三、御伽噺の実態の正解は

 秋村が初めて来なかった日、僕は特に何も思わず帰宅した。きっと彼女の気が乗らなかったか、体調でも崩したか、それとも予定が入ったかのどれかだろうと思って、大して気にも留めなかったのだ。ただ、その日の出来事だけで毎週来るのは止めよう、とは思わなかった。彼女と合わせる演奏が思いのほか心地よくて、それを楽しみにしている僕がいなかったかと言えば、それは嘘になるだろう。


 そうしてあっという間に一週間は過ぎ、今日はいるだろうかと思いながらサークル室のドアを開いた。果たして、彼女はそこにいた。いつもの人魚の姿で。


「あ、東雲。先週はごめんねえ、急にこれなくなっちゃって」

「別に気にしてないよ。無理してくるほどの事じゃないだろうし」


そっか、と呟く彼女の声がいつになく湿り気を帯びていたような気がしたが、僕はいつもの調子で聞き逃した。どうにも僕は都合のいいように解釈したり、言葉を流す癖がある。そのことは他の友人から指摘されてきたことであり、この考えによって気を病むことからは縁遠いものの、話を聞いていないと誤解されることが多々あった。言い様によっては、それはあながち間違いでもないのだろう。


「今日はどうする?また合わせる?」

「合わせようかあ」


いつもの調子でケースからヴィオラを取り出せば、彼女もゆらゆらと髪や鰭をありもしない水になびかせながらハープの椅子に座る。彼女の細い腕が持ち上がり、いつでも準備万端、と瞳を輝かせて合図を送られる。それを受け取って、今日は何を弾こうかと思考を巡らせてゆく。華やかな雰囲気の曲を思いついて、僕はまた先陣を切る。




 弾いて、弾いて、休んで、また弾いて。時々雑談をしたり秋村が空中を泳ぐように滑っていくのを眺めたりしながら、僕らはひたすら弾いていた。いつにない全力の音でぶつかってくる秋村に内心驚きつつ、僕も負けじと和音を響かせた。普段の彼女は主張よりも調和を重んじた演奏を心掛けるため、ハープを使った、いっそ暴走とでも言うような弾き方には思わず遅れをとりかけた。また何でもないような涼しい顔の秋村はふわりと宙がえりをして僕を見た。


「今日はどうしたのさ、随分元気なタッチだけど」

「んー…なんとなく、そんな気分でさ」


曖昧な返事とともに、彼女は窓辺に張り付いた。ここは4階だが、宙を浮ける彼女には高さなど関係ないのだろう。遠くを見つめるその瞳が煌めきを放っている。橙色手前の空が、帰宅の時刻が迫っていることを知らせていた。


「もう一曲どうかな」

「うん…あのさ」

「ん?」

「…いや、何でもないや」


僕は最初の考えを改めざるを得なかった。気のせいではない、今日の彼女は何かおかしい。しかし、その正体が何なのかを探るほどの度胸がない僕は、精々その言葉をいつも通り流した振りをすることしかできなかった。最後の曲はどうしようかと無理やり思考回路を切り替えて、ヴィオラを構えなおしてから座った彼女を見ると、既に一瞬見えた憂いの色を消し去ったいつもの楽し気な表情がこちらを見ていた。




 最後の合奏が終わる頃、外はとっぷりと日が暮れていて、若干冷えた空気が窓越しに感じ取れるほどになっていた。全力で駆け抜けるような、まるで魂を込めたような弾きっぷりに押されてつい白熱してしまった。余韻で騒がしい心のうちを沈めたくて帰り支度を始めると、秋村が声を掛けてきた。


「ねえ、東雲」


その声色は重たく、嫌でも何か重要なことを伝えようとしていることが分かる。顔をあげると、予想通りの真面目な顔をした秋村が僕を見下ろしていた。


「どうしたの」

「…あのさ、私、君のことが好きなんだ」


衝撃的な言葉だった。どのくらいかって、まるで頭を鈍器で殴られたかのような感覚すらあった。信じられない、という表情が出てしまったことが僕自身ですらわかるほど、表情筋が強張った。嫌という感覚は無かったが、それでも驚きのあまり言葉を失った。丁度、初めて彼女の姿を見た時のように。何か、返さなくては。咄嗟に思った僕は口を間抜けにも開け閉めするだけの生き物になってしまった。それを遮ったのは、目の前の彼女だった。


「ああ、返事はいらない。もう時間が無いし…」

「え、それはどういう」

「気にしないで。あと、もう来週から律儀にここへ来なくて大丈夫だよ」

「待って」

「待たない。ね、これまでありがとう。私の事も、さっき言ったことも、一緒に演奏したことも、全部忘れて過ごして」

「どうして」

「…どうしても。絶対、忘れて気にせず過ごしてほしい。ほら、もう帰らなきゃだよ、遅くなっちゃう」


秋村はなぜかそんなことを言いながら、ずっと晴れやかな顔をしていた。しどろもどろになる僕の上着を僕に羽織らせて、荷物をわざわざ拾い上げて、サークル室のドアへ導かれた。ありがとう、と優しく響く声でもう一度言われて、背を押された。


