちを疲れさせ、病気や怪我の元となったこともまた、事実だ。


「兵士だけじゃない。麾下の将校達もまた、ボナパルトにとっては、単なる楯だ。自分の身を護るための、弾除けに過ぎない」(*1)



「……」

「……」

 元ライン軍の将校2人は、顔を見合わせた。にわかには、信じられないことだった。



「なるほど、ボナパルトは、奇襲が得意だ。だがそれは、機を見るのに敏いだけだ。長引く消耗戦や包囲戦を、戦い抜くことはできない。言い換えれば、一瞬で敵を封じ込めることができなければ、それでおしまいだ。あいつは逃げる。兵士共の死骸を、山のように残して。それが、あいつの『栄光』の正体だ」



「けれど、彼は、あなたの上官ではありませんか」

 さすがに、サン=シルが口を挟んだ。

 ドゼは、無言を続けている。


 不意に、オージュローは笑い出した。

「なあ。俺は言ったよな。日和見は大切だって」

 垂れ下がったカーテンに向かって言う。重たいダマスク織のカーテンの下から、泥だらけの長靴が覗いていた。








───・───・───・───・───・


実際のドゼの言葉です。一つ目の※で、私は彼に惹かれました。ので、ダヴーの話ですが、強引に割り込ませさせて頂きました



*1 弾除け

ナポレオンの息子、フランソワは、幼いころ、戦争に参加したがっていました。家庭教師のコリンが、戦争で君は、死ぬかもしれないんだよ、と教えると、兵士がいつも守ってくれるから大丈夫、と答えたといいます。

このシーン、チャットノベルにしてあります

「スウィート・フランツェン」17話「フランソワ皇帝に馬を」

https://novel.daysneo.com/works/episode/baeb79f2bbd9899755ada3376f3fa08c.html






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