二、響きの波紋の行方
あの不思議な自主練時間から一週間。今日も僕はヴィオラを引くため、身軽な格好で学校へ出てきていた。昼食がまだだった僕は途中でコンビニに寄り、サークル室で食べようと買ったおにぎりとお茶のペットボトルをビニール袋に入れてぶら下げ、目的地を目指していた。歩くのに合わせて袋ががさがさと音を立てている。
先週の金曜、あの日の二日後にサークルが珍しく本来の予定通りに開かれて、勿論僕は参加した。そこに秋村の姿は見当たらず、だが特に用事も無かったため、いないと思うだけでその日は終わった。何せ自由度の高いサークルだ、所属者は実質自由参加というところがあるため、特に気にも留めなかった。
ちなみに彼女が演奏するのはハープで、とても持ち運び出来る代物ではないために練習場所が限られる。以前家にハープがあるのだという話を聞いて、実はとんでもない金持ちの家なのではと勘繰ったが、ただの自己紹介の流れで聞いただけのためそこを掘り下げることは無かった。そもそも彼女はあまり家の話をしたがらなかった。この学校にはこのサークルしかハープを所有している団体が無かったため、このサークルを選んだのだということも聞いていた。家にあると言っているだけあって、彼女の演奏するハープの音色は聞き心地が良いものだった。
そうこう考えている内に、サークル室の前に到着した。今日は鍵がかかっているが、今度は掛看板が無い。まだいないのだろうか。ここの鍵はダイヤル式であり、番号を知っている者は簡単に入ることが出来る。値の張る楽器が何だかんだ揃っているというのに何とまあ紙っぺらなセキュリティかと考えなくもないが、簡単なので便利は便利だ。何度も開けて慣れている僕にしてみれば開けるのは秒である。かちん、と鍵が外れた音がして、ドアノブを回せば扉は開く。
「あ、東雲。今日は早いね」
ソファに、先週と同じ人魚の格好をした秋村が行儀悪く寝そべっていた。先週と言い今日と言い、彼女に危機意識はあまり無いようで自然とため息がでる。彼女の表情からしてなぜため息をつかれたのか分かっていないようだった。
「秋村、いくら普段頻度よく使うのが僕だけだからって、もうちょっと隠す努力しなよ…ここのドア開けるのがどんだけ簡単か知ってるでしょ」
「んー、まあ、大丈夫でしょ」
「わかってないな…」
もう一度ため息をついて、先週と同じように椅子に荷物を置くとビニール袋だけを持ってソファに近づいた。秋村を端に追いやり、ぼすんと勢いよく座る。
「お昼?」
「そ」
おにぎりを一つ取り出し、ぺりぺりと包みをはがす。自分は取り出すのが下手なのかいつも海苔の端が欠けるが、今日は上手くいった。音を立てて噛み千切る。選んだのは梅干で、結構な酸っぱさにじわりと唾液が口内で溢れる感覚がした。もごもごと咀嚼する僕の傍らにいた秋村は、手持ち無沙汰で退屈なのかその場を離れて泳いだ。その行先は部屋の隅に置かれたハープで、専用の椅子に腰掛けてハープの本体を引き寄せた。どうやら弾くらしい。適当に弾かれた音が余韻を残して溶けていく。
「今の秋村がそうしてると、なんか西洋の絵画みたいだ」
「やめてよそんな美人でもないのに」
「答え辛いからやめろい」
「好きに答えりゃいいじゃん…」
そういって秋村は、何かを弾くつもりも無かったようで好きに指を遊ばせた。いくつかの和音を響かせては止め、の繰り返し。まるで寝物語を語ってるみたいだ、なんて浮かんでくるのは僕の所属する学科故だろうか。今日の彼女は以前の様な適当な上着を羽織っているのではなく、材質から見て水着らしいものを着けていた。冴えるような青によって飾られた白い肌が眩しい。いやらしいような気分には程遠く、厳かな絵画でも見ている様な気分だった。
「食べ終わったら一緒に弾く?」
「珍しい組み合わせだな…無くはないけど」
「まあフルートがいるトリオの方が多いよね」
「確かね。残念、ここは弦楽ばっかだし今は二人だ」
「やらない?」
「やらないとは言ってないでしょ、もうちょっとまって…海苔が張り付いてないか見てくるから」
「ついてなさそうだよ」
何が楽しいのか、にこにことした笑みをこちらに向けながら浮かれた調子の声がそういうので、僕はとりあえず信じることにした。お茶を飲んでペットボトルを置き、黒いケースを開く。手入れを欠かさないヴィオラを取り出すと、肩に乗せた。
「さて、何があったっけ」
「実はよく知らないや」
「別に実際あるものにこだわらなくてもいいよね」
「それもそうだ」
改めて構えて彼女を見ると、金色の瞳がこちらをじっと見つめ返してきた。なんだか吸い込まれそうなそれに急いで視線をずらすと、僕は先陣を切って誰もが聞いたことのある旋律を奏で始めた。
一体何曲弾いただろうか。休みなしのメドレーにして、相手がいる楽しさに少し調子に乗ってしまった。一度休憩と言って僕は椅子に座った。一緒に同じ量を弾いていたはずの秋村は、ちっとも疲れの色を表わしていない。実は体力があるのだろうか。いや、僕は立っていたからだ、きっとそうだ。
「いやあ、二人でってのは久しぶりだけど楽しいね。東雲は上手いから合わせるのも楽だし」
「それは何よりだよ」
疲れたどころか鼻歌すら歌いそうなほど楽し気な表情の彼女に、僕はつられて笑う。僕も普段は一人での練習がほとんどだが、こうして相手と会話の代わりに音を奏でることでコミュニケーションを図るのは存外楽しい。秋村が椅子を離れて天井近くを漂う。逆さになったり一回転してみたり、こんな狭い空間だというのに自由という言葉がよく当てはまる。暫くそれを眺めていた僕は、感嘆の意味でため息をついた。こんな綺麗な生き物に、綺麗だと思わない方がおかしいだろう。このことを知っているのはおそらく世界で僕一人なのだろうと思うと、ちょっとした優越感を抱いた。
それから毎週水曜日、僕は欠かさずサークル室へ自主練をしにやってきた。秋村は必ず僕より先に居て、僕より後に帰る。いつも見送られる側の僕としては一緒に部屋を出てもいいのではないかとも思うが、きっとあの姿から帰り支度をするのに時間や手間がかかるのだろうと一人勝手に納得していた。なぜかあの時間帯、あそこにいる間は他のメンバーが来ることは無く、不思議に思いながらも水曜日はきっと皆忙しくしているのだろうとこれまた勝手な自己解釈でいた。
秋村は、時折気まぐれに開かれるサークルの本来の活動に姿を見せることは無かった。彼女と前々から親しくしている他の友人は心配していたが、そもそもすべてが自己責任の大学で本人が来ないというのなら、特に理由が無くてもおかしいことは無かった。僕としては毎週の二人の自主練で秋村が満足しているからなのではと適当に思っていた。
例の如く、今週も水曜日がやってきた。初めて人魚姿の秋村を見てから約3ヶ月が経過していた。今日も今日とて変わらず自主練、と僕はドアを開いた。
「…あれ」
いると信じて疑わなかった秋村が、今日はいなかった。遅れているのだろうか。なぜだろうと思いながらも、そのうち来るだろうと思い、僕は椅子に座ってヴィオラを取り出した。弾いていれば時間はあっという間だ。2曲も弾いていれば来るだろうと思って、弓を滑らせた。
その日、秋村はとうとう来なかった。
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