「待って、秋村!絶対…絶対、来週返事するから!ここへ来て!」

「…出来たら、ね」


無情にも、サークル室のドアは目の前で閉められた。あの黄金の瞳の残像が目に焼き付いた。今にも泣きそうな表情は、隙間から見えた最後の秋村の顔だった。暫く僕はその場に立ち尽くしていた。あんまりな展開に、歩くどころではなかった。




 その日の翌々日、金曜日。弦楽同好会のグループチャットに緊急の集合がかけられた。僕が入ってから初めての緊急を伴った報せは、先輩たちも同様らしく戸惑いながらもサークル室に座っていた。一部の女生徒が泣いているが、その中に秋村の姿は無い。緊急招集とはいえ都合のつかない人もちらほらいるようで、何人かは欠けていたが、このサークルが始まって以来なのではという出席率だった。そんなに広くない部屋がより一層狭く感じられる。今日集まれる人が全員来たようで、まとめ役が立ち上がった。


「えー、何人かは知っていると思いますが…昨日、同じサークルに所属していた秋村響さんが、亡くなられました。原因は脳出血。歩行が困難になったことによってかなり前から入院していたとのことですが、植物状態だったかな、えー僕もあんまり詳しくは聞いてないんですが、何か悪化したようで、そのまま…今日の招集は、そのお知らせです」


その場が水を打ったように静まり返り、女生徒のすすり泣くのがやけに反響する。僕は呼吸手段を奪われたかのように息苦しくなった。自分の鼓動がうるさい。なぜだ、彼女は一昨日来ていたし、実態があった。じゃなきゃ背中を押されたり、荷物を持ち上げたり、何よりハープを奏でることもできないはずじゃないか。幻だったとでもいうのだろうか。それにしては3か月間、あまりにも接触する機会が多すぎた。どうしても信じられない、と考えていると、今から希望者何人かで線香をあげに行くという。僕は迷わず名乗りを上げた。隣にいた友人が驚いた顔をしていたが、知るもんか。




 同行する各々は一旦解散して、喪服やふさわしい服装に整えてからもう一度指定された駅で合流した。僕がその駅についた時はまだ三人しか集まっておらず、まだまだ集合には時間がかかりそうだった。やることも無かった僕は、他に着いていたメンバーの中で比較的秋村に近しい人にいつから彼女が入院していたのかを聞いた。


「え…確かトーク履歴があったかな、ああ、八月七日からだと思う」


彼女も秋村と親しかった者の一人なのだろう、泣き腫らした瞼が痛々しかった。ずび、と鼻を鳴らしながら教えてくれた日付は、最初のに出会う二日前。どういうことだろうかと考えるのはお手の物だが、僕はこの件に関して答えを導き出せる気が正直しなかった。


 たどり着いた家はやはり豪勢で、この規模ならハープが置いてあっても驚きはしないな、という外見だった。出迎えてくれたご両親は憔悴していながらとても上品な姿で、母親らしきご婦人はハンカチを握りしめてこぼれそうな涙を堪えながら部員からの挨拶を聞いていた。彼女の目元に、秋本の面影があり、不意に鼻の奥がつんとした僕はそっと空を仰いだ。中に案内され、仮で設えられた仏壇とその手前にある白い棺に目が留まる。蓋は閉められておらず、今立っているところから僅かに体が見えている。一昨日まで、僕と合奏していた、重力に捕らわれずに空中を泳いでいた秋村の体が、浮きもせずに横たわっている。


「あなたも、そばに行ってあげてください」


後ろから母親にそう声を掛けられ、突き動かされるように足が動いた。他の皆は既に線香をあげて傍に座っており、僕だけが取り残されていたのだ。先に線香に火を灯し合掌してから、僕はやけに重厚な棺を覗き込んだ。横たわっていたのは毎週よく見ていた顔で、だけど手足は、当たり前だが普通の人間のものだった。あの空中に軽やかに靡いていた向こうが透けるほど薄い尾鰭も、陽光を受けて宝石のように輝いていた青紫の鱗も無い。あれは本当に、幻覚の類だったのだろうか…。僕は暫く棺の傍を離れられず、呆然と秋村の顔を眺めていた。空中を泳いでいる姿で印象的だった艶やかな髪だけは、変わらず顔の傍を流れていた。


「…ああ、ごめん。あの時の返事、用意できてないや」


自然と零れ落ちた言葉に、我ながら酷いやつだ、と思った。同時に、言いたいことだけ言って先に逝ってしまった秋村も酷いやつだ、と思ったけど、文句を言おうにも今までの事の詳細を問おうにも死人に口はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空中人魚 こんききょう @Konkikyou098

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