第32話 タンタロスの気分
「ねえ! ドゼ将軍のお部屋はこちらかしら? 廊下を真っ直ぐ?」
「新聞で読んだわ。ケールの英雄。お怪我をなさったんですってね。あの、勇敢な将軍は!」
「いいえ、案内はいらないわ。彼と二人っきりになりたいの」
「あら、抜け駆けは許さないわよ!」
「お姉さま、私も一緒に行くぅ」
「素晴らしくハンサムなんでしょ? 高潔で凛々しくて、まるで中世の騎士のような方だと聞いたわ」
「ちょっと! なんでついてくるのよ! あなたの案内は要らないって言ったでしょ! ……なんか、匂うわよ、あなた」
若い女性達が押しかけてきた。ドゼ将軍の病室に、だ。
彼女らに弾かれ、俺は、部屋の隅に追いやられてしまった。
ドゼ将軍は、すっかり、具合が良くなったようだ。少なくとも彼は、そう主張していた。
車輪のついた椅子に乗り、部屋の中を、あちこちを動き回っている。
「きゃあっ! ドゼ将軍! ドゼ将軍よ!」
「ステキ! 新聞に載っていた肖像画と、大分違うけど」
「動いてる! 動くドゼ将軍よ!」
彼の部屋は、連日、見舞客でいっぱいになった。特に、着飾った女性達の。まるで、ストラスブール中の若い女性が押し寄せてきているみたいだ。
「ドゼ将軍、ジャムを作りましたの。手作りですのよ。おひとついかが?」
「ちょっと、クロエ、どきなさいよ。将軍、私のジャムをどうぞ」
「あんずなんて! ジャムはベリーに限りますわ。将軍、私のベリーはいかがです?」
殺風景だった病室は、彼女たちの持ち込む色や香りで、あっというまに、得も言われぬ空間になった。
「ドゼ将軍、お元気になったら、私とゲームをしませんこと?」
「だから、アンリエット、さきがけは許さないって言ったでしょ! ねえ将軍。私と馬車でお出かけしましょう」
「あなたこそ、ポーリーン! 将軍は、私と遊ぶの。ねえ、将軍。歩けるようになったら、迎えに来て下さらない? 両親に紹介しますわ」
「早くおみ足を治して下さいませ。お待ちしてますね」
軍医が訪れ、渋い顔をした。やっとのことで、女性達は、帰っていった。
「いやあ、参った参った」
車椅子にふんぞり返り、ドゼ将軍が、手で顔を仰いでいる。
「俺は今日、50瓶もジャムを食わされた」
言いながら、胸の辺りをさすっている。
「肝臓に悪い。傷の治りが悪くなるぞ」
軍医が警告を発した。
「君はまだ、絶対安静の身だ。ちゃんと休まないと、治るものも治らない。永遠に足を引きずって歩く羽目になったらどうする!」
「本当の所、少し快適。でも、今のこの状態は、タンタロスだ……」
ひとり言のようにつぶやき、ドゼ将軍は、くすくすと笑い出した。
「何を笑ってるんです?」
わけがわからず、部屋の隅から、俺は問いかけた。ドゼ将軍が、驚いた顔をした。
「ダヴーじゃないか。そこにいたのか」
「ずっといました」
「そんな隅っこで、何をしてたんだ?」
「見てました。あなたがにやけているのを」
「だったらわかるだろ?」
タンタロスくらい、俺にだって、わかる。ギリシャ神話だ。なにしろ俺には、じゃぶじゃぶするくらい、教養があるからな。
タンタロスは、不死の体を得ていた。だがある時、神々の怒りを買ってしまう。彼は、水を飲もうにも飲めず、豊富に実る果実を食べたくても、食べられない状況に置かれてしまった。飢えと渇きに苦しむ彼は、不死の体のせいで、死の安らぎに逃げ込むことさえできず、永遠に苦しみ続ける……。
タンタロスの責めとは、欲しい物が目の前にあるのに、手の届かない苦痛を言う。
「だって、あんなにたくさんの女の子達が見舞ってたじゃないですか。ドゼ将軍ってば、ジャムだっていっぱい貰ってたし」
呆れて俺は言った。あのハーレム状態以上の何を、いったいこの将軍は、望もうというのか。
「そうだ。胸焼けしてるなら、余ったジャム、下さい。軍への土産にします」
「ダメだ。あれは、女の子たちが、俺の為に作ってくれたものだ。愛をこめてな。他の男にあげたら、彼女たちに申し訳がない」
変な所で誠意を発揮し、ドゼ将軍は拒絶した。
「全部、俺が食べなくちゃな」
「だから、肝臓を傷めると警告してるんだろ!」
軍医が職務を果たそうとする。
「……で、この状況のどこが、タンタロスなんです?」
重ねて俺が尋ねると、ドゼ将軍は、にやりと笑った。ひどく下品な笑いだった。
「俺は、脚が痛いんだぜ?」
「……」
「……」
俺と軍医は、顔を見合わせた。
「服を脱ぐの、大変だし」
「……」
「……」
「下穿きな」
「治ってから、いくらでも」
軍医が言った。
*
