第二十九話 そして混沌へ

「うぉっ……!!」

 ドーズは風にあおられる小屋の中で身を捩った。倒れ込んでくる支柱や梁から身体を守ろうとしても、手足の鎖が邪魔でどうにもならない。もがくうちにも、壁面が背後から倒れ込んでくる。気が付けばドーズは、崩壊した小屋の下敷きになっていた。その衝撃で鎖は千切れたようではあるが、今度は身体全体が動かず、そして呼吸ができない。


 これまでか、と彼は思った。しかし、この突風は自然のものであろうか……?

 このような風が吹くことは、彼がこの地帯に赴任してから経験の無いことだ。


 そのとき、彼の腕を掴み引っ張り上げようとする手があった。身体が少しずつ浮上する。木っ端になった屋根の隙間から、彼の手を懸命に引く者の姿が目に入った。

「……ザキナ!」

 彼女の顔には汗が滲んでいる。栗色の髪を乱れさせながら、力の限りドーズの手を引く。ザキナの渾身の力により、ドーズは漸くその身を崩壊した小屋から脱出させた。


 ザキナは息を弾ませつつ、ただ、その美しい緑色の瞳でドーズを見つめるのみだ。

 ……そんな彼女の手に握られていたのは、ドーズの銀筆だった。


「今の風は、お前の画力か……!」

「……そうよ」

「どうしてここに来た! お前は追われている身なんだぞ!」

 ドーズは思わず木くずだらけの顔で叫んだ。ザキナが呟く。

「それは……あなたを……助けたかったから」

「大馬鹿者……!」

 そう言いながらドーズは傷が痛むのも忘れて、ザキナの小さな身体を抱きしめた。


 お互いの身体の熱が、冷えきった身に染みる。ドーズはそのとき、初めて、その存在を愛しいと思った。守り通したかった者がここにある、と実感した。

 喩えその正体を、策謀を、知ってしまったとしても。


 だが、ザキナがドーズの胸の中で、小さく呟いた。

「もう行かなきゃ」

 そう言いながら、ザキナはドーズの身体からそっと離れた。

「私は、私のやるべきことを、しなきゃ、いけない」


 ザキナは泣き笑いのような表情を浮かべ、ドーズに寂しげな笑みを浮かべる。ドーズはそのザキナの意を瞬時に察して、叫んだ。

「止めろ、ザキナ。この世を“混沌”に、ひいては“無”に還すなど……! お前自身も消え失せてしまうんだぞ……!」

 ザキナは今にも泣き出さんばかりだ。だが、同時に、その腕は手にした銀筆を空にゆっくりと空にかざしつつあった。

「ごめんなさい、大尉。私には……もうこれしか方法がないの。私、知ってしまったから。“混沌”を生み出す方法を」

「……方法?」

 ザキナはこくり、と頷いた。


「“混沌”を生み出すには、のように、全ての色を、自然を、一度に発動させ、重ねること……」


 そう言うと、ザキナは銀筆を空に振るい、文様を描いた。全身の力を奮い立てて。



「我が絵よ、世界を司れ!! まずは……光!」


 途端に草原に閃光が渦巻いた。激しい輝きがドーズの目を打つ。眩しさに目を開けてられないほどだ。

 手で目を庇いつつも、ドーズは声を限りに叫ぶ。

「止めるんだ、ザキナ!」

 しかし、ザキナは、立て続けに空に文様を描き、画力を発動させることを厭わなかった。


「つぎに、緑……!」


「さらに、水……!」


「続けて、風……!」


「広がれ、闇……!」


 空が、数多の自然と、その色彩の奔流にめまぐるしく発色し、点滅し、炸裂する。


 地面に緑が萌ゆる……。

 ……宙に水が逆巻く。

 空に風が唸る……。

 ……空間に闇が覆い被さる。


 ……そして全てが一挙に混ざり合った世界に、最後の画力を発動すべく、ザキナは銀筆で自らの手首を抉った。

 手が血で染まる。銀筆が血に染まる。


 そのとき、どこか遠くから自分の名前を叫ぶ、ドーズの声がザキナの耳に響いた。

 ザキナは思わず、哀しみを滲ませた笑みを口に浮かべ、囁く。


「……ドーズ大尉、あなただけは、消し去ってしまいたく、無かった……」


 そして、その想いを断ち切るか如く、遂に、ザキナはその血の滴る銀筆を、濁った色の空に躍らせた。


「これが……最後よ! ……炎!!」


 血の如く赤い炎が、世界に、迸り、爆ぜる。


 

 次の瞬間、世界の色は混沌と化し、全てが無に還った。

 

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