第13話 聖職者もただの人間だから
主教座大聖堂から宮殿までは少々距離がある。両方ともディジュラー川の東岸だが、主教座大聖堂は川のすぐそばにあるのに対して、宮殿は市壁のほう、わずかに高台になっているあたりに位置していた。
ほんの少し前まで、エレミヤはそれを不満に思っていた。
主教座大聖堂はディジュラー川が氾濫を起こすと泥水で汚れる。それがマムラカの人々の総意であるような気がしていた。ルーサ使徒教会が迫害されていることの証のように感じていた。
だが、今は違う。
このくらいの距離がちょうどいいのだ。近すぎたらもっとひどく骨肉相食んでいただろう。
ルーサ人はルーサ人で静かにやったらいい。誰も邪魔はしないから好きに暮らせ。そう言われている証ではないのか。
もっといえば、主教座大聖堂をマムラカの中に建設することを許されている時点で、自分たちの存在は許容されている。
それでも宮殿と主教座大聖堂までの距離が長いのには変わらない。足腰の悪い聖キプリアヌス三世を連れて歩くにはたいへんな時間がかかった。夜も更け、月が傾き、宮殿にたどりつくころには日が昇ろうとしていた。
この間あたりの騒ぎは少しずつ治まっていった。帝都防衛隊や『
その原因の根幹を、エレミヤは察していた。
オルハンと別れてからずいぶん時間が経った。彼とイオアンの死闘にも決着がついているだろう。そして、自由同盟の志士たちはそれを見届けたのだろう。
歩きながら、エレミヤと主教はいろんなことを話した。
「あれはもう三年前のことですが」
主教が優しい声で語る。
「イオアン、という青年が訪ねてきたことがあります。とても思い詰めている様子で、苦しみ、もがいていました。彼はルーサ文化を非常に愛し、使徒教会の信仰を大切に思っているようでしたが、それと友人たちを天秤にかけることに胸を痛めていました。私はとても悲しかった。天秤にかけざるを得ないことが私の罪であるように思いました」
一歩、また一歩と踏み締める。
「ここで父母の愛に生きることを選択しようとしている自分は神に赦されるだろうか、と問いかけてきた彼に、私はこう答えました。父なる神は祈る者すべてを赦されます。お前もきっと真摯に赦しを求めれば救われるでしょう。祈りなさい。――しかし、私が彼に投げかけるべき言葉はそうではなかったのかもしれません」
司祭の最高位にある司教でさえ、自分の過去を悔いることがある。まして凡人であるエレミヤでは後悔するのなんて当たり前のことなのだ。
「彼は生まれる前に父を亡くしたと言いました。ルーサ王国が滅亡した時に戦死したのだと。そういう仲間がとてもたくさんいて悲しいと。私は頷き、そして言いました。これからはもうお前たちが父となる番です。今度はお前たちが父として我が子に残したいものを残せるように生きなさい。主はそんなお前たちを見守っておられるでしょう」
だが、彼ら過激派が残したいと思ったものと、主教たち穏健派が残したいと思ったものに、明確なずれがあった。この悲劇はそこから始まったらしい。
「祈りましょう」
「はい」
「いえ、違いますね。私がお前のために祈ります」
「と、おっしゃいますと?」
「彼らの子供世代であるべきお前のために。彼らを父として生きるはずだったお前のために」
長い道のりを歩いて疲れているだろうに、主教は一度もそんなそぶりを見せなかった。
「お前の目の前にはたくさんの選択肢があります。お父さんの後を継いでもいい。大学に通う学僧になってもいい。あるいはその両方をと欲張ってもいい。司祭にならなくてもいい。商人になって大陸を旅してもいい、ルーサ語を話す大勢の仲間がきっと協力してくれるでしょう」
エレミヤは自分の足元を見た。
「その選択肢をひとつでも奪うようなことがあってはなりません。私はそのために殉じます」
「猊下……」
「ですがお前がそれを重荷に思う必要はありません。ただ、お前も私のために祈ってください。神の御許には行けないかもしれない私のためにお前が祈ってくれたら、私はそれだけで十分報われるのです」