「ドゼ将軍が、負傷した!」「ケールを見事に奪取し、そして長い間擁護してきた者は、この障壁を通り抜け、ライン右岸へ進出しようとしていた」「そして彼は……幸運が彼の勇気を裏切ったことに絶望している!」
パリの総裁政府や、
それだけじゃない。
オーストリアの司令官までもが、表敬訪問に訪れたのだ。今年60歳になるラトゥール元帥と、35歳のローゼンバーグ将軍が、ドゼ将軍の元を訪れた。兵器廠とストラスブールの記念碑を訪れたついでに、立ち寄ったという。
ラトゥール元帥は、マンハイムの予備軍を管理していた。先の戦いで、ライン河下流でオッシュのサンブル=エ=ムーズ軍にさんざん叩かれたヴァーネック将軍が予備軍を要請してきたが、ラトゥールは、出撃を許さなかった。
予備軍を、ライン・モーゼル軍の為に取っておいたのだ。彼は、ライン・モーゼル軍の本当の指揮官が誰か、知っていた。それは、新司令官のモローではない。前回の戦いにおいてさんざんオーストリア軍を翻弄し、流暢なドイツ語で交渉に臨み、挙げ句、ケールの要塞を空っぽにして立ち去った、ドゼである、と。
だからこそラトゥールは、
もっとも、マンハイムにいたオーストリア予備軍が動く前に、イタリアから停戦が齎されたわけだが。
ドゼ将軍の病室を訪れたオーストリアの二人の将校は、年若いかつての敵に、惜しみない賛辞を送った。
軍の将校らも、ちょくちょく、様子を見に来る。サン=シル将軍が来ると、ドゼ将軍は、とても嬉しそうだった。
2人は、長い間、一緒にいる。
ぺらぺらとしゃべりまくるドゼと、黙って聞きながら、時折、鋭く問い返すサン=シルは、対照的な友人だった。
レイニエ将軍の時は、俺や、サヴァリ、ラップ(上アルザスでの腕の怪我は、とっくに治っていた)。は、病室から追い出された。
レイニエは、ライン軍司令官モローの参謀だ。彼は、書類の束を持ち込み、ドゼ将軍と、暗い顔をして話し合っていた。
「金の話だろう」
訳知り顔で、ラップが言う。
「どうせまた、足りないんだ」
俺達は、廊下にいた。レイニエの訪問は長引くので、このまま、司令部に帰ることにした。
「そういえば、ピシュグリュが、五百人会の議長になったって、知ってるか?」
歩きながら、サヴァリが尋ねた。
1795年10月(俺達が、マンハイムに立て籠っていた頃だ)に成立した総裁政府は、二院制だった。トップは5人の総裁で、その下に、
その五百人会の議長に、ピシュグリュが選出されたというのだ。
ピシュグリュは、かつてのライン(・モーゼル)軍総司令官である。彼はライン方面軍の司令官を、二度、務めている。
一度目は93年、この時は、モーゼル軍の司令官オッシュとウマが合わなくて、すぐに北の低地地方へ転出した。
二度目は、95年。マンハイム包囲戦の年だ。俺達が、あらゆる物資の欠乏したマンハイムで籠城している間に、ピシュグリュは、できたばかりの総裁政府に、辞表を提出していた。翌年3月まで司令官を務め(実際戦っていたのは、ドゼ師団をはじめとする、師団だった。ピシュグリュ軍は、撤退するだけだった)、彼は、軍務を退いた。そして、五百人会の議員になった挙句、ついに、議長の座に納まったのだ。
「うーん、
俺はうなった。
彼は、ドイツ語ができないと言っていたが、あれから、できるようになったのだろうか。
「ライン軍の司令官としては、俺は、
ラップが口を出す。
「オランダで、モローは、ピシュグリュの下にいたというけど、2人は全く、正反対だ」
「モロー」
くすりとサヴァリは笑った。
「『
「行き届いた花嫁だ」
俺が付け足す。
「
ケールを明け渡した後、ディアースハイムの戦いに討って出ることができたのは、モローが、パリの総裁政府に話をつけて、金を引き出してくれたお陰でもある。
総裁政府から金を持ち出せと、モローに指示したのは、ドゼ将軍だが。
「何にしろ、金がないのは、まっぴらだぜ」
太陽の下に出た。大きく伸びをして、ラップが言う。
「イタリア軍には、金も物資も豊富にあるって聞いた。ライン軍から転籍になった知り合いがいるんだ。ボナパルト将軍は、給料を、ちゃんと支払ってくれるそうだ」
三人そろって、ため息を吐いた。
俺達の給料は、まだ、未払いが清算されていない。
───・───・───・───・───・
*1 花嫁 la Mariée
ライン軍におけるモローのあだ名。モローは、Jean Victor Marie Moreau。"Mariée" と "Marie" を掛けたものと思われる。
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