Ⅰ 少女は絵を描く

第一話 廃坑に囚われた少女

 雨がざんざんと降り続ける。

 いつ止むともしれぬ激しい雨が天から降り注ぐ。山へ通じる道は泥濘み、ドーズの軍靴を茶色く湿らせる。それでも、水分と泥により重みを増した足をなんとか前へ前へと動かそうとドーズは試みる。しかしその歩みに反して、彼の心中には疑問が湧かずにいられなかった。

 思わずドーズは天を仰ぎひとり呟いた。

「……こんな荒れ果てた山などに、人など居るのか? いくら先の戦の残党が逃げ込んでる、との、情報が斥候からあったとはいえ」

 さりとて、天から答えなどない。

 ドーズは大きく息を一つ吐くと、足を止めて目前に迫る山を見上げた。緑ひとつない褐色の禿山がそそり立っている。その斜面には、かつてまだ、この山に鉱脈があったころの名残か、採掘跡の穴が無数に黒い口を開けているのが認められる。だが、それはもう過去の遺物だ。ドーズが知る限り、もう百年以上前にこの鉱山は廃坑となり、打ち捨てられたとされている。よって、人気どころか、獣をも含んだいわゆる生気というものが全く、研ぎ澄ましたドーズの五感にも感じられない。

 まるでこの世界にたったひとり、生き残ってしまったかのような錯覚にドーズは陥り、慌てて、白いものの混じった頭を振った。

 ドーズはすっかり濡れてしまった短い髪を、さっとローブで拭うと、命じられた獲物を求めるべく、腰に下げた短剣を手に取り、ひとまず、廃坑のいちばん大きな穴を目指して、再び足を運びはじめた。

 

 一番大きな採掘跡の穴の中に潜り込んで、ようやくドーズは人心地を得た。ここなら雨に濡れることはない。中年をとうに過ぎた歳の体にはこの任務は些かきつい。

 ……少しここで休もう。

 ドーズは懐からなんとか濡れずに済んだ火打ち石を、荷物の中からカンテラを取り出すと、そこに火を点した。途端に穴のなかに光が満ちる。ドーズの影が、穴の側面に映し出された。それをなんとはなしに目で追っていたドーズだったが、暫くの間を置いて、はっと目を見開いた。穴の側面に、何かが描かれていたのだ。

「絵? こんなところに、一体誰が……?」

 それは文字とも絵ともつかぬ、何らかの文様の羅列だった。または、子どもの無垢な落書きのような。

 ドーズはカンテラを「絵」に近づけた。その絵は、穴の奥へと、奥へと、連なって描かれている。ドーズは息を震わせながら、その絵を追って、穴の深部へ導かれていった。穴はさほど深くなく、やがて、カンテラの明かりはすぐに行き止まりを照らし出した。

「あっ……!」

 ドーズは思わず息を飲んだ。

 信じられない風景が、目の前に広がっていた。

 暗闇の中に、花が満ちていた。

 白い野薔薇のような可憐な花弁が、穴の行き止まりをまるで飾り立てるかのように咲き誇っている。花を敷き詰めたかの如く、その一角は花に埋め尽くされ、妖しげな芳香すら微かに漂っている。

 そして……その花の真ん中には……少女がひとり、手足を鎖に繋がれて座り込んでいた。 

 ドーズは慌ててその少女の顔をカンテラで照らして、覗き込む。微かな呼吸音が聞こえる。だが、意識は無いようだ。その顔はカンテラの頼りない明かりでもはっきりとわかるほど、青ざめ、唇は紫色に近く、まるで死人のようだった。

 だが……生きている。

「おい! おい、しっかりしろ!」

 ドーズは少女の肩を揺さぶった。少女の乱れ放題の栗色の長い髪が激しく揺れる。不意に、少女の目が開いた。虚な光を浮かべながらも、緑色の瞳がドーズを覗き込んでいる。……どこかで見たような顔だと意識の向こう側で声がするが、ドーズが行ったのはまず、誰何の問いを少女に投げることだった。

「え……? 私は、ザキナ……あなたは?」

 囁くような声で少女が名乗った。

 その声音は、一千年の眠りから覚めたか如く、頼りなく、弱々しい。ドーズは水の満ちた革袋を取り出し、その口を彼女の唇にそっと差し入れた。こくこくっ、とザキナの喉がなり、少しずつ水を口に含む。

「俺はドーズ。アマリヤ国の国境警備隊の大尉だ。ここには任務で来ているのだが……、ザキナとやら、お前はどうしてここに?」

 ザキナは水を与えられたことで、身体に少し生気がみなぎったようだ。

 それを確かめた上で、ドーズはザキナに問うた。水を飲み干したザキナは、濡れた唇を動かして、その問いに答えよう……とした。したが、その唇からはドーズを満足させる言葉は出てこなかった。

「……わからない」

「お前の他に、ここには誰かいるのか?」

「……わからない」

「なぜ、お前はここで鎖に繋がれている?なにか罪を犯したのか?」

「……わからない」

 ザキナの表情は、答えるたびに戸惑いを増す。見た目はまだ15.6歳くらいのようだが、それも不確かだ。

 ……どうやら、本当に、自分の名前以外に、なにも、わからないのか……。

 ドーズはどうしたものかと、穴の奥に広がる野薔薇の絨毯のなかに座り込んだ。 

 果たして、この少女が、自分が任務によって探し求めにきた者なのか?いや、違うだろう。とても敵国の残党とはドーズには思えない。

 しかし、このまま、ここにこの少女を置いていくわけにもいかぬ。さて。どうするべきか。

 野薔薇の香りがこの場に不釣り合いな芳しさで、思案するドーズの鼻腔をむず痒くくすぐった。

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