空中人魚

こんききょう

一、出会いは偶然か必然か

 なんて事のない、普通の一日になるはずだった。


 大学の校門を通って、僕、東雲しののめ海斗かいとはぼんやりと何を考えるでもなく歩いていた。右肩には大学生にありがちな無地のトートバッグを持ち、反対の手には黒いケース。このケースにはヴィオラが入っており、高校の時にプレゼントしてもらった僕の愛用している物だ。この大学は音楽に特化しているわけでもなく、僕自身普通の文学科に入っているのだが、幼い頃から好きで続けている音楽は止めていない。出来る楽器はこのヴィオラだけだが、ずっと続けていることは少し誇らしく思っていた。


 所属しているサークルは弦楽同好会で、所属人数は少なく活動日数も週に一回あれば良い方だ。音楽系のサークル棟に一応活動部屋は確保されており、サークル関係者ならばいつでも自由に入室可能だ。そんなに広くない部屋だが防音はしっかりしており、その辺は流石音楽系の棟なだけある。今日はそこで、一人自主練をするのが目的だった。今日は授業が無く、一日暇なのだ。


 部屋に来てみると、先客がいるようで鍵が開いていた。このサークルは普通中に人がいる旨を記した掛看板をドアにかけて鍵をかけているのだが、開いたままとは珍しい。もしかしたら相手も来たばかりなのだろうか。そう思いながら遠慮なくドアを開けた。


「えっ」


人の、声。僕は驚きが度を越して喉に何か張り付いたように声を出すことが出来なかった。確かに、中に先客はいた。しかし、その姿は、明らか人ではなかった。


「あぁ、あ、あの」

「ひぇ、ごっごめんなさい」


二人してどもり、僕は早急に先客に背を向けた。なぜって、相手は女性で、しかも上半身に何も服を纏っていなかったのだから!ああ、心臓が痛い。裸を見てしまったこともそうだが、彼女の姿が明らかに人ではない事が信じられなくて、だが自分で見てしまった以上幻覚だったとも誤魔化せず、もしやこれは自分の命の危機なのではと思ってしまった。そこではたと、見えた顔が知り合いによく似ていることに気が付いた。


「ごめんなさい、鍵かけ忘れてて…」

「いや…ええー間違いだったら申し訳ないんだけど、もしかして、秋村?」

「ああ、えっと、そう!秋村あきむらひびき!」


間違っていなかったことと、相手が自分の見知った人物と同一であったことに安堵して息をついた。それにしたって脳内で、何故、が止まらない。しかし、今彼女にかける言葉は一つだった。


「その、上に何か羽織ってくれる?」




 いいよ、と声を掛けてもらい、僕はようやっとドアの前で凍り付いているのを止めることが出来た。兎も角と椅子を一つ引き寄せて荷物を乗せて、自分は適当に端のソファに落ち着いた。秋村は着てきたらしい上着を羽織って前を止めており、いささ窮屈きゅうくつそうな顔をしていた。改めて目の前に浮かぶ彼女の体を見る。


「…体の様子を見る限り、人魚って言っていいのかな」

「まあ、そうだね」


正解との返事が返ってきた。上半身は人間と大体は同じ形で、色だけが日本人らしからぬ病的な白い肌をしている。脇腹のところにちらりと見えた切れ目は、魚の構造を考えるとえらと認識していいだろう。その下に続く下半身は完全に魚のもので、とはいえ本物の魚にはほとんど見られない青紫という不思議な色をしている。一枚一枚の鱗が窓から入る陽光を反射して、さながら宝石のようだ。ひれは薄く向こうが透けて見える。何より最初の一見で驚いたのは、彼女の顔だ。正確に言えば目に驚いた。人間であれば白いはずの部分は黒くなり、彼女の普段見るこげ茶の瞳は今アンバーになっていた。そこまで見て、秋村に見過ぎだと咎められて、僕は慌てて謝った。


「ていうか、怖くないの」

「え、ああ、まあ最初入って来たときは命の危機を感じたけど…知ってる人だってわかったらそんなに」

「ふうん」

「むしろ上半身何も着てないのを見ちゃったっていう方に罪悪感をじわじわと感じてる」

「そっち?それは私の不注意と言うか、気にしないで」

「いや気にするでしょ…」


秋村は笑いながら、そっかあと言ってくるりと一回転した。この場に水が満たされているわけではないのに、長く伸ばされた黒髪がふわっと周囲に広がった。不思議と今見ている分には、嫌悪感は一切ない。非現実感は恐ろしいほど感じているが。


「どうして、その姿なの?その辺は疑問だけど。本来存在しないはずじゃん人魚なんて」

「さあ?私も正直よくわかんない。けど、夢は見たかな」

「夢で人魚になってたってこと?」

「そっちの夢も、憧れって意味の夢も。ちっちゃい頃は人魚姫の物語大好きだったし、なりたいって思ってたこともあるし」

「それでならんでしょ普通」

「まあねえ」


ふわふわと空中を泳ぐ姿はどう見ても人魚そのものだ。これが普段は同じサークル仲間の秋村だというのは中々衝撃的だ。まるで脳味噌がバグを起こしたようでありながら、時折当たる鰭の感触が現実であることを知らせてくる。


「東雲は?練習?」

「あー…そうだった、そのつもりで来たのに忘れてた」


秋村に言われてここへ来た本来の目的をようやく思い出し、時計を見てみるといつの間にか30分が経っていた。時間の経過が早すぎる。衝撃的なこと尽くしじゃあ仕方がないか、と小さな現実逃避にもならないような事を声にはせずに呟き、放置されているヴィオラを取るべく立ち上がった。


「真面目だよねえ、東雲って」

「真面目っていうか…ただ好きなことしてるだけだし」


なるほど?と秋村が納得したようなしていないような返事をするのを適当に聞き流し、ヴィオラを構えた。今はゆったりした曲の気分だ。思うがままに旋律を紡ぎ始めると、空いたソファに秋村が重力を感じさせない動作で座った。元から浮いているため重力を感じさせないのは当たり前と言えばそうなのだが、しばらくはこの光景に慣れそうにはない。視界の端には、彼女の透けた鰭が音に合わせて優雅に揺れていた。




 気付けば、窓から西日が入ってきて部屋全体を橙に染め上げていた。練習はこの辺でやめておこうと弓を下す。曲のチョイスもあって眠気に襲われていたらしい秋村がはっとした顔で僕を見た。それが何だか可笑しくてつい笑うと、きまりが悪そうに他所を向いた。


「僕はそろそろ帰る」

「そっか、気を付けて」

「秋村もあんま遅くなるなよ。誰かに見つかると都合悪いだろ、それ」

「既に東雲に見られたんだけどね…まあ、そうだね、私も君が出たらぼちぼち帰るよ」


帰り支度を済ませて、トートバッグとケースを来た時と同じように持つ。秋村はふわりと浮き上がって僕に寄って来た。


「ね、君と二人の時だけまたこの格好でいていい?」

「まあ、いいよ。今日もそうだけど毎週水曜日は暇だし、どうせ自主練に来るだろうから好きにして」

「ありがと。じゃ、また来週ね」


微笑む秋村が手を振る。それにまた、と振り返して、僕はサークル室を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る