第28話 可憐な花の名
部屋に入ると、寝息が聞こえた。食事を(「あーん」で)済ませ、ドゼ将軍は眠ってしまったようだ。
寝息は、不規則で苦し気だった。抜き足差し足で、俺は寝台に近寄った。
固く目を閉じ、彼は、真っ赤な顔をしていた。吐く息が荒い。どうやら、熱があるようだ。額に、玉のような汗を、浮かべている。
ルクレール将軍は、いつも通りだと言っていたが、ドゼ将軍は、イタリアからの使者の前で、相当、無理をしていたのだろう。
時折呻き声を上げて、身を捩っている。
見かねて、隠しからハンカチを取り出した。妹が持たせてくれた柔らかいハンカチだ。随分長いこと洗濯をしていないが、大切に持ち歩くだけで、一回も使ったことがないから、大丈夫だろう。
ベッドの脇には、丸い椅子があった。さっきルイーゼが腰かけていた椅子に違いない。ここに腰かけ、彼女は、ドゼ将軍に甘い言葉をかけ……。
首を振り、俺は椅子に腰を下ろした。畳んだハンカチの角で、そっと、将軍の額の汗を吸い取った。
一際苦し気に、将軍が唸った。
「痛いですか?」
目を瞑ったまま、眉間に皺が寄る。再び、低い呻き声が上がった。
痛まないわけがないんだ。脚を銃撃されたのだから。こんなに高熱が出ているし。
部屋の隅には、汲み置きの水があった。桶に入った水に、俺は、ハンカチを浸した。
湿らせたハンカチを、そっと将軍の額に載せる。
幼かった頃、俺が熱を出すと、母はよくこうして、額を冷やしてくれた。気持ちいいんだよ、これ。熱のある額には。
唸り声が止んだ。
ほっとした。再び、俺は椅子に腰を下ろした。
眠ってるんじゃ、話もできない。レイの言った通り、彼には休息が必要だ。あいつは意地悪なひねくれ者だが、ドゼ将軍への忠誠だけは、評価できる。
高熱に喘いでいる人を、一人きりにしておくのは心配だった。ルイーゼとやらが戻ってきたら、入れ替わりに帰ろうと思った。
だって、ずっと一緒とかなんとか、言ってたし。将軍も、彼女に甘えていたようだったし。
俺といるより、「愛人」といた方が、彼もずっと幸せで、くつろげるだろう。それくらいのことは、俺にもわかる。
だが、いつまで待っても、ルイーゼは、戻って来なかった。母親の部屋に盆を置きに戻ったのだろうが、いったい何をしているのだろうか。愛人がこんなに苦しんでいるというのに。
ハンカチは、すっかりぬくまっていた。俺は再び水に浸し、絞った。桶とベッドの間を往復し、何度かそれを、繰り返す。
4度目に、ハンカチを濡らしてきた時だ。熱を測ろうと、額に載せた俺の手首を、ドゼ将軍が、ぎゅっと握った。
「おげっ」
思わず変な声をあげてしまった。勇敢な軍人にあるまじきことだが、不意打ちだったので、仕方がない。
あろうことか、俺の手首を握る熱い手に、力がこもった。
「ちょっと、ドゼ将軍、」
愛人と間違えたのだろうか。いい迷惑である。いくら尊敬する将軍でも、やっていいことと、悪いことがある。たとえ、眠っていても、だ! この俺、ダヴーを、女と間違えるなんて!
なにしろ相手は、怪我人だ。しかも、発熱までしている。手荒な真似はできない。そもそも上官だし。
握られていない方の手で、指を、一本一本、引きはがそうとしていた時だった。
「行かないで。ここにいて」
幼児が、母親に甘えるがごとき声。
「お願いだから、マルグリット」
愛し気に、切なげに、ドゼ将軍は、その名を呼んだ。
信じられない。ドゼ将軍の口から、こんなにも甘やかで優しい声が漏れるなんて。
今まで俺は、罵声しかかけてもらったことがないぞ。
いや、それどころじゃない。眠っているくせに、その上、怪我人にあるまじき馬鹿力で、彼は俺を、ぐいぐい、ベッドの中に引き入れようとしているのだ。
「ドゼ将軍! それ! 俺の手! だから!」
慌てたので、
……ん?
……マルグリット?
ルイーゼじゃないのか。
そういえば、ドゼ将軍には、片想いの従姉妹だかハトコだか何だかがいるようだと、サン=シル将軍は言っていた。
まるで、思春期の子どものような話だと、俺は思った。ピュア過ぎて、ドゼ将軍には、全くふさわしくない。
だが、どうやらそれは、真実だったらしい。
マルグリット。
……それにしても。
しつこい手を、邪険に振り払い、俺は首を傾げた。
好きな女性がいるのに、愛人を持つ。それって、結構なロクデナシじゃね?
ぽっかりと目が開いた。黒い瞳が、ぼんやりと俺を見つめる。
「……」
「ドゼ将軍?」
「ダヴー」
見る間に、焦点が合った。生き生きとした光が、その目に宿る。
「饐えたような臭気がする。確かにダヴーだ」
いつもの彼だった。胸がいっぱいになった。長い間、言いたかった言葉が、勢いよく口から迸る。
「将軍。俺は2回、敵を、陣営から放り出しました。ライン軍は、勝利目前でした」
「2回も。2回、君は、敵から勝ちを奪ったのだな」
全くいつもの調子だ。確認し、正確を期し。慎重な、注意深い、ドゼ将軍。
「はい。翌日、敵の左側面を撃破しました」
「よくやった、ダヴー」
思いもかけない誉め言葉だった。いや、期待はしていたのだけれど。
「もももも、もう一度、」
その口から言葉をもぎ取り、心の中に隠し持っている、大切なものを入れてある壺に、保存する為に。
「君は、頑張った。その上に、成果を出した。素晴らしいことだ。ダヴー、俺は君を、誇りに思う」
「! !!!」
全身を、喜びが駆け抜けた。病室でなければ、躍り出したい。
とうとう、ドゼ将軍に褒めてもらった!