長い時間をかけて宮殿にたどりついた。市壁の向こう、砂漠のほうに昇る太陽の姿が見え始めた。
この間、双子はずっとエレミヤの一歩後ろを歩いてきてくれた。
「ありがとう」
エレミヤがそう言うと、二人は胸を張って「えっへん」と言った。
「もっと感謝してくださってもいいんですのよ!」
「せっかくロスもミーネもエレミヤさんのお友達でいてあげるんですから」
「もっと大事にしてくださってもいいんですからね!」
そんな双子に主教も笑ってくれた。
宮殿の中にはすぐに入れてもらえた。宮殿の正門を守る近衛兵たちは聖キプリアヌス三世の顔を知っていたのか、敬礼してから扉を開けてくれた。もしかしたら誰かが先ぶれに来ていたのかもしれない。主教とエレミヤ、そして双子はとてもスムーズに帝都防衛隊の庁舎のほうへ案内された。
豪奢な控えの間に通される。客人として迎えられているらしい。腐っても主教ということだ。ルーサ人の最高権威にマシュリク人政府は敬意を払っている。エレミヤは――そして自由同盟の志士たちは、それにもっと早く気づくべきだった。
ややして、長官室に呼ばれた。
薔薇の模様が織り込まれた赤いアリアナ絨毯に
その一歩手前に、見覚えのある男がエレミヤたちのほうに背中を向けて立っていた。長い複数の三つ編みはいつもより乱れており、緑のガウンには切り裂かれた跡があるが、間違いない。オルハンだ。
そちらのほうにも、エレミヤはかしこまった。
オルハンは一人の青年を背負っていた。黒いルーサ人の民族衣装の青年だ。しかしその服は濡れている。服自体は黒いのでわかりにくいが、その液体は、オルハンの背中、ズボンを伝って、床に赤い染みを作っていた。オルハンの足を中心に絨毯に赤い円形の水たまりができていた。
「いいタイミングだ」
文机の向こうの男が口を開いた。
「まるで示し合わせたかのようだな」
オルハンが振り返った。背中にイオアンを背負ったまま、だ。
イオアンは服から出ている首から上が真っ赤だった。タハミーネが後頭部を殴ったのでその傷のせいもあるのだろうが、本当に致命傷になったのは首からの出血だろう。頸動脈が切り裂かれ、傷口がよれている。
オルハンの背に頬をつけて眠る顔が、安らかに見えた。
「おじいちゃん、どなた?」
「口を慎め。ルーサ使徒教会の主教、聖キプリアヌス三世猊下だ」
「うひょー、すげー大物連れてきたじゃん」
主教がにこりと微笑んで「そんな大それた者ではありません」と応じる。
「ルーサ使徒教会のただの代弁者です」
「代弁者? 代表者ではなく?」
「ルーサ使徒教会という有機体の意思が顕現したものだとでも思ってください。私とそれは等しきものではありません。私はあくまで神のしもべの一人であり、神のしもべの共同体であるルーサ民族全体に寄り添う、ただの人間なのです」
胸を張って言える。これが、聖職者であるということだ。
主教が目を細める。
「また、若い命がひとつ失われましたね。マムラカのルーサ人の若者は年々減る一方です。そして私のような老いぼれが生きている」
「ひとつだけじゃない」
振り返ると、いつの間にかすぐそこにシャフィークが立っていた。『鷹』のマントをまとった青年を複数引き連れて、だ。
みんな、返り血で汚れている。
「あなたの采配ミスで多くのルーサ人の若者の命が失われたのではないですか」
エレミヤは一瞬、誰のせいで、と言いそうになってしまったが、ぐっとこらえた。
その代わりに、主教のほうに声をかけた。
「猊下」
一歩前に立つ主教を呼ぶ。
「せめて、彼らを殉教者と呼ぶことをお許しください」
主教は首を横に振った。
「それを決めるのは私ではありません。未来の使徒教会を担う、お前たちです」
エレミヤは静かに泣いた。
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