Ⅳ ふたりきりで往く

第二十三話 朝の光と追憶と

 いったい、どのくらいの時間、馬を走らせたであろうか。


 激情の渦から来る心の痛みと、火傷から来る身体の激痛。そのふたつにドーズの脳内は翻弄され、彼には時間の感覚がもはや掴めなかった。ただ、陣地を飛び出してから大分時間が経過しているのは、星座の傾きと、東の空の白み具合で確かめられる。そして星の位置から、自分が馬を走らせている方向は、かつてのドーズの勤務地、国境警備隊の駐屯地の方向であるということにも気が付いていた。


 いつしか、ドーズは抱き上げたザキナを、火傷の痛みから何度かその手より離してしまいそうになり、馬の歩を緩めることにした。

 ……もう、大分時間は稼いだ。追っ手が来ているとしても大丈夫だろう……。

 そう思うドーズの目の前に、見覚えのある小さな丘が現れた。この丘を越えれば、草原はやがて終わりを告げ、国境地帯に広がる荒地に入るはずだ。ドーズの頭のなかで見えざる地図が展開する。

 ……その前に、どこか水のあるところで休憩を取らねば。


 ドーズは馬を止め、まばらに草が生える地面に降り立った。そしてそこにザキナをそっと横たえる。空を仰げば、ちょうど地平から太陽が昇り始める時分であった。朝の光が2人をさあっ、と包む。


 すると、そのとき、まるでその光に促されるように、ザキナがゆっくりと目を開けた。緑色の瞳に、朝の煌めきが跳ねる。焦げた跡が痛々しい栗色の髪にも、その日、産まれたばかりの陽が躍る。


「ザキナ! 気が付いたか……!」

「大尉……私は、ずいぶん、眠っていたのね……」

 ザキナの口調はしっかりとしたものだった。どうやら記憶も確かであるらしい。ドーズは大きく安堵の息を吐いた。

「よかった……お前が死ななくて、本当に良かった…・…、もし、命を落としていたら、俺はまた、一生、後悔の念を抱いていくところだった……」

 ドーズは思わずその溢れる思いを身で表すように、ザキナの半身を起こすと、その身体を抱き寄せた。


 ザキナの心臓の鼓動が、ドーズの頬に伝わってくる。


 ……ああ、この子は確かに生きている。俺はなんとか、この子を守ることが、できた……。ドーズの胸のなかに、それまでの感情の渦が、得も知れぬ幸福に変わって、満ちあふれた。

 そのまま、どのくらい時間が経ったのか。ドーズはゆっくりとザキナから身を離し、話しかけた。

「身体は大丈夫か? さぞかし傷が痛むだろう」

 ドーズに抱き寄せられるままに、その身を任せていたザキナが顔を上げた。

「ううん。そんなに痛まないわ……」

「さすがに若いだけある。たいした治癒力だ。医者が一回匙を投げたとは到底思えんな」

「ねえ、大尉」

「なんだ?」

、ってどういうこと?」

 そこでドーズは、思わず感情の昂ぶりのあまり、余計なことを口走ってしまったことに気が付き、表情を翳らせる。

 ……だが、やがてドーズはゆっくりと、自らの過去の記憶を口にし始めた。


「昔、まだ俺が若くて、王都にいた頃だ。好きな女がいた。彼女も俺を好いてくれて、一緒に暮らしていたんだ。……ビエナという女だった」

 そこでドーズは一旦言葉を区切ると、目を瞑った。

「だがその暮らしは長く続かなかった。ビエナは憲兵にある日突然、逮捕された。彼女はその結果、拷問によって死んだ。何の疑いかは今も分からぬ……」

 目を瞑ったままの、ドーズの眉間の皺が一段と深くなる。やがて、朝日の光のなかに俯いて、ぽつり、と呟いた。

「俺は彼女を助けようとしたが、助けられなかったんだ」

 ザキナは黙ってドーズの言葉ひとつひとつに耳を傾けていたが、しばらくの後、ドーズに問うた。

「ねえ、そのビエナってひとは、私に似ている?」

 ドーズは少しの間、考え込んでいたが、視線をザキナの顔に移すと、こう語を継ぐ。

「……ああ。顔立ちは違うが、髪の色と瞳の色が、そっくりだ」

「そう……」


 それから2人は、それぞれ別のことを、世界がすっかり朝に包まれるまで、そのままの姿勢で考え込んでいた。

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