あの、ドゼ将軍に! 俺の理想、憧れの人に!
将軍は、微笑んだ。肩肘をついて起き上がろうとする。傷が痛んだのだろう。顔を顰めた。
「そのまま、寝ててください」
「いや、もういいんだ。明日には、軍医が、車椅子を持ってきてくれる。そうしたら、ベッドから机へ移動できる。仕事を始められるぞ」
「まだ、熱がありますよ?」
「出血したからな。体の自然な反応だよ」
実際、眠っていた時より、具合はよさそうだった。痛みを堪え、ドゼ将軍は、無理矢理、半身を起こした。
「ダヴー。デュエズムの具合はどうだ?」
デュエズム将軍は、真っ先に渡河し、腕を撃たれた師団長だ。俺の船からは、彼が身を起こし、鼓笛手の太鼓を奪って、剣の柄で叩き、兵士達を鼓舞し始めたのが見えた。だが、先を行っていたドゼ将軍の船からは見えなかったのだろう。
不安の色が、黒い瞳に宿っていた。俺の返事を待ちながら、子どものように、ドゼは怯えていた。
「大丈夫。あなたほどひどくはありません。彼はもう、新聞を読んだりしてますよ」
俺が答えると、安心したように、その顔が綻んだ。
「明日になったら、手紙を書こう。脚の悪い将軍が、腕を怪我した将軍に手紙を書くんだ」
くすりと笑う。銃撃され、熱のある体で、なおも笑いを浮かべる、その心の豊かさ。思わず彼に見惚れてしまった。
「ダヴー、お前、袖が濡れてるぞ」
指摘され、はっと我に返った。
俺はまだ、妹のくれたハンカチを握りしめたままだった。緩く絞っただけのそれから、雫が滴り、手首の奥まで濡らしていた。
「しまった! きつく握ったからだ」
「馬鹿だなあ」
むっとした。
「あなたが俺の手を握り締めるからですよ!」
「君の手を? この俺が? そんな気色の悪いこと、するものか!」
「しました! これで……妹がくれた大事なハンカチですよ? 新品だったのを、初めておろしたんです……、あなたの熱を冷やしてあげてたんです。そしたら、あなたが、俺の手を、こう、ぎゅっと」
両手を使い、その時の様子を再現して見せる。
「覚えてない……」
ドゼ将軍は、心の底から気色悪そうな顔をしている。気色が悪いのは、俺も同じだ。
「あなたはよく眠ってましたからね。熱で苦しそうだったけど」
「ふうん」
それから、いかにもさりげなさそうに、彼は尋ねた。
「俺、何か、言ってたか?」
「女性の名前を、口走ってましたね」
遠慮なく、証言してやった。
「へえ。エリーゼ、って?」
すっとぼけている。
エリーゼは、兵士達に人気の女の子だ。ベッドにもぐりこむまでに、2週間かかるという……。
「違います。確か……」
俺は、ドゼ将軍の顔を窺った。さすがに頬がこけ、やつれて見える。
「フランソワーズ、とか」
「フランソワーズ!」
将軍が手を打ち合わせた。
「姉の名だ!」
明らかにほっとしている。
……マルグリット。
あの切ないくらい愛し気に呼ばれた名を、決して、忘れたわけではない。ついでに、それが、
騎士の情けというやつだ。サン=シル将軍から、ドゼ将軍の姉妹の名を聞いておいてよかった。
「お母さんの名前を呼ばれたら、どうしようかと思いましたよ」
俺が言うと、ドゼ将軍は笑った。
「母とは随分会ってないからなあ。もう、5年半、会ってない」
「信じられない! そんなに長く母さんに会えなかったら、俺なんか、死んじまう!」
そういえば、ドゼ将軍は、殆ど休暇を取らない人だった。休戦期間も、部下を連れて、あちこちの土地の、地形調査に出掛けたり、普段会えない戦友を訪ねたりしている。
そうした地道な調べや獲得した人脈が、見事な戦略に繋がってくるのだ。
「ドゼ将軍、あなたは今や、有名人だそうです。ディアースハイムの戦闘で怪我をしたことは、新聞にも載りました。心配して、お母上の方から、会いに来るかもしれませんよ?」
うちの母さんなら、すっ飛んでくる。
「俺の母は、厳しい人でね」
ドゼ将軍は、首を竦めた。
「一人で寝ている方が気楽でいいよ。よっぽど、療養になる」
そうか。
厳しいお母さんに育てられると、ドゼ将軍のような人になるのか。
勇敢で高潔、自分を顧みず、自分を撃った奴の命さえ、助けるような。
……。
俺の母さんが、優しい人で良かった。多少放任主義でも、その方が、よっぽど。
俺は、自分の太ももを撃つようなやつを、生かしておけない。部下が敵討ちしてくれるかどうかは、自信がない。なにせ、ドゼ将軍と違って、俺には人望がないからな。だが、もし、部下の兵士が、敵に向かって銃剣を振り上げたなら、俺は、最期の力を振り絞って、全力で加勢するだろう。
自分を殺そうとした奴の助命をするなんざ、人倫に悖る。ドゼ将軍は人間じゃねえ。彼は、聖なる存在だ。
